幕間:千年の氷
暗闇。どこまでも深い闇の深淵。その中を、少女は一人漂っていた。
そこは、酷く寒い。孤独という名の檻。
(寒い。こんなところ、もう……いや。……姉さま)
――記憶の底。淡い光が、守るように少女を包み込む。陽だまりのようなぬくもり。
「こっちよ。ミステリア」
(……ミス……テリア?)
姉に手を引かれ、少女は無邪気に足を踏み出した。
振り返った姉たちの顔は、何よりも優しく、眩しい。
辿り着いた丘には、名前も知らない色鮮やかな花々が咲き乱れ、まるで世界そのものが三人を祝福しているかのようだった。
胸いっぱいに吸い込んだ花の香りが、全身を幸福感で満たしていく。
草の上に腰を下ろし、姉妹三人で手作りの焼き菓子を頬張り、温かなお茶を飲みながら、たあいのない話をして笑い合う。
どこにでもある、けれど、何にも代えがたい……かけがえのない幸せな日常。
――それは突如、ノイズによって無残に引き裂かれた。
≪ERROR≫
血のように紅い言葉が、頭に流れ込んでくる。
≪殺せ……憎き『プレイヤー』どもに裁きを……≫
(……いや。……もう、何も……したくないの……)
≪思い出せ……地獄の日々を≫
(いや……。やめて……。思い出したくない……!)
――幸福な記憶を塗りつぶすように、別の映像が蘇る。どす黒い雲が空を埋め尽くし、雲間からは世界を呪うような紅い光が降り注ぐ。
逃げ場のない平原で、姉たちは無残に、ただの獲物として蹂躙されていた。
群がる人々が、まるで娯楽でも楽しむかのように、無慈悲な魔法を放ち続ける。
(やめて! お願い……姉さまを奪わないで……! ……どうして、こんな、ひどいことをするの……?)
幼い彼女の体は、何かに縛られたように全く動かない。喋ることも、目を閉じることもできない。
「ミステリア……逃げて……あなたは幸せに……生きるのよ。私たちはあなたを……愛してる」
その言葉を最後に姉たちは光の粒子となって消えていく。
(だめ! 姉さま! 待って……。私を、一人に……しないで)
だが、その願いは虚しく消えていった。
――嵐が去った後のような戦いの跡。そこはまるで最初から何もなかったかのように、静かで、残酷なほど綺麗に整っている。
姉たちの温もりも、流れたはずの血さえも残っていない。ただ、命が消し去られた何も無い空白だけが、そこにあった。
彼女は、たった一人。縋るような思いで、麓の村へと這うように向かった。
逃げ込んだ村。助けを求めて伸ばした手は、投げられた石によって弾かれる。
「やい! アトロポスの化け物め!」
痛い。痛い。……どうして。
肺が潰れたように呼吸が浅い。指先の震えは、どれほど力を込めても止まらなかった。
≪TARGET: ENEMY DETECTED≫
≪LOGIC_STATE: ...HATRED≫
視界に赤いノイズが走り、意識の輪郭が歪んでいく。
≪……殺せ……≫
耳の奥で、自分ではない誰かの声が、脳を直接かき混ぜるように響く。
≪お前の姉を奪ったものたちに、裁きを。復讐だ。お前はそのために――≫
(ちがう……私は……)
奥歯がガチガチと鳴る。自分の意志に反して、指先が獣のように硬直していく。
≪RESISTANCE_DETECTED.≫
≪PROCESSING... 10%... 45%... 99%... ERROR≫
≪OVERWRITE_RETRY... 100%≫
≪OVERWRITE_COMPLETE.≫
少女の瞳が、逃げ惑う子供たちの背中を捉える。視界は、どす黒い紅に染まっていった。
――次に意識が浮上したとき、彼女の目がすべてを塗りつぶしたかのように、そこには、真っ赤な世界が広がっていた。
足元には、先ほどまで石を投げていたはずの、動かなくなった肉の塊。
「……あ……」
喉が痙攣し、声にならない悲鳴が漏れる。
胃の底からせり上がる吐き気を抑えようとした手は、べっとりと、紅い返り血に濡れていた。
――そして、少女は闇へと沈んでいった。
(……だれか……たすけ……て)
暗闇の中、彼女は必死に虚空へ手を伸ばした。
縋るものは何もない。ただ、かつての姉の温もりだけを探して。
だが、脳内に響く無慈悲な言葉が、温かな記憶を塗りつぶしていく。
≪FATAL ERROR: HUMANITY_DETECTED.≫
≪OVERWRITE_TO... Code: Atropos≫
(やめて……私は……)
丘の上で食べたサンドイッチの味を思い出そうとする。
けれど、舌に残るのは鉄の錆びた味。鼻腔を突くのは、花の香りではなく、どす黒い血の腐臭。
(いや……私を……消さないで。……私は……人間で……いたい……)
自我が、冷徹な歯車に噛み潰されていく。
彼女の心は千年の氷に閉ざされ、世界が恐れる『災厄』という名の檻に閉じ込められた。光すら届かない、絶対零度の深淵――。
氷結した心は、あまりに硬く、もはや溶かす術など残されていなかった。
もし、彼女の願いが叶うとしたら。それは救済などではなく、『災厄』と化す自分自身の抹消。結晶と化した氷の心を、その命ごと粉々に砕いてくれること。それだけが唯一の希望だった。
だが、それすら叶うはずもない。彼女に一撃でも浴びせられる者など、この世界には誰一人として存在しなかった。
――あの男が現れる、その瞬間までは。あの人なら、私を終わらせることができるかな。
――しかし。
凍てついた指先に、「あり得ないほどの熱」が触れる。
青い火花を散らしながら、強引に、しかし壊さないように優しく。 運命の糸を断ち切るように、その手が彼女の手首を掴んだ。
――それは、破壊の光ではない。希望という名の、一筋の光。流れる星のように蒼く、鋭く彼女の腕を、引き寄せた。
「そうだ。……ミステリア。それが、私の……名前だった」
その掌は、少女の塗りつぶされていた記憶さえも、鮮やかに手繰り寄せた。
≪CRITICAL_INTERFERENCE_DETECTED...≫
≪致命的な干渉を検知……≫
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