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パンに恋する五秒前

作者: 霧間愁
掲載日:2026/02/11

 34歳の彼は、実に平凡な男だ。

 中高ともに成績は中の上で、大学もそこそこの経済学部に進学。

 一般企業に就職して、目立った活躍もせず人並みに仕事を日々こなした。時より失敗をして時より誰かを助けた。

 そして、三十もこえたとき、ふと趣味がほしいと思った。同僚たちが楽しげに自分の趣味の話をしているのが、うらやましくなった。

 読書、旅行、写真、食べ歩き。

 幾つか試してはみたが、しっくりくるものもなく数ヶ月も続けれずにやめてしまった。家にはガラクタとして押し入れに積み重なる品々。


 男は何度目かの趣味探しの最中で、ようやくパン作りにたどり着く。


 運命的な出会いというのは、この世の中に本当に存在する。馴れ初めは男が何気に近所の商店街を歩いている時、高級食パンの幟旗を見かけたことだった。

(もうなくなったと思っていたけれど……)と、時流の流行り廃りで大勢と同じようにこの店舗も姿を消したという認識をしていたので改める。

 34歳独身、お金のやりくりも理解して少しの余裕がある。自己満足な謝罪も込めて一斤買うことにした。

 持ち帰り、家の机に食パン。

 とりあえず、一枚切り出して……と思ったが切り口がガタガタになった。気を取り直して、一口。

 彼の脳裏に浮かんだのは、まず素直に「美味い」だった。

 次に、大事にゆっくり食べよう、また買ってみよう、と他一般的な感動は浮かばずに「自分でも作ってみたい」という天啓に近い衝動だった。といっても、ただ静かに感動していただけだが。

 男は、おもむろにネットで作り方を調べ、そして必要なものを通販サイトで器具を注文、届けば作ってみる。

 自作のパン一口食べてウマいが、あの「美味い」ではないことに、絶望した。パンを作る為の専門書を書い、美味いと言われるパン屋に通い、専用の器具や家電を買い、技術を磨く。気がつけば、中途半端に終わった読書や食べ歩き、写真に至るまでパン作りを通してなら楽しいと思い始めた。

 すべてはパンを作るため。

 そうして一年近くもすると、会社の昼ご飯に自作のパンを持って行くまでに成長した。ちなみに今日は、専用冷蔵庫で低温長時間発酵させ朝に焼いた。

 毎日、昼が楽しみで仕方ない。趣味があることでこんなに張り合いが出るなんて、思わぬ副次効果に男も驚いていた。

 デスクの上にちょこんと茶袋を置いて、昼間で眺めながら仕事をする。

「えー、美味しそうな香り、どこのパンですか?」と隣席の同僚女性が声をかけてくれた。

「え、あ、よくわからないかな、近所のパン屋さんで買ったから……」男はわざとらしく腕を組む。

「今度、教えてくださいね」「あはは、はい」

 乾いた笑いに疲れる。男は自分の初めての趣味を恥ずかしくて人に言えなかった。恥ずかしさのあまり、無印の茶色の紙袋やそれっぽいビニール袋を用意して、買ってきたモノとしてカモフラージュしてきた。

 何気ない指摘さえ、持ってきたパンで自分の趣味がバレたのかとさえ思ってしまう。

 さほど特殊な趣味とは思っていないが、比較対象もない。これまで趣味なぞ持たなかった弊害だった。自分のパン作りという趣味は一般的なのかという疑問は、ここ最近ようやっと生まれていた。

 気持ちを切り替えて、仕事に励む。

 ようやく待ちに待った昼休みの時間になって、デスクを離れた。もちろん楽しみにしている茶袋をひょいと掴む。


 その日、昼食に向かう男は出会い頭にとある女性とぶつかった。

 奇跡というか喜劇というか、彼女の持っていた茶袋と彼の手作りパンの茶袋が入れ替わってしまった。

 運命的な出会いというのは、この世の中に本当に存在する。


 男とぶつかった29歳の女は、同期の中でもそのキャリアはずば抜けていた。

 中高とも主席で卒業、国内トップとよばれる大学では中ほどの成績だったが無事に卒業し、この企業に就職しその頭角をすぐに現した。入社した年に会社の業績を伸ばすよいうな大型案件を受注のきっかけをつくり、同期先輩を助け年間MVPをとり続け、誰かとぶつかり誰かを助けた。

