第十三話:記憶のぬくもり
暗い洞窟から外を覗いたミステリアは、あたたかな光に目を細めた。太陽はちょうど真上にあり、あたりを包み込むように、木漏れ日が優しく照らしている。
木々の間からのぞく湖面は、音もなく静かに揺れている。反射した光が、玻璃色の瞳を、宝石のようにきらめかせていた。
すぐ近くには、ほのかに赤橙を宿した焚火の跡があって、ちょうど何人か座れるくらいの丸太が置かれている。
そして、洞窟の出口。ふと、彼女は足元に視線を落とした。
――罠の気配。
だが、敵意は感じられない。彼女は躊躇なく歩みを進めた。
丸太に腰を下ろし、洞窟の闇へ向けて右手をかざす。指先から、ほんの小さな風の球を放った。淡く輝く緑が洞窟へ吸い込まれようとした、その刹那。突如として爆炎が吹き荒れ、小さな風を跡形もなく呑み込んだ。
(……あの男か)
脳裏に蘇るのは、昨日の記憶。絶望の淵にいた自分。その手を強引に、けれど温かく掴み取った、あの力強い感触。
あの時の熱が、今もまだ手首に灯っている。その熱は胸の奥深くにまで伝わっていた。それは、彼女の凍った心を優しく包み、壊れてしまわないようにゆっくり、ゆっくりと溶かしているようだった。
もう遥か昔に失くしてしまった、『ぬくもり』という感覚。そして、自分の存在を肯定したあの光。真っ直ぐに見つめる――あの男の瞳。
――ドクン、と胸の奥で、今まで聞いたこともないほど大きな音が鳴った。静寂を打ち消すその音に呼応するように、瞬く間に彼女の頬が赤く、赤く染まっていく。
(なっ、なに……っ? 呪い……ではない。術式の干渉でも……)
なおも早まる鼓動。思考が白く染まっていく中で、昨日の記憶が鮮明に色づく。
(あ……。あの時、私は……)
私は、あの男に強く抱きしめられ、そして――。そして、子供のように泣きじゃくってしまった。
――なんという醜態を。
それが、今さらになって怒涛のように押し寄せてきた。先ほどの爆炎すら冷たく感じるほどの熱さが、彼女の内側から顔全体に広がる。
「あつい……っ」
たまらず、両の手のひらに氷の冷気を纏わせ、頬へ必死に押し当てる。
だが、最高位の氷魔法をもってしても、その熱を鎮めることはできなかった。それは、彼女の氷が届かない胸の奥底から、抗いようもなく、迸るように燃えていた。
(私は……なんという失態を……。あの男の……全部あの男のせいだっ)
「おい、大丈夫かミステリア!? やけに顔が赤いぞ!」
不意に背後から響いたのは、まさにその「熱」を植え付けた『あの男』の声。
駆け寄ってきた男は、隣に膝をつくなり、顔を覗き込んできた。
「罠が暴発したのか? 理論上は完璧に構築したはずだが……。まさか、俺が仕掛けた術式に欠陥があったか!?」
ミステリアの火照った頬が、さらに燃え上がる。まるで冷気を纏った手からジュウ、と音がするほどの熱が、頬から伝わる。
「……はっ! う、うるさい、こっちに来るなッ!」
咄嗟に突き出した両手から、本能のままに冷気が迸った。
「……あ」
「え?」
瞬き一つの間に、男の姿が視界から消える。
ただ、彼が持っていた荷物だけが、無慈悲な重力に従ってその場にポトリと落ちた。
…………。
「……死んだかしら」
吹雪の彼方を見つめ、ミステリアは真顔で、ぽつりと呟いた。
だが、昨日の記憶が脳裏をよぎり、すぐに首を振った。
あの凄絶な戦い。踊り狂う雷の柱、空を埋めた火球の雨。そして、切り札である「不可避の鋏」ですら――。
あの男は、すべてを見透かしたような足取りで、紙一重ですり抜けてみせた。そして、あろうことか死の淵にありながら、楽しんでいるかのように――笑っていた。
「……変人」
あの男に限って死ぬはずがない。そう確信した途端、急激に心配した自分が馬鹿らしくなってくる。
心配して損をした。
ミステリアは鼻を鳴らし、彼方へ向けて「ふんっ」と顔を背ける。
「当然の報いだ……っ」
そう吐き捨てた彼女の頬は、吹雪の中にありながら、いまだに熱を持ったまま紅く染まっていた。
――どれだけ時間が経っただろう。静まり返った空間で、ミステリアは独り、熱を失った焚火を見つめていた。だが意識だけは男が消えていった方へと引きずられていく。
ガサッ、と草の音がするたび、じっと耳だけを傾けるのだが、少し待ってから見てみるとただの小動物だったりして、そのたびに期待した自分が虚しくなるのだった。
「ふんっ。何をしているんだ、あの男は?」
だがよく考えたら、咄嗟に放ってしまったあの氷雪。出力レベルを考えると、普通の人間なら死んでもおかしくない。良くて全身凍傷あるいは複雑骨折といったところか。
(ま、まさか――)
ミステリアが立ち上がった瞬間。
聞こえてきたのはミシミシという不穏な音。
ハッとして音のする方を向くとそこには――あの男が立っていた。
「あっ。良かっ――」
「見たか、今の!? 吹き飛ばされる瞬間に身体表面に層流の境界層を纏わせてみたんだ。衝撃を揚力に変えてベクトルを偏向させた。試してみたかったんだけど、ちょうどいい吹雪のおかげで証明できたよ!これを応用できれば戦略の幅が広がるぞ。……まぁ、計算をコンマ一秒でも誤れば、そのまま彼方までサヨナラっていうのが欠点だが」
