第九話:絶対の摂理
「――では、始めよう」
その一言で、世界の理が塗り潰された。
静謐は瞬絢爛な狂気へと。
空間を裂く雷柱。空を埋める火球。逃げ場はない。
だが――
「はははっ。面白くなってきた」
アリウスは、むしろそれを楽しむかのように、舞い踊った。
踊り狂う雷の動きを見極め、灼熱の雨を掻い潜る。
――刹那。背筋に走る酷く冷ややかな感覚。それは首元へ白刃を突きつけられたかのごとく、冷酷で無慈悲な殺意がもたらす戦慄。
まるで、最初からそこで待ち構えていたかのように――。
(――っ!)
――ストン。
突如として虚空を裂き、姿を現したのは断罪の象徴『死の大鋏』。切り離された数房の黒髪が、音もなく宙に舞った。
アリウスは紙一重で身をかがめ回避。刹那までアリウスの首があった「空間」が断たれた。
白銀の刃は月光よりも冷たく、現世の物質ではあり得ぬ重圧を放つ。
左右から風の刃が襲いかかる。アリウスは全神経を研ぎ澄ませ、脚部に纏わせた風を爆発させて強引に身を躍らせる。
――存在の端を削り取られるような戦慄。
文字通り「紙一重」の差で死地を脱し、後方へと大きく跳んだ。
少しでも隙を見せれば、死角からは正確無比な風の刃が、虚空からは断罪の如き巨大な鋏が突如出現し、アリウスを確実に刈り取ろうとする。
(隙が、まるでない。……完全に踊らされている。僅かな隙の先に、確実に待ち構える死。やはり、完璧に計算されている。……じゃああの『感情』は何だ? まるで思考と身体が別のロジックで動いているようだ)
死の淵にありながら、アリウスは十の火球を生成。渾身の反撃として、それを一斉に解き放った。
対するアトロポスは、ただ静かに、人差し指を立てた。
細くしなやかな指の先に生まれたのは、極小の風の球。
瞬く間に周囲の熱量と大気を貪り、巨大な渦へと膨れ上がる。
――アリウスが放った十の火球は、抗う術もなくそのたった一つの風へと吸い込まれていった。
(……風を喰らう火球が、逆に呑み込まれた?)
炎を喰らい赤熱化した暴風は、超高速で回転し収束していく。指先の一点へ。極限まで圧縮された。
――静寂。
世界から音が消え去り、荒れ狂っていた旋風が唐突に停止する。
アトロポスの唇が、艶やかな弧を描いた。
「お返ししよう」
次の瞬間、指先の紅い結晶が急速に逆回転を始める。
放たれたのは、魔法の範疇を遥かに超越した、灼熱の爆風という名の裁き。
視界を埋め尽くす眩い光。
――直撃の刹那、アリウスは足元へ水弾を叩きつけると、同時に風のシールドを展開。全身を極薄の真空の膜で包み込んだ。
爆ぜる水蒸気。シールドでは防ぎきれない、猛烈な熱波が彼を襲う。
「が、はっ……!」
骨を軋ませるほどの爆圧。だがアリウスはその破壊的なエネルギーにより、弾丸のような速さで死地を脱した。
――熱風が去り、灰と化した広間。
アリウスは瓦礫の中に横たわっていた。服は無残に焼け焦げ、全身を走る激痛に顔を歪める。
――だが、その頬が、歓喜に震えた。
「はははっ……!」
こみ上げる笑いを、抑えきれない。
「これほど美しい強さは、初めて見た。……最高だ」
アリウスはゆっくりと立ち上がると、虚空に構文を刻み、天へと飛翔した。
生成された『氷』の核が、足下の大気を瞬時に凍結。
透き通った足場を蹴り、迫り来る風の刃を紙一重で回避。稲妻のような鋭い軌道で、彼はアトロポスの頭上へと躍り出た。いくつもの薄氷が順に割れ、月光を浴びてきらめきながら落ちてゆく。
