9,解剖実習②
極限状態に追い込まれた時、人間はその環境が悪いものでなければ、そこに留まろうとする。
つまりは…諦めるのだ。
自分たちが1日目に見てきた他の展示場の人間がそれを体現している。
祥生にはまだ、ここから出ようとする意思がかなりあった。
しかし、悠太は違ったのだ。
彼は父を目の前で殺された。
ここから出たところで、もう助けることはできない。
祥生はまだ出てから助けを呼べば家族を救うことが出来るかもしれないが、悠太は違う。
そして、衣食住が揃っているこの場所で生きることも案外悪くないのではないかと諦めの境地に至っているのだ。
そして、彼のその思いはさらに加速することになる。
透明なケースの中で台車に運ばれながら、2階の実験室へと向かう。
その間の悠太は周りを見ようとはしない。
祥生の母が家畜として扱われているのを目撃した時、自分の母親をそこに確認してしまうのが怖かったのだ。
体育座りをした自分の足先だけを見ながら、早くこの時間が終わって欲しいと、なんの助けにもならない祈りを捧げた。
だが、悠太はその実験室の光景に釘付けになってしまうのだ。
対照的に、その光景を見なくなったのは祥生の方だった。
昨日見た時、その場所には人間が拘束されているのを見ていたが見ず知らずの人間だったのだ。
けれども、今日は違う。
【解剖実習】
一体何を解剖するのだろうか?
その答えは人間。これは簡単だ。
では、その人間は誰だ?
見ず知らずの人か?それとも身内か?
答えは後者だった。
実験台に横になり、拘束されているのは…
悠太の母親だったのだ。
悠太の母親が全裸の状態で台に固定されてしまっている。
そう、これから解剖されてしまうのは悠太の母親。
その事実が彼らの目に写ってしまった時、祥生は目を伏せ、悠太はケース越しに手を伸ばそうと必死になった。
この短い期間に、かけがえのない家族を2人も失ってしまうのだから。
「母さん!!やめろ!!」
「あぁ、申し訳ないですね。
伝えていませんでしたね。
今日解剖される人のことを。あなたのお母さんであるということを。」
長谷川の笑顔がさらに加速する。
祥生はその時、ケースの中になぜ袋があるのかを理解した。
今にも吐きそうだったのだ。
人間が解剖される瞬間、それも友人の母親が解剖される瞬間を見なければならないのだから。
目をつぶったとしても、音は聞こえてしまう。
目と耳を2つとも閉じたとしても、それを貫通して聞こえてくるのはおそらく、悠太の声だろう。
「さて、解剖実習は学校で既にやっているでしょう?
鶏で。鶏を解剖する時、周りには他の生きた鶏もいたはず、同類が目の前で殺され、解剖されたのを見なければならない。
これも、動物としての性ですね。
そして、最初の工程は…屠殺です。」
長谷川のその言葉が始まりの合図だった。
悠太の母親は口には布を噛ませられており、呻き声しか出せないようになっている。
その声は苦しさ、死にたくないという嘆き、恐怖を体現したかのようだった。
その声を聞くだけで心臓と胃が口から出てしまいそうになる。
白衣を着た人が1人、悠太の母の首をつかみ、こちらに見せてきた。
「これが大動脈、今からここを切って出血死させます。しっかりと見ておくように。」
そこからは地獄の始まりだ。
あまりにも素早い手際で首をメスで切り裂かれ、大量の血が出てきたかと思えば、台が傾き、斜めになった。
頭の方が下になり、そこにはメガホンのようなものがあり、幅の広い方に頭がスッポリと入っていく。
幅の狭い方からは血が大量に流れ出している。
祥生はこの状況を直視することはできなかった。
悠太はしっかりと見ていた。
そして、涙を流し、言葉にならない叫び声をあげている。
祥生の中に込み上げてくるのは吐き気だった。
けれど、悠太は今深く絶望し、悲しみに満ちているのだろう。
祥生は彼に同情しているが、恐ろしくてどちらの方も直視することはできなかった。
悠太の母の体は最初は暴れていた。
繋がれている部分を破壊してしまうのではないかという勢いだったのだが、次第に弱々しくなっていく。
体の色も、段々と色素が薄くなっていくようだ。
そして、数分後には動きは一切なくなった。
それと同時に、悠太の声も聞こえなくなる。
祥生は恐る恐る悠太の方を見た。
彼の顔はずぶ濡れで、目は赤く腫れ上がり、動かなくなってしまった母親の死体を眺めている。
もう声を出す元気も残っていないらしい。
台座が戻り、再び並行になる。
悠太の母は目をつぶっており、既にあの世に行ってしまった。
しかし、まだ解剖実習は最初の段階を踏んだだけに過ぎない。
これからが本当の解剖実習の始まりだ。




