第十二話:一輪の花
涙を枯らした少女の頬には、温かな赤みが差していた。
アリウスを見つめる瞳。感情など無いと叫んだ彼女の中には、悲しみとはまた違う、名もなき「感情」が確かに芽生え始めていた。
――だが、世界はまだ彼らを赦さない。
刹那。二人を引き裂く強烈な閃光が走る。
その非情な純白は、躊躇なく無慈悲に少女へと届き、その華奢な身体を――貫いた。
「が……はっ……!」
アリウスの目に映るのは、瞳孔を見開き、虚空を見つめるミステリア。
そして、その向こう。その場所に佇んでいるのは、冷ややかな視線を送る秩序の番人――ヴァレリウス。
「きっ……さまぁああ!」
ヴァレリウスは恍惚とした狂信を瞳に宿し、天に向かって吠える。
「見たか! 神よ! これこそが真の『粛清』だ! 我こそが『適格者』! 我こそが、不完全なこの世界を塗り替える、唯一の代行者である!」
ミステリアの全身に、内側からすべてを破壊する秩序の奔流が侵食していく。瞳孔は光を失い、仰け反った身体から力が奪われていく。
「――ミステリア! しっかりしろ! くそっ、どうすれば……」
アリウスが高速で思考を巡らせる中、さらなるノイズが割り込む。そこに現れたのは、紫電を纏わせ剣を構えるギルド魔法騎士――サイラス。
剣に宿った雷のエネルギーは、爆発寸前まで膨れ上がり、いつ放たれてもおかしくない状態だった。
「アリウス。貴様、そこをどけ! お前がやらないなら、おれがやる……魔法ギルドの秩序のもとに!」
「くっ……。サイラス! ダメだ!」
アリウスは、庇うようにミステリアを強く抱き寄せる。
「なっ……! 何をやっている! 貴様、血迷ったか! そいつは同胞を、ギルド長を殺した化け物だぞ!」
「化け物なんかじゃない! サイラス、分からないのか? この少女の悲しみが!」
「悲しみだと? 被害を受けているのはこちらだぞ! 貴様、いい加減にしろ!」
秩序を乱す存在。勝手気ままに行動し、災厄を呼び覚まし、挙句の果てに、その災厄へと気まぐれな慈悲をかける。
なんと幼稚で、なんと愚かなのだろうか。
怒りに震えるサイラスの顔は、口に出さずともそんな言葉を雄弁に物語っていた。
――だが、そんな怒りなど児戯に等しかった。
すぐ隣から発せられたのは、サイラスの激昂すらも瞬時に凍りつかせるほどの殺気。
アリウスの理解不能な行動に、ヴァレリウスの眉間には深い溝が刻まれ、その瞳にはあからさまな憎悪が宿っていた。
脳裏を掠めるのは、忌まわしき過去の断片。
守るように子を抱き、あろうことか『正しい』はずの自分へ、まるで悪人を見るような視線を向けてきた――かつての妻。
その忌々しい残像が今のアリウスと重なり、ヴァレリウスの神経を逆撫でする。
「……もう、いい。もう……我慢の限界だ」
ヴァレリウスの声は、怒りを超え、生理的な嫌悪に突き動かされたような、おぞましい震えを帯びる。
「貴様ら汚点は……なぜ……なぜ、それほどまでに愚かなのか。もはや、何を言っても無駄。秩序を乱す者は消えることでしか、世の役に立つことができない」
ヴァレリウスの瞳孔は大きく見開かれ、世界を汚す不浄な二人を凝視する。
その眼はひとたび覗き込めば最後、精神を根こそぎ奪い去る深淵を湛え、その奥底は、誰も見ることのできない昏い秩序の光によって濁りきっていた。
「…………抹消だ。この世が白く清浄な輝きを取り戻すまで、何度でも、何度でもだ! それが……私の使命。神から選ばれたものの義務だ! ――そこの青年。理解しただろう? もはやこいつは救うべき同胞ではない。地に堕ちた権威を象徴する、ただのゴミ。だが、幸運なことに貴様には『機会』がある。……その汚点共を――纏めて消去せよ」
サイラスは耳を疑った。
「今……なんと? 『共』? ……まさか、アリウスごとやれと……いうのですか」
「奴は災厄を呼び覚ました元凶。もはや悪魔に魂を売った同罪者だ。これは秩序を守るための聖戦である。さあ、貴様の手で成し遂げるのだ。……それとも貴様は、こいつらと同類か?」
サイラスはヴァレリウスの放つ威圧感に一瞬気圧されたが、反射的に剣を構え、狙いを定めた。標的は、災厄――そして、その傍らにいるアリウス。
だが、どれほど強大な敵を前にしても決して揺らぐことのなかった彼の剛腕が、今は無様に、情けなく震えている。爆発を待つ紫電を纏った剣先は、アリウスとアトロポスの間で空虚に彷徨っている。
秩序の杭にエネルギーの大半を吸われ、絶え間ない激痛に身を震わせるミステリアは、力なく言った。
「……ああ……。結局、救いなんて……最初から、なかったんだ……。化け物には、化け物に相応しい……終わりの時が、来るだけ……。……ねえ、私、なんのために……生まれてきたのかな……」
枯れた涙は、もはや彼女から流れることはなかった。代わりに漏れ出したのは、漆黒の瘴気。聖なる杭によって決壊した彼女の核から、とめどなく絶望の闇が溢れ出している。
弱々しく紡がれるミステリアの言葉は、鋭い刃となってアリウスの胸を切り裂いた。
「化け物なんかじゃ、ない……。君は、誰よりも……」
(死なせない。こんな絶望に染まった言葉で、君の物語を終わらせてたまるか! 思考しろ、回せ、知恵を絞れ! こんなくだらない『秩序』の檻を破壊し、彼女を救い出す『理』を見つけ出すんだ――!)
