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FATAL LOOM  作者: 水織慧
第一章
13/18

幕間:千年の氷

 暗闇。どこまでも深い闇の深淵。その中を、少女は一人漂っていた。

 そこは、酷く寒い。孤独という名の檻。

(寒い。こんなところ、もう……いや。……姉さま)


 ――記憶の底。淡い光が、守るように少女を包み込む。陽だまりのようなぬくもり。


「こっちよ。ミステリア」

(……ミス……テリア?)


 姉に手を引かれ、少女は無邪気に足を踏み出した。

 振り返った姉たちの顔は、何よりも優しく、眩しい。

 辿り着いた丘には、名前も知らない色鮮やかな花々が咲き乱れ、まるで世界そのものが三人を祝福しているかのようだった。


 胸いっぱいに吸い込んだ花の香りが、全身を幸福感で満たしていく。

 草の上に腰を下ろし、姉妹三人で手作りの焼き菓子を頬張り、温かなお茶を飲みながら、たあいのない話をして笑い合う。


 どこにでもある、けれど、何にも代えがたい……かけがえのない幸せな日常。


 ――それは突如、ノイズによって無残に引き裂かれた。


≪ERROR≫


 血のように紅い言葉が、頭に流れ込んでくる。


≪殺せ……憎き『プレイヤー』どもに裁きを……≫


(……いや。……もう、何も……したくないの……)


≪思い出せ……地獄の日々を≫


(いや……。やめて……。思い出したくない……!)



 ――幸福な記憶を塗りつぶすように、別の映像が蘇る。どす黒い雲が空を埋め尽くし、雲間からは世界を呪うような紅い光が降り注ぐ。


 逃げ場のない平原で、姉たちは無残に、ただの獲物として蹂躙(じゅうりん)されていた。

 群がる人々が、まるで娯楽でも楽しむかのように、無慈悲な魔法を放ち続ける。


(やめて! お願い……姉さまを奪わないで……! ……どうして、こんな、ひどいことをするの……?)

 幼い彼女の体は、何かに縛られたように全く動かない。喋ることも、目を閉じることもできない。


「ミステリア……逃げて……あなたは幸せに……生きるのよ。私たちはあなたを……愛してる」


 その言葉を最後に姉たちは光の粒子となって消えていく。


(だめ! 姉さま! 待って……。私を、一人に……しないで)


 だが、その願いは虚しく消えていった。


 ――嵐が去った後のような戦いの跡。そこはまるで最初から何もなかったかのように、静かで、残酷なほど綺麗に整っている。

 姉たちの温もりも、流れたはずの血さえも残っていない。ただ、命が消し去られた何も無い空白だけが、そこにあった。


 彼女は、たった一人。(すが)るような思いで、麓の村へと這うように向かった。

 逃げ込んだ村。助けを求めて伸ばした手は、投げられた石によって弾かれる。


「やい! アトロポスの化け物め!」


 痛い。痛い。……どうして。

 肺が潰れたように呼吸が浅い。指先の震えは、どれほど力を込めても止まらなかった。



≪TARGET: ENEMY DETECTED≫

≪LOGIC_STATE: ...HATRED≫



 視界に赤いノイズが走り、意識の輪郭が歪んでいく。


≪……殺せ……≫


 耳の奥で、自分ではない誰かの声が、脳を直接かき混ぜるように響く。


≪お前の姉を奪ったものたちに、裁きを。復讐だ。お前はそのために――≫


(ちがう……私は……)


 奥歯がガチガチと鳴る。自分の意志に反して、指先が獣のように硬直していく。



≪RESISTANCE_DETECTED.≫

≪PROCESSING... 10%... 45%... 99%... ERROR≫

≪OVERWRITE_RETRY... 100%≫

≪OVERWRITE_COMPLETE.≫



 少女の瞳が、逃げ惑う子供たちの背中を捉える。視界は、どす黒い紅に染まっていった。



 ――次に意識が浮上したとき、彼女の目がすべてを塗りつぶしたかのように、そこには、真っ赤な世界が広がっていた。

 足元には、先ほどまで石を投げていたはずの、動かなくなった肉の塊。


「……あ……」


 喉が痙攣し、声にならない悲鳴が漏れる。

 胃の底からせり上がる吐き気を抑えようとした手は、べっとりと、紅い返り血に濡れていた。


 ――そして、少女は闇へと沈んでいった。



(……だれか……たすけ……て)


 暗闇の中、彼女は必死に虚空へ手を伸ばした。

 (すが)るものは何もない。ただ、かつての姉の温もりだけを探して。

 だが、脳内に響く無慈悲な言葉が、温かな記憶を塗りつぶしていく。



≪FATAL ERROR: HUMANITY_DETECTED.≫

≪OVERWRITE_TO... Code: Atropos≫



(やめて……私は……)


 丘の上で食べたサンドイッチの味を思い出そうとする。

 けれど、舌に残るのは鉄の錆びた味。鼻腔を突くのは、花の香りではなく、どす黒い血の腐臭。


(いや……私を……消さないで。……私は……人間で……いたい……)


 自我が、冷徹な歯車に噛み潰されていく。

 彼女の心は千年の氷に閉ざされ、世界が恐れる『災厄(アトロポス)』という名の檻に閉じ込められた。光すら届かない、絶対零度の深淵――。

 氷結した心は、あまりに硬く、もはや溶かす術など残されていなかった。


 もし、彼女の願いが叶うとしたら。それは救済などではなく、『災厄(アトロポス)』と化す自分自身の抹消。結晶と化した氷の心を、その命ごと粉々に砕いてくれること。それだけが唯一の希望だった。

 だが、それすら叶うはずもない。彼女に一撃でも浴びせられる者など、この世界には誰一人として存在しなかった。


 ――あの男が現れる、その瞬間までは。あの人なら、私を終わらせることができるかな。


 ――しかし。

 凍てついた指先に、「あり得ないほどの熱」が触れる。


 青い火花を散らしながら、強引に、しかし壊さないように優しく。 運命の糸を断ち切るように、その手が彼女の手首を掴んだ。


 ――それは、破壊の光ではない。希望という名の、一筋の光。流れる星のように蒼く、鋭く彼女の腕を、引き寄せた。



「そうだ。……ミステリア。それが、私の……名前だった」



 その掌は、少女の塗りつぶされていた記憶さえも、鮮やかに手繰り寄せた。



≪CRITICAL_INTERFERENCE_DETECTED...≫

≪致命的な干渉を検知……≫




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