第十一話:氷解
彼女の手首は、アリウスの掌の中で、小刻みに震えていた。
「は、放せっ……! お前は……お前は一体、なんなんだ……っ!」
「おれは……君と同じだよ。……眠りを妨げたことは、謝る。だが、そのおかげでおれは、本当の君を見つけることができた」
アトロポスの瞳に沈むどす黒い紅が、火花に照らされ、一瞬だけ――澄んだ玻璃色へと明滅した。
「なっ、何を言っている……っ! 放せ、放せ! 『プレイヤー』ごときが、私に気安く触れるな……っ!」
「君の術式は、完璧な旋律だ。だが、致命的な一音だけ……悲鳴のような不協和音が混じっている」
震える手首から伝わってくる、早鐘のような鼓動。そのリズムをなぞるように、アリウスは静かに言葉を紡ぐ。
「人間的な『迷い』という名の乱れが、君の術式を阻害していた。……それがなければ、おれの首はとうに飛んでいたはずだ」
「まっ、迷いだと……っ? うるさい! 私は感情など持たぬ災厄だ! 誰もが私を恐れ、化け物と呼んで石を投げた。全部、全部お前ら人間のせいだ! 私は生まれたその時から化け物なんだ。お前に――何がわかるッ!」
――刹那。アリウスの脳裏にある光景がフラッシュバックする。
昨日まで仲良く遊んでいた友達。優しかった隣のおばさん。露店の人々。幸せの思い出が詰まった家。――大好きだった両親。
それらは一夜にして――無残に反転した。
両親は消え。慈愛に満ちていた隣人は、罪人を見る目で『穢らわしい』と唾を吐き。露天商は、蛇蝎のごとく彼を追い払う。
幸せの象徴だった我が家の壁は、見るに堪えない誹謗中傷で埋め尽くされた。
そして、泣きじゃくる彼の背に、かつての友が――石を投げた。
『なんでお前が生きてる! この……化け物め!』
――アリウスが掴んだ手に、無意識に力がこもる。細い手首を壊してしまいそうな、けれど決して離したくないと願うような、切実な強さだった。
「……わかるよ」
アリウスの瞳に、アトロポスと同じ――底暗い「孤独」の色彩が宿る。その視線はどこか虚空を見つめていた。
「……おれも、全部奪われたから」
「……えっ?」
「この理不尽な世界に、大切なものを、未来を、全部。……だから、見間違えたりしない。君の術式を汚していたのは、醜い憎しみなんかじゃない。――溢れ出してしまった、温かくて、やりきれないほどの『悲しみ』だ」
パリン、と凍てついた心が内側から割れたように、彼女の瞳の奥で何かが弾けた。
その瞬間、呪縛のように全身を覆っていた紅の紋様が、剥がれ落ちるように消えていく。
アトロポスのとうに限界を超えた身体は、糸が切れたように崩れ落ちる。その華奢な身体を、アリウスはその腕で力強く受け止めた。
「君は、美しい。化け物なんかじゃない。……誰よりも姉を想う、心優しい一人の人間だ」
「(私が、うつく……しい……? 化け物じゃ、ない? 私が……人……間……?)」
無機質だった彼女の瞳に、確かな生彩が戻る。
刹那、彼女の意志とは無関係に、その瞳から一筋の雫が零れ落ちた。
千年もの永い時、流し方さえ忘れていたはずの涙。熱い。火傷しそうなほどに熱いそれが、頬を伝う感触に、彼女は呼吸の仕方さえ忘れたようにただ目を見開いていた。
どす黒く沈んでいた紅が霧散していき、その奥から、どこまでも純粋な――どこまでも澄み渡る、玻璃色の瞳が顔を覗かせていた。
「そうだ。……ミステリア。それが、私の……名前だった」
けれど、彼女はその温もりを恐れるように、アリウスから目を背ける。
細く、震える声で最後の言葉を紡いでいく。その瞳は、迷子の子どものように激しく揺れていた。
「私は、負けた……。あなたなら、この災厄を終わらせてくれるの……? もう、疲れてしまったの。……お願い。独りにしないで。姉さんたちのところへ、行かせて……」
「……行かせないよ、ミステリア。そんな冷たい場所へ、君を一人で行かせるものか」
アリウスは、彼女の震えを止めるように、その細い身体を力強く抱き寄せた。
「おれが守る。……君のこれからの時間を、全部。おれが、守っていくから」
――その瞬間だった。
彼女の中で、何かが音を立てて砕け散った。
張り詰めていた糸が切れ、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出す。
「あ、……う、あ…………ああ、あああああああッ!」
アリウスの胸に顔を埋めた彼女から、千年分の孤独を吐き出すような、壮絶な慟哭が溢れ出した。
端正だったその顔を、無垢な子どものようにぐしゃぐしゃに崩して。彼女はただ、彼に縋るように泣き続けた。
それは、永く、あまりに永い苦しみを洗い流していく、透き通るほどに清らかな涙だった。
彼女を包むぬくもりが、凍てついた千年の時を、ゆっくりと、いたわるように解かしていく。
激闘の余韻――空に散っていた火花が、静かに、夜の闇へと溶けて消えていった。
+ + +