眼下を見据えアリウスが放ったのは、空気の膜で覆った特殊な水弾。アトロポスは眉一つ動かさず、風の刃でそれを粉砕。
水弾は弾け、霧の雨となり降り注ぐ。
アトロポスの銀糸のような髪が濡れ、その白い肌を冷たい滴が伝う。
刹那、アリウスの指先が最後の一文を描き、複雑な構文を完成させた。
瞬時に空間が絶対零度の冷気で凍りついた。浮遊する霧は固体化し、さらさらと落下してゆく。アトロポスに纏う水は、彼女を氷の檻へと閉じ込めた。
「……っ!」
アトロポスは即座に、自身の周囲の熱量を暴走させ、内側から氷を粉砕。弾け飛ぶ氷片。
――その瞬間を待ち構えていたかのように、蒼白い雷光が迸る。
アリウスの放ったその雷撃は、熱で溶け始めた氷片を媒介として伝播。
幾何学的な光の網を描き、逃げ場を失ったアトロポスへと殺到した。
分散したエネルギーは再び一点へと収束し、爆ぜるような轟雷が彼女を貫いた。
直後、雷の熱に灼かれた氷片が次々と水蒸気爆発を起こし、閃光と衝撃波の渦が広間を飲み込んだ。
雷撃の余波による爆煙を纏い、アトロポスは力なく堕ちていく。彼女を護っていたローブは無残に爆ぜ、朽ちた布切れが黒い雪のように舞った。
――ドサリ。
糸の切れた人形のように、彼女は冷たい地面へと叩きつけられた。
地面に横たわったアトロポスは、激痛に顔を歪めながらも、信じられないものを見るかのようにアリウスを凝視していた。
「……ありえない。『プレイヤー』ごときが、私を……絶対の摂理を凌駕したというのか」
彼女はよろめきながらも立ち上がり、再び死の大鋏を顕現させる。同時にローブを光の粒子が修復し始めた。
「かつて、この私に束になっても手も足も出なかった人間が……。お前らは、どうしょうもないほど愚かで、世界を汚す虫けらだ。裁きを待つ、ただ私に蹂躙されるだけの存在のはずだろう?」
「愚かな存在か……。確かに、人間は愚かだ。この欠陥だらけのつまらない世界を作った人間は、くだらない生き物だ。だがおれは、ただ蹂躙されるつもりはない」
彼女は、アリウスの言葉が聞こえていないかのように、一方的に言葉を発する。
「幾度となく湧いてくる貴様らを、その度に消してきた。……なのに、姉さまたちは戻らなかった。貴様一人を消したところで、今さら何が変わるというの? いつまで、こんなことを続けさせるの……? ……もう、疲れたの。ねえ、お願いだから。早く……消えて」
アリウスが着地すると同時、白銀の刃が彼を襲う。
(――来る!)
だが、アリウスはそれを容易く捌いた。彼女を支配していた完璧な論理が、今、目に見えて揺らいでいる。
続けざまに放たれる風の刃。無数の火球。雷の柱。そのどれもが機械のように完璧な軌道を描き、襲いかかる。だというのに、肝心な一点で「人間的なノイズ」が走り、至高の演算を狂わせる。
(まるで、完璧な機械の演奏に、感情的な人間が割り込んだようだ。……少しだけ、何か解ったような気がする。だがまだ足りない)
アリウスは再び構文を刻み始めた。氷の矢、雷撃、火球。あらゆる属性を織り交ぜた、怒涛の連続攻撃。
言葉の代わりに、数千の術式を叩きつける。それだけが、彼女という矛盾を解き明かす唯一の手段だった。
――二人の魔法は、激しい衝撃と閃光を広間に撒き散らしながらぶつかり合った。
もはや何人たりとも踏み入れることのできない、死の吹き荒れる場所。
死と閃光が渦巻くその空間は、世界から隔絶された「二人だけの戦場」と化していた。
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