霧の森の約束
霧の朝だった。
村の外れにある古い森の入り口で、少女のエマは立ち止まった。息を吐くたびに白い雲が舞い上がり、霧と混じり合って消えていく。空気は湿って冷たく、頰に触れると小さな水滴が肌に宿り、ゆっくりと頬を伝って落ちていった。
木々の葉から滴る水音が、ぽたり、ぽたりと単調なリズムを刻んでいる。まるで森全体が巨大な楽器であるかのように、どこからともなく微かな音楽が聞こえてくる。鼻をくすぐるのは、湿った土の匂いと、かすかな甘い花の香り。その香りは森の奥深くから風に運ばれてくるもので、エマの胸に何か懐かしいような、それでいて切ないような感情を呼び起こした。
エマは十歳。村の子供たちは、この森を怖がる。霧がいつも立ち込め、道に迷うと二度と帰れないという噂があるからだ。
「森には魂がいる」
と、村の古老はよく語って聞かせた。
「迷子になった者を助けることもあれば、約束を破った者には罰を与えることもある」
でも、エマは違った。ここは彼女の秘密の場所。毎朝、父が重い眠りにある時間を狙って家を抜け出し、この森へと足を向ける。今日は特別な日だった。昨日、森で出会った不思議な少年と約束を交わしたからだ。
「また来るよ。明日の朝、僕が待ってる」
少年の声は柔らかく、まるで風に混じる笛の音のようだった。昨日の夕方、エマが森で野いちごを探していると、霧の向こうから突然現れたのだ。銀色の髪で、青い目をしている。村の誰とも似ていない、どこか別の世界から来たような佇まいだった。服は古びた布でできており、足元は裸足。普通なら驚いて逃げ出すところだが、エマは不思議と怖さを感じなかった。
少年は優しく笑って、野いちごを一緒に摘んでくれた。その時口に広がった甘酸っぱい味を、もう一度味わいたかった。だが本当は、もう一度あの優しい笑顔に出会いたかったのだ。
「おはよう」
エマは霧に向かって小さく呟いた。
霧の中を進んでいく。足の下で、柔らかい苔が静かに沈み込む感触が心地よい。視界は白くぼやけ、木々がぼんやりとした影絵のように浮かんでいる。耳を澄ますと、鳥のさえずりが遠くから聞こえ、時折小枝の折れる音や小動物の足音が混じる。
昨日と同じ道を歩いていくと、大きな樫の木の根元に、赤い野いちごの実が落ちているのを見つけた。少年が教えてくれた目印だ。
「来たよ」
エマは期待を込めて声をかけた。
しかし、返事はない。周りを見回してみても、霧が昨日より濃く、少年の姿は見えない。胸の奥で、小さな不安が芽生える。心臓の音が、ドクドクと胸に響く。服が湿気を吸って重くなり、肌にまとわりつく。土の匂いがいつもより強く感じられ、どこか不吉な予感を運んでくるようだった。
「遅かったかな...」
エマは唇を噛んだ。
その時、大きな樫の木の陰から、ゆっくりと少年が現れた。エマの顔に、安堵の笑みが浮かぶ。
「おはよう、エマ。待ってたよ」
少年の声は昨日と同じように優しい。銀の髪が霧に濡れて、淡い光を放っているように見える。今日は手に何かを持っていた。小さな花と葉で編まれた冠だった。
「これ、君にあげる。森からの贈り物だよ」
そう言いながら、少年はエマの頭に冠を被せてくれた。頭に触れる花びらや葉の感触は、思いのほか温かく、軽やかだった。仄かな花の匂いが鼻先を掠める。
「わあ、きれい」
エマは嬉しそうに冠に触れた。葉のざらざらした感じと、花びらの滑らかさが指先に伝わる。
「ありがとう。でも、あなたの名前を聞いてなかった」
昨日、聞くのを忘れていたのだ。少年は少し悲しげに笑った。
「僕は...霧の精なんだ。名前はないよ。でも、エマが何か呼んでくれるなら、それが僕の名前になる」
「霧の精?」
エマは目を丸くした。
村の古老が話す、森の守り神のような存在。迷った人を助けたり、時には約束を破った者に罰を与えたりするという。でも、目の前の少年はとても優しい。エマの心は、不思議なほど落ち着いていた。
「じゃあ、『風』って呼んでもいい?あなたの声、風みたいに優しいから」
「風...」
少年は初めて本当に嬉しそうに笑った。
「気に入ったよ、エマ」
二人は森の奥へと歩いていく。風が道案内をしてくれる。霧の中でも、彼の足取りは迷いがない。エマは恐る恐る彼の手を取った。風の手は冷たいけれど、とても柔らかい。指と指の間から、不思議な温かさが伝わってくる。
「この森はね、とても古いんだ」
風が語り始めた。
「何百年も前から、村の人たちを守ってきた。でも最近は、みんな来なくなってしまった」
風の声には、深い寂しさが込められていた。エマは思った。村の人たちは森を恐れているけれど、本当はこんなに美しい場所なのに。霧の白さ、木々の深い緑、土の温かい茶色。それらが織りなすコントラストが、心を不思議なほど落ち着かせる。
「見て」
風が立ち止まって、大きな樫の幹を指差した。
「耳を当ててごらん」