 そして、仕事一筋6年、その重責から周りにも自分にも過剰に厳しくなっていく。ストレスからか一時期、乱雑な生活になりもした。

 その容姿は見目麗しく、知的な美人だったが、事務的なコミュニケーションはほぼ無表情でこなす為鉄仮面で周りから恐れられるようになってしまった。

 今やその実力は認められ係長補佐という肩書で、その実は業務はほぼ係長の仕事をこなしている。

 そんなストレス下の中、大学時代からの趣味であるパンの食べ歩きが、彼女を支えていた。インターネットの片隅に自分が食べたパンの評論をこっそりとつけて、「この国のパン屋は全て網羅している」と自負すらある。

 そして今日も怒涛と呼んでもいい業務を終わらせて、駅前にできたパン屋のレビューをすべく、昼休みになった瞬間に駅前に走ったのだ。今度の連休は、評判名高い遠方のパン屋にいくつもりなのでこの辺りのパン屋は行けるうちに食べておかなければならない。

(ようやく買えた)

 念願のパンを手に入れ、心内では飛び跳ねくらいに喜んでいる。午前で起きた部下や後輩の仕事のミスや遅延、上長の優柔不断さも許せるくらいに。その心中にシゴデキ美人の姿はない。


 気を張っていなかったせいで、いつもなら避けれるはず咄嗟の行動もでずにその衝撃に彼女は襲われた。

 ぶつかって彼女が見た光景は、茶袋が空中に二つ。(あぁ、私のパンが……)

 パン独特の香ばしさが鼻腔をくすぐった。


「すいません」

 男が謝りながら女を起こした。結構な勢いでぶつかったのは判っていたので、もし頭を打ち付けたらと心配になる。

 「こちらこそ、すいません。前を確認もせずに」無表情のまま女は起き上がり、近くにあった茶袋を掴んで立ち去った。(気が緩んでいるんだわ、ちょっと気を引き締めないと)

 男は女の素早い行動に呆気にとられながらも、気を取り直して茶袋をとって会社ビル外のいつものベンチへと向かう。そこでようやく茶袋が入れ替わったことに気が付いて、オフィスへとんぼ返り。

 女が社内でも有名人だったこともあり、部署もすぐに分かった。女の机に入違ってしまった茶袋を置く。確か新しく出来た駅前のパン屋の商品だったはずだ。

 趣味を通してパン屋の情報を抑えるようになってしまっていた男は、申し訳ない気持ちで一杯だった。確かこのパンは今まさに人気店で、並ばないと昼食には間に合わないはず。

 ただ肝心の女は昼食に出かけたままなのか、仕事が入ってしまったのか姿はなかった。

 謝罪の言葉を付箋に書いて貼り付け、男はその日の昼食を諦めることにする。

(まぁ帰れば焼けるしな。低温熟成のタネはまだある)

 午後からの業務は、帰ってパンを焼くことを目的にモチベーションをあげる男だった。



 次の日、自作の食パンで作ったサンドウィッチを包んできていた。

(アルミホイルにパン包むとなんかアメリカンな感じだよな。まぁ中身はただの卵サラダと卵焼きだけど)

 満足な笑みが思わずこぼれる。卵サンドを朝食にしたものの、食べ比べをしたくなり結局二種類作ってしまった。おかげで遅刻ギリギリの出社だ。

 趣味に励むのもいいが、生活をおろそかにするわけにはいかなかった。

 職を失えば愛するパンを作ることも出来なくなってしまう。

(昼休みが楽しみだぜぇ~、……、仕事しよ)

 昼休みの時間になるといつものようにそそくさと男は立ち上がった。自家製パンのサンドウィッチだ。生地はサンドウィッチ用にと調整してある自信作、思わず口角が上がる。

 と、それは昨日、女とぶつかってしまった場所だった。

「あれはどこで手に入れたんですか?」

 男は自分に話しかけられていると思わず、一度素通りしようとした。「ちょっと」と女の言葉で立ち止まる。自分を指さして困惑する。そして、女は焦っていた。

「……アレとは?」「昨日の入れ替わったアレよ」

 そこで漸く目の前の女性が昨日ぶつかった人物と一致した。「近くのパン屋ですよ」お決まりの言い訳をして、立ち去ろうとした。

「お願いです、アレの場所を教えてください」「いや、その家の近くの」「アレは何なんです?」「普通のパンですよ」「そんなはずない、あんな、あんなにすごいのは」「凄い?」「住所は?」「え?」「アナタの家の住所です」「……、言えないです」「隠さないでください、アレが欲しくて」

 男が言い淀んで話を終えようとすると段々と女の声量が大きくなっていく。妙齢のシゴデキ女性が「アレ」という単語を連発する光景に周囲の目が集まり始める。

「ば、場所を代えましょう、ここじゃちょっと」

 教えてくれないと、此処から一歩も動かないわ!と断言されてしまう。男はこれがきっかけで社内で注目を浴びることになった。


 そしてこの二人、のちの夫婦である。

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