青になるまで
赤号の前で、彼は立ち止まっていた。
ただそれだけのことなのに、時間は粘つくように進まない。
早く青になれ、と心でつぶやく。
その言葉は信号機にではなく、どこかもっと深いところに向けられていた気がした。
人生も、こんなふうに間延びしている。
不要な場面だけを切り落とし、肝心なところまで一息で辿り着けたらいいのに…
そんな考えが、疲労の奥から浮かび上がる。
毎日は仕事で埋まり、手応えは薄い。かつて未来と呼んだものの輪郭がいつの間にか薄れつつある。
学生の頃、無邪気に描いていた線とは、あまりにも違う現在地。
それならいっそ、数年分を跳び越えてしまえたらと…
そう考えているうちに、まばたきをするたびに景色が変わっていることに気づく、朝は余韻もなく夜になり、春は抵抗する間もなく夏と入れ替わる。
彼は年を取り、役割を得て、気づけば誰かに説明される側の人間になっていた。
「順調ですね」と言う声が、表面をなぞる。
しかし、胸の奥に小さな空洞があった。名づけられない違和感だけが、静かに残っている。
ある日、立ち止まり、ふと過去を振り返ろうとした瞬間、理解した。
振り返れない。
何でもなかった道。
誰にも届かなかった努力。
意味がないと決めつけて、息をひそめていた時間。
それらは、最初から存在しなかったかのように欠けていた。
早送りされた人生は、滑らかで、整っていて、そのぶん驚くほど薄く、軽かった。
目を覚ますと、彼はまた同じ交差点に立っていた。
赤信号。見慣れた街。
けれど、不思議と焦燥はない。
空を見上げた。雲が、少しずつ形を変えながら流れていく。
目的地も理由もなく、ただ流れている。
その無為な時間が、胸の奥で静かに触れてきた。
人生を早送りしたいと思ったことがある。
だが本当は、早送りしたかったのは人生ではなく、
「意味がない」と切り捨ててきた瞬間そのものだったのかもしれない。
信号が、青に変わる。
彼は急がず、地面の感触を噛みしめるように、一歩を踏み出した。