エマが恐る恐る樹皮に耳を当てると、微かに風の音が聞こえた。いや、それは単なる風の音ではない。まるで木が歌っているような、そんな優しい音楽だった。
「すごい...木が歌ってる」
「そう。森の中の全ての木が、歌を歌ってるんだ。エマにも聞こえるなら、きっと森がエマを受け入れてくれたんだよ」
さらに奥へと進んでいく。風は道すがら、森の秘密をいくつも教えてくれた。この葉を噛むと甘い味がすること、この実は鳥たちの大好物であること、この花の蜜は蝶たちの宝物であること。エマは一つ一つを覚えようと必死になった。
やがて、森の最も深い場所にたどり着いた。そこには、大きな古木の根元に、小さな泉が湧いていた。水は驚くほど澄んでいて、底に敷き詰められた小石まではっきりと見える。
「ここは森の心臓なんだ」
風が泉を見つめながら言った。
「この泉が枯れない限り、森は生き続ける。そして村も守られる」
「きれい...」
エマは泉の縁に膝をつき、そっと水面を見つめた。
「エマ」
風の声が、いつもより真剣になった。
「君が望むなら、ここで約束をしよう。エマがこの森を愛してくれるなら、森も必ずエマを守るから」
エマは頷いた。約束の証として、泉に手を入れる。水の冷たさが手に染み渡り、心の奥まで清めてくれるような気がした。
「約束する。私、この森を絶対に忘れない」
時間が経つにつれ、朝の霧が少しずつ晴れ始めた。木漏れ日が差し込み、森全体が金色に輝いて見える。
「もう帰らなくちゃ」
エマは名残惜しそうに立ち上がった。
「父さんが起きちゃう」
「また明日も来てくれる?」
風が尋ねた。
「もちろん!」
風は安心したように笑った。エマは花の冠を被ったまま森を出る。振り返ると、風の姿は霧の中にゆっくりと溶けていった。まるで最初から夢だったかのように。
家に帰ると、父はまだ深い眠りについていた。エマは冠をそっと枕の下に隠した。村の朝は既に賑やかで、鶏の鳴き声や、かまどから立ち上る煙の匂いが、日常の始まりを告げていた。
その日から、エマは毎日森に通うようになった。風と一緒に遊び、笑い、森の奥深い秘密を少しずつ教わった。風は森に住む動物たちの話、古い木々が記憶している昔の村の様子、季節ごとに変わる森の表情について、たくさんのことを語ってくれた。エマは一つ一つの話に耳を傾け、森という生き物をより深く理解していった。
夏が過ぎ、秋が来て、やがて雨季が訪れた。
ある日、村に異変が起きた。何日も続く激しい雨で川が氾濫し、村全体が水に飲み込まれそうになったのだ。村人たちは慌てふためき、どうすることもできずにいた。
エマは泥だらけになりながら森へ駆けていった。
「風!風、どこにいるの!」
霧の中から現れた風は、いつもより薄く、透けて見えた。
「エマ...どうしたんだい?」
「村が、村が大変なの!川が氾濫して、みんなが困ってるの。お願い、助けて」
風は静かにエマの涙を見つめた。そして、ゆっくりと頷いた。
「分かった。約束したからね。森は村を守る」
その夜、不思議なことが起こった。激流となって村を襲っていた川の水が、突然静かになったのだ。まるで霧が川全体を包み、水の勢いを和らげるかのように。村人たちは奇跡だと言って喜んだ。
翌朝、エマが森に行くと、風はいつもの場所にいた。しかし、その姿はとても弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
「風...」
エマの目に涙が浮かんだ。
「大丈夫だよ、エマ。約束を守れて嬉しい」
風は最後の微笑みを浮かべた。
「でも、これでお別れかもしれない。霧の精は、大きな力を使うと...」
「嫌だ!行かないで」
エマは泣いた。涙の塩辛い味が口の中に広がる。
「泣かないで。エマがこの森を愛してくれる限り、僕はいつでもここにいるから。風の音に、耳を澄ませて」
そう言って、風はゆっくりと霧に溶けていった。最後まで、優しい笑顔を浮かべながら。
エマは一人、森に残された。花の冠を握りしめながら、静かに泣いた。風の温かさを思い出すように、冠を胸に抱きしめた。
それから数日後、エマは村の人たちに森の本当の美しさを話して聞かせるようになった。霧は怖いものじゃない、森は敵じゃない、と。
「森には優しい心が住んでいるの。私たちを守ってくれるの」
最初は誰も信じなかった。でもエマは諦めなかった。毎日森に通い、少しずつ村の子供たちを森へ案内した。霧の美しさ、木々の歌声、泉の清らかさを、一人ずつに伝えていった。
年月が流れた。エマは大人になり、やがて村の子供たちに森の話を語る役目を受け継いだ。森は変わらず霧に包まれ、静かな息づかいを続けている。
時折、風の囁きのような声が聞こえることがある。懐かしい笑い声が、霧の向こうから響いてくることもある。
霧の森は、永遠の約束の場所。
エマの心の中で、風は今も生き続けている。そして、新しい世代の子供たちにも、その約束は受け継がれていくのだった。




