第一話:完璧な構文
静寂の森。小川のせせらぎ。そよぐ葉擦れ。それに合わせるかのように謳う小鳥のさえずり。
意識を静かに研ぎ澄ませ、アリウスは目の前の石碑を見る。
天の指先のような一筋の陽光が、そこに刻まれた文字を浮き上がらせていた。
――太古の昔に失われたはずの、人類の英知。
この空間を形作るすべてが――いや、それらを構成する根源の粒子さえも。
まるで、今ここにいる自分のために、緻密な計算によって完璧に配置されているかのようだった。
アリウスは息を呑む。これぞ自分が追い求める美の極致だ。
そして、その中心にあるもの――。彼は、石碑に刻まれた古代文字へと吸い寄せられるように目を移した。
周囲を縁取る装飾紋様の、奔放でいてどこか規則的なうねりが、中央の記述を際立たせている。
今すぐにでも試してみたい。この構文が紡ぎ出す魔法は、きっと美しい。
――だが、ギルドは新魔法の研究を即時凍結した。
理解できない。教会が危険視する『災厄』など取るに足りない妄想だ。現に千年もの間、何も起こっていない。それはギルドだって……
――静寂は、唐突に破られた。
「またここにいたのか、アリウス」
「!」
思考を分断された不快感に、アリウスは反射的に振り返った。
「……メギナス」
「メギナス『様』、だろ。いくらお前が優秀でも、その呼び方は感心しないねぇ」
アリウスは露骨に眉をひそめた。
「なんの用だ」
「……くく、そう殺気立つなよ。邪魔をして悪かったとは思っている。だが――例の『新魔法』、まだ諦めきれていないんだろう?」
「……あんたには、関係ない」
「まあ聞け。なぜその魔法の研究が凍結されたか教えてやる。ギルドはな、恐れてるんだよ」
「……『災厄』のことか? だがそれは――」
「違うな」
メギナスは冷ややかな笑みを浮かべ、アリウスを見据えた。
「奴らが恐れているのは『災厄』なんて曖昧なものじゃない。――お前だよ、アリウス」
「……おれ、だと?」
あまりに突飛な応えに、渇いた笑いすら浮かびそうになる。
だが、真っ直ぐに射抜くようなメギナスの視線。そこに戯言を言っている色はない。
「ああ、そうだ。お前の新魔法。あれは異常だ。魔法を読み解くだけでなく、自由に再構築する? あまつさえ神聖魔法の力すら組み込むだと? そんな芸当、人間に許された領域じゃない」
メギナスは一歩踏み出し、声を潜める。
「それが本当なら、魔法の概念が根底から覆る。――千年の歴史が、紙屑同然になるんだ」
「……だが、それの何がいけない?」
「上が欲しいのは、これまで築いてきた自分たちの権威だ。お前の研究を認めれば、ギルドも国も教会に潰されて終わり。研究の凍結は、最初から決まってたんだよ」
「……」
アリウスのすらりと伸びた指が掌に食い込む。それは、泥臭いギルドの騎士には似つかわしくないほど、綺麗で繊細な手だった。
「だから、場所を変えろ」
「……なに?」
――唐突な提案に、一瞬理解が遅れる。
「『ミストラル』へ渡れ、アリウス」
「……ミストラル。――正気か? 敵国だぞ」
「『向こう』へ通じるパスならある。……それに、あそこの古代図書館にはこれと同じ碑文が、手つかずのまま眠っているぞ」
――碑文。
アリウスは一瞬、その魅惑的な響きに心を奪われそうになる。だが、彼の理性はすぐに警鐘を鳴らした。
その表情には、明らかな警戒と疑念の色が濃く滲んでいる。
「……騎士団長のメギナス『様』が、敵国への『亡命』を斡旋すると?」
「人聞きが悪いな。おれは、あるべき才能をあるべき場所へ還すだけだ」
メギナスは不適に笑う。
『還す』。その奇妙な言葉選びに、アリウスは眉をひそめた。
「才能……か。それならサイラスがいるでしょう。あいつは誰もが認める『光』の側の人間だ。おれは、ここで魔法を読んでいるだけの、ただの凡人でいい」
「あいつは所詮『秀才』。お前とは格が違う。……ふん。それとも親父たちが背負った汚名がお前を臆病にしたか?」
アリウスが何か言い返そうと唇を震わせた、その時だった。
――不意に、風が止んだ。
肌を刺すような違和感。森が……やけに静かだ。木々は時間が止まったようにしんとしている。そして――空が陰った。二人の会話を遮るように、森は暗い影に包まれる。
「な……!?」
アリウスが空を見上げた瞬間、視界を覆い尽くすほどの巨大な影が上空を通過した。
それは漆黒の瘴気を尾のように引き、直後、叩きつけられるような烈風が二人を襲う。木々は恐怖の叫びのように、けたたましい唸りをあげた。
「――なんだ、今のは!? 気配が……尋常じゃない」
「……ドラゴン、のようだな」
「――ッ、ドラゴンだと!?」
「漆黒のドラゴン。一国を滅ぼすほどの力を持つ存在……。っはは。こりゃ、想像以上のデカさだ」
「笑い事じゃない。あっちは都市の方角だ。無駄話は……終わりだ」
アリウスは右手の指輪に触れると、宙に透明な光の軌跡を描き始めた。瞬く間に形成された光の「構文」に呼応して、大気が震える。光は収束し、二つの小さな球状の風となって彼の両足に纏いついた。
――ダンッ、と大地を蹴り、アリウスは影を追って飛び出した。
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――アリウスの姿が消えても、メギナスはすぐには動かなかった。
視線を落とし、先ほどまで彼が眺めていた碑文をじっと見つめる。
「凡人、か。ただの模様にしか見えないこれを、解読しようとする時点で異常だというのに。…………さて、舞台は整った。ドラゴン相手とはいえ、あいつの実力なら既存の魔法でも撃退してしまうかもしれん」
その口元が、歪に吊り上がる。
「……それでは困るんだよ。あいつには『禁忌』に手を染め、この国にいられなくなってもらわなくては」
メギナスは、ここへ来る道すがら見かけた少年の方角へ、氷のように冷ややかな視線を投げた。
森で薪を拾っていた、己の運命など知る由もない無垢な少年。
「あいつは論理的に見えて、誰よりも情に脆い。……だが同時に、新しい玩具を使いたくてウズウズしている子供でもある」
それは、局面のすべてを掌握した優位者の笑み。
盤上に置いた少年一つで、王を詰ませる。
その確信が、彼の口元を不敵に歪ませた。
「だから『理由』を作ってやるよ。『守るべき弱者』――そんな、最高の大義名分をな。……これなら心置きなく試せるだろう? その素晴らしい禁忌を」
魔物の襲来を警告する鐘が鳴り響く中、メギナスは愉悦に満ちた足取りで、ゆっくりと都市へ向かった。
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