ようやく戻ってきた彼の姿を見て、弾けそうになった安堵の言葉。だがその男の開口一番のセリフを聞いた瞬間、彼女はそれを強制的に呑み込んだ。
見れば、彼は全身の服をカチコチに凍りつかせ、一歩踏み出すたびにミシミシと不気味な軋み音を立てていた。そんな「動く氷像」のような姿のまま、彼は魔法の論理をまくし立てる。
「……はぁ。……やっぱり、ただの魔法馬鹿」
ミステリアは深い、深すぎる溜息を吐き出した。
心配して損をしたどころではない。自分の動揺も、赤くなった頬も、すべてがこの男の「実験材料」にされてしまったかのような、形容しがたい敗北感が彼女を襲った。
――次の瞬間。
アリウスは、ミステリアの放った『温かい配慮』によって、カチコチの身体を溶かされていた。
――否。厳密には、景気よく燃えていた。
「熱っ、あつっ……!? ちょっと待て、解凍にしては火力が強すぎないか!?」
「あら? 適温だと思ったけれど」
今度は加減を間違えたわけではない。このくらいがちょうどいいのだ。この男には。
「……ふぅ。……まぁ、それだけ元気なら安心したが」
自力で冷気を発して、さらりと火力を調整する彼を尻目に、ミステリアは足元に置かれた大量の荷物へ視線を落とした。
「ところで、何を持ってきたの?」
男は一瞬固まったようにミステリアを見つめたが、すぐに煤まみれの顔をほころばせると、拾い上げた荷物を軽く叩いた。
「ん? ……ああ、これか。少し食材と、着替えだ。これから身を隠さなきゃならないしな。……腹、減っただろ?」
「……いや、いい。私に食事は必要ない。横になって休めば、回復するから」
「……そ、そうなのか。すまん、余計なお節介だったな」
男は少しだけ、淋しそうに眉を下げた。
用意した食材が無駄になったこと以上に、何か大切な共有を拒まれたような、そんな顔。
「……そういう身体なのだ。私は」
ミステリアは自分に言い聞かせるように、淡々とした声で付け加えた。
――一人黙々と料理をするその男を、彼女は離れた場所から眺めていた。
パチパチとはぜる火の音と、立ち込める香ばしい匂い。
「大変そうだな。食べないと生きていくことすらままならない身体というのは」
ミステリアの言葉に、彼は手を止めてきょとんとした。
「……? いや……そうでもないよ」
彼は鍋を見つめ、慈しむように少しだけ目を細めた。
「母親が教えてくれたんだ。おれがこれを作ると、いつも褒めてくれた。……ははっ、母さんみたいに上手くはいかないし、結局これしか作れないんだけど」
湯気の向こうで、彼は遠い記憶をなぞるように微笑む。
「……でも、これを作ると、少し、安心するんだよ」
その言葉は、自分に言い聞かせているのか、それとも彼女に語りかけているのか。どちらかは分からなかった。
(……アリウス……か)
けれど、なぜ自分がこの男――アリウスという人間を受け入れられたのか、それは分かったような気がした。本当に、同じなのだ。
「……やっぱり、少し。……少しだけ、貰おうかな」
気まずそうに視線を彷徨わせながら、彼女は消え入りそうな声で、けれど確かな意思を伝えた。
「……あ、ああ! ほら、ちょうどできたところだ」
顔を上げた彼の瞳は子どものように輝き、純粋な喜びに満ちていた。
無造作に、けれどこぼさないよう丁寧に器へ盛りつけると、期待と不安の入り混じった表情で差し出してくる。
「母さんの顔は霧がかかったみたいに思い出せないんだけど、このスープを煮込んでいる時の手の温かさだけは、不思議と指が覚えてるんだ」
手渡されたのは、なんの変哲もないただのスープ。
けれど、そこから漂う香りが、永い間空っぽだった彼女の感覚を、静かに、ゆっくりと満たしていく。
誘われるままに口にすると、優しい香りがふわりと広がった。
……正直に言えば、お世辞にも美味とは言い難いものだった。
少し水っぽいし、野菜の火の通りもまちまち。先ほど、緻密な魔法の論理を語っていた人物が作ったものとは思えないほどに、不格好で、まるで子どもが初めて作ったようなスープ。
けれど――味以上に、この料理に溶け込んだ「なにか」が、冷え切っていた彼女の芯へと染み渡っていく。
「……あたたかい」
不安げに様子を窺っていた彼の表情が、まるで雲間から陽が差すように、ばあっと明るくなった。
「……そ、そうか。良かった」
少し照れくさそうに視線を落とし、自分の分も盛りつけ始めるアリウス。
その横顔があまりに幸せそうで。
記憶の奥底に眠っていた――かつての、幼き日の自分の残像が、彼に重なって見えた。
――ドクンと、またしても鼓動が大きく波打つ。
けれど今度は、その感覚を拒む気持ちは湧いてこなかった。
ぽっかりと穴が空いたような、けれど同時に、体が浮き上がるような、不思議な心地がした。
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