第八話:終焉の女神アトロポス
――少女がアリウスに魔法を放つ、数秒前。
荒々しく着地したアリウスは、即座にローブの少女を観察対象として捉えた。
フードのせいで表情は分からない。うっすらと見える口元、指先、佇まいからは、何も解析ることはできなかった。
彼は視線を外さぬまま、そっと指輪に触れ、高速の構文を記述し始める。
(先ほどの、あらゆる弱点属性に即座に対応する力。先制攻撃は不利。ならば、対抗術式を組む――。条件定義。『火』を感知した場合は『水』を。『風』ならば……)
少女はため息をつき、何かをつぶやくと、無造作に手をかざす。
同時、アリウスの構文構築が完了。足元に魔法陣が展開する。
「遅い!」
(来る――)
不可視の断絶。圧縮された空気が真空の刃となって襲いかかる鎌鼬。
人間ならば反応すら許されない致死の速度。だが、アリウスにとってそれは、記述済みの予定調和に過ぎない。
それが喉元に迫ってもなお、彼は表情一つ変えずそれを眺めていた。
そのコンマ一秒の隙間。
アリウスの思考すら追い越して、記述された術式が自動実行される。
真正面へ割り込む火炎。それは彼を守るためだけに最小限の規模へ圧縮され、物理限界の速度で顕現した。
展開された熱源が空気を爆発的に膨張させ、真空の刃を内側から食い破る。
迫りくる風の刃は、火の熱という物理干渉によって、無害な微風へと書き換えられた。
破裂音とともに、彼を除くその周囲空間だけが、球状に抉り取られる。
「なぜ、私を目覚めさせたの? もう、疲れた……。とっとと『プレイヤー』を排除して早く眠りにつきたい」
砂煙の向こう。先ほど破壊の限りを尽くした死神から紡がれた言葉。
(……これが、あの少女の言葉?)
少女の振るう魔法は『論理』そのもの。先ほど防壁の上から見た景色と同じ、完璧な演算結果だ。
だというのに、彼女自身からは対極にあるはずの『感情』――人間的な疲弊すら感じられる。
観測結果の矛盾。そして、『プレイヤー』という謎の言葉。それらの全く結びつかない情報が、アリウスの脳を混乱させた。
――分からない。この結果がどうして導き出されるのか。
アリウスにとって、それは未知の体験だった。
砂煙が晴れていく。少女の姿が再び浮かび上がる。それとは対照的に曇ってゆく、アリウスの思考。
――解けない問い。未知の矛盾。
それを前にして、彼の内側では、少女への興味が抑えようもなく膨れ上がっていた。
「最速の鎌鼬を避けるか……。少しは、まともなやつがいたようだな」
少女がこちらを見る。
(もっと、もっと知りたい。君の目に映る世界は、いったいどんな色をしているんだ?)
アリウスは、再び高速で構文を紡いでいく。それを知るには、こちらから攻める他ない。
瞬く間に、『火』の核が完成し、三連の火球が敵に襲いかかる。
少女は一瞬、ふっ、と笑ったかと思うと、高速で水の弾丸を放つ。火球と衝突。爆発的な水蒸気が発生した。その中心を貫き、次の弾丸がアリウスへと迫る。
だが、水の魔法障壁がアリウスを守る。触れると同時、水の弾丸は、シールドに吸収された。
(予測通りだ。……次は土か)
前方から地面を土の棘が這い、襲ってくる。
アリウスはシールドをその場に切り離し、上空へと飛び出す。
迫る風の刃を火炎で防ぐと、そのまま、火球と水弾を織り交ぜて乱射。
――最後の水弾を撃ち終わる頃には、彼女の後ろへ回っていた。
着地と同時に待ち構えていたように襲いかかる土の棘。
アリウスはそれを土のシールドで吸収すると、そのままそれを少女に向けて放つ。
地面が変形し、バランスを崩した敵は後方へ飛び退く。
――だが、その先に待ち構えていたのは、先ほどアリウスが張った水のシールドであった。
少女がそれに触れると同時、『水』は変形し、少女を優しく包み込んだ。
少女が目を見開き、逃れようとした刹那。
前方から蒼の光――雷光が迸る。
豪快な爆発音。直後、辺りは白い霧に包まれた。空気を焦がす臭いが立ちこめる。
霧の向こうから放たれる風の刃。だが、それもまた、アリウスの構築済みの構文によって相殺された。
霧に霞む少女の影――その奥で、紅の双眸だけが妖しく、確かに光っていた。
「……効いたぞ。……この身に届く者がいようとは」
霧が晴れていく。月光がその輪郭を露わにするにつれ、爆発で朽ちたはずのローブが、光の粒子を帯びて再構築されていくのが見えた。
少女はこちらを真っ直ぐに見つめ、口元には妖しい笑みを浮かべていた。
「……いいだろう。……きさまを、一人の『プレイヤー』として認めよう」
少女は天の月を仰ぐと両手を広げ、重力という枷を脱ぎ捨てるかのように、ふわりと宙へ舞い上がる。
それはまるで静謐な水底へ沈んでいくような、神秘的な静けさを漂わせていた。
空中で静止した刹那、纏っていたフードがはらりと外れ、銀の髪がこぼれ落ちる。
月明かりが、露わになったその貌を照らし出す。
たなびく銀髪は、まるで、不純物を一切寄せつけぬ高純度の白金を、そのまま織り込んだ繊細な糸のように、一本一本が月光を浴び、絶えず煌めいている。
硝子細工のように透き通った肌は、無垢なる一粒の玉がそのまま形を変えたかのように滑らかで、その奥深くまで、月の光を吸い上げ、神秘的な燐光を放っていた。
少女の背後に光の粒子が集まり、精巧な金細工が施された、巨大な鋏を形成していく。
その輝きは、まさに神の座にある者にこそふさわしい、絶対的な荘厳さに満ちていた。
ただ一つ――その神聖な容姿に似つかわしくない、邪悪な紅に染まった瞳が、冷徹にアリウスを射抜く。
少女は虚空に浮かんだまま、再生したばかりのローブの裾を摘んだ。
空中に見えない床があるかのように、音もなく膝を折る。
重力を忘れたその淑やかな一礼は、美貌と相まって、酷く美しく、そして冒涜的なまでに恐ろしかった。
少女は、謳うようにその言葉を告げた。
「我が名はアトロポス。命運を司る三女神――最後の一柱。
この鋏が断つは定めの糸。其処に在るは、ただ冷厳なる不可避の死。
いかなる神とて抗えぬ、絶対の摂理なり。
――では、始めよう」
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