――刹那、アリウスの脳裏に電光が走った。
ドラゴンの紫黒の火球、ミステリアの漆黒蘇芳の双刃、自身が放った光の竜。そして――今目の前で彼女から溢れる絶望の闇。それらは彼の思考領域で超速的に分解、再構築され、一つの図式へと収束していく。
「まだだ!」
アリウスは即座に、脳内で高速に展開される図式の構築と並行して魔法を描き始めた。
「力を貸してくれ、ミステリア。君の……その闇の力を、おれに預けてくれ!」
「……もう、いいの。最後に、あなたに解ってもらえた……それだけで、私は……。私のような呪われた力は、あなたのような光を汚してしまうだけ」
「汚れなんかじゃない! それは君が抗い続けた証……生きてきた証だ! これまでの絶望も、悲しみも、その闇を全部まとめておれが光に変えてやる!」
ミステリアの魂の証しである『闇』。アリウスの手から紡がれる『火』の結晶。
それぞれの心象を具現化した二つの光は、コードの奔流となり、共鳴するように、惹かれ合うように混ざり合い、溶け合う。
目も眩むような輝きを放ち始めた。
――生まれたのは、煌めく『紫焔』の玉。
アリウスがそれを優しく、いたわるように触れた。
それは形を変え、幾千ものコードを編み上げながら、天を突く一条の螺旋を描く。
天の先、虚空に浮かび上がるは三重の魔法陣。
そこから顕現したのは、闇を燃料として燃え上がる紫の翼――『紫焔の不死鳥』。
舞い散る火の粉は燐光を纏い、幻想的に煌めく。その紫焔は決して、邪悪な呪いなどではない。
どんな秩序よりも清廉で、どんな白よりも気高く、美しかった。
ピィィィィーーーーーーッ!
大気を震わせる黄金の共鳴。
その高らかな咆哮は、あるものには絶望を、またあるものには希望を感じさせ、聞き入る者の心を震わせる、あまりにも不思議な旋律だった。
吹き荒れる魔力の波動。それは、少女を縛り付けていた杭を塵へと変え、広場を埋め尽くす虚飾の秩序を、紫の炎で焼き払った。
皆がその衝撃に耐えている間に、アリウスはミステリアを抱きかかえ、不死鳥の背中に飛び乗る。
「なっ……待て……!」
サイラスが慌てて呼び止める。
「おい! 逃がせば貴様も死罪だ!」
背後から突き刺さるヴァレリウスの殺気。怯えたサイラスの指先が、微かに、けれど致命的に震えた。
――刹那。彼の手は制御を失い、紫電が暴発する。
「しまっ……!」
極限まで溜めた雷撃が、狂ったように牙を剥く。
――だが、その雷撃が彼らを貫くことはなかった。
不死鳥はただ一つの羽ばたきで、紫電を置き去りにして瞬時に遥か上空へと飛翔した。
――不死鳥は、夜を切り裂く紫の残光だけを空に残し、南の彼方へと消えていった。
+ + +
不気味なほどの静寂。
差し込む冷ややかな朝光が、無残に破壊された広間の惨状を、残酷なほど鮮明に浮かび上がらせていた。
自らの手で人を殺めずに済んだという、微かな安堵。それが次の瞬間、煮えくり返るような後悔と自責、そして自由を掴んだ者への昏い妬みに塗りつぶされる。
喉の奥までせり上がった吐気を必死に飲み下し、サイラスはただ、自分の震える手を凝視することしかできなかった。
手に残る紫電の残響が、無情にも彼を冷酷な現実へと導く。
「……くそっ、……ああ、クソっ!」
穢れを振り払うかのように、無意味に剣を振るう。
切っ先が石畳を削る不快な音だけが、朝日の中で虚しく反響していた。
+ + +
悠然と空をゆく不死鳥の背。柔らかな朝の光が、少女の透き通るような心を照らし出した。
頬を撫でる清らかな風を浴びて、彼女は意識が朦朧とするなか、淡い夢の光に溶け込んでいくような心地でいた。
「……あたたかい」
千年もの間紡がれることのなかった言葉が、胸に染み込んでいく。彼女は永い、あまりに永い悪夢から解放された。
その貌に浮かんだのは、穏やかな微笑み。
それはかつて姉たちと過ごした記憶の底にある、純粋無垢な――ただの一人の少女の表情だった。
ミステリアは、アリウスのしなやかで力強い腕のぬくもりに包まれ、吸い込まれるように深い、深い、まどろみへと沈んでいった。
+ + +
アリウスの腕の中にある確かな温もり。それが、彼の凍った心を包み込んでいく。
その温もりを祝福するように朝焼けの光が差し込み、眠る彼女の睫毛に柔らかな影を落とした。
その奥にあるはずの玻璃色は、今は安らかに閉じられていたが、アリウスにはそれがどんな宝石よりも美しく、この壊れた世界を肯定する唯一の輝きに見えた。
彼は、この欠陥だらけの世界に咲くたった一筋の希望を見つけた。
それは畏怖すべき神でも、忌むべき災厄でも、ましてや悲しき化け物などでは決してない。
ただ、あまりに人間的な――どこまでも美しく澄んだ、一輪の、玻璃色の花だった。
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第十二話『一輪の花』をお読みいただきありがとうございました。
エピローグ『残された者たち』もぜひご覧ください。
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