竜騎士団の影と、最初の選択 #004
リュミエールの、絶対零度の覚悟。
それが、竜騎士団隊長ヴァレリウスの、あの鉄面皮に初めて明確な動揺の色を浮かばせた、まさにその瞬間だった。
張り詰めた、まるで一本の細い糸のような空気は、今にも、音を立てて断ち切られようとしていた。
ヴァレリウスの背後に、まるで鉄の壁のように控える黒鉄の騎士たちが、一斉に長剣を抜き放ち、その冷たい切っ先を、リュミエールへと、容赦なく向ける。
シャリクが、何の役にも立たない、あまりにも無力な身体を、それでも、最後の、そしておそらくは無駄な抵抗として、衝動的に前に押し出そうとした、その、永遠にも思える刹那。
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ふわり、と。
どこからともなく、強い、しかし、その強さとは裏腹に、どこか春の、生命力に満ち溢れた野原を思わせるような、不思議と心地の良い風が、この閉鎖された納屋の中を、まるで生き物のように吹き抜けた。
それは、この薄暗く、そして淀みきった、血と鉄錆と、そしてシャリク自身の、拭い去ることのできない絶望の臭いが、まるで凝固したかのように澱む納屋の空気を、一瞬にして、その存在の根源から浄化するかのようだ。
それらがまるで意思を持ち、そして誰かの指示に従っているかのように、竜騎士団の、あの屈強な騎士たちの視界を、効果的に遮る。
あまりにも突然の、そして奇妙な現象に、ほんの一瞬だけではあったが、確かに怯み、動きを止めた。
ヴァレリウスもまた、風の来た、その不可解な方向へと、訝しげに、そして警戒心を露わに向けていた。
リュミエールも、その、彼女の全身から放っていた、絶対零度の、全てを凍てつかせるはずの闘気をほんの僅かに収束させ、風の発生源一点を、ただじっと見据えた。
風が、まるで意思を持った蛇のように、渦を巻く。
納屋の中央、シャリクとリュミエール、ヴァレリウスたち竜騎士団の、ちょうど中間地点。
そこに、まるで陽炎のように、水面に映る月影のように、空間そのものがぐにゃりと音もなく揺らぎ、その揺らぎの中から、一人の、あまりにも小柄な少女が、まるで最初から、この世界の始まりからずっとそこにいたかのように、一切の音を立てることなく、ふわり、と、軽やかに舞い降りた。
歳は、シャリクよりも、さらにいくつも下に見える。十三、いや、あるいは十二といったところか。そのあまりの幼さに、シャリクは言葉を失う。
切りそろえられたまるで南国の海の色をそのまま写し取ったかのような空よりもなお鮮やかな青い髪が、彼女の、その無邪気な動きに合わせて、まるで生きているかのように楽しげに、そして軽やかに揺れている。大きな、どこまでも、それこそ世界の全ての純粋さを集めてきたかのような無垢な瞳は、この、あまりにも場違いな状況に対する恐れなど微塵も感じさせず、ただ、子供特有の、飽くなき好奇心に満ちて、キラキラと、それこそ星のように輝いていた。
その、あまりにも小柄で、そしてあまりにも華奢な身体には、どこか遠い、東方の草原の民を思わせるような、軽やかで、風と共に生きる者たちの自由さを感じさせる、異国情緒溢れる意匠の、若草色と純白を基調とした、簡素だが美しい衣服を、まるでそれが自身の皮膚の一部であるかのように自然に纏っている。
彼女の周囲には、常に、本当に常に、微かな、しかし確実に、どこか遠い、陽光に満ちた草原の、そこに咲き乱れる名もなき花々の蜜のような、甘く、どこか懐かしい香りと、どこまでも、どこまでも吹き抜けていく、自由な風の、その爽やかで、そして魂を浄化するような匂いが、まるで彼女自身がその香りの源であるかのように、絶えず漂っていた。
風が彼女の言葉を運び、風が彼女の感情を伝え、風が彼女の存在そのものを肯定しているかのようだ。
シャリクは、そのあまりにも幻想的のような登場に、ただ、ただ、唖然とし、そして呆然とするしかなかった。
(な、なんだ……? 今度は、一体、何が起きてるっていうんだ……? 子供……? いや、でも、この、この異常なまでの雰囲気は……、風が、この子の周りで、まるで生き物みたいに……、歌ってる……?)
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空色の髪の少女は、一触即発濃厚な殺気すらも遠慮なく漂う、このあまりにも緊迫した状況など、まるでそれが存在しないかのように、もしくは、それが自分にとってはただの楽しい遊び場であるかのように、全く意に介さぬ様子で、純粋な瞳を、シャリクへとただ真っ直ぐに向けた。
そして、次の瞬間。
まるで、長い間ずっと探し続けていた、かけがえのない宝物を、ついに見つけ出したかのように、まだ幼さの残る愛らしい顔一杯に、真夏の太陽のような、一切の曇りのない、屈託のない笑顔を、まるで大輪の花のように咲かせた。
「わぁ! あなたが、新しい〝皇竜様〟なんだねっ!?」
少女は、喜びを隠しきれない様子で叫ぶと同時に、シャリクへと、まるで風に舞う蝶のように、一切の躊躇いなく、一直線に駆け寄ってきた。
その動きは、まるで風そのものが、彼女の意思に従って彼女を運んでいるかのように、あまりにも軽やかで、そして、シャリクの、その貧弱な動体視力では到底捉えきれないほどに、あまりにも速い。
シャリクは、その、突然の、親密な接近に、ただただ、その場で硬直する。
「やったー! やった、やった、やっと会えたんだね! 風の精霊さんたちがね、ずーっと、ずーっと前から、ミィナに教えてくれてたんだよ! 『もうすぐ、すっごい人に会えるよー』って! 『その人はね、きっと、ミィナと、とーっても仲良しになれる、運命の人だよー』って! きっと、あなたのことだったんだね! ね、そうでしょう!?」
少女は、シャリクの、その返事も待たずに、彼の目の前で、まるで嬉しさを全身で表現するかのように、あるいは、彼女自身が風と戯れているかのように、その場でくるくると、まるでコマのように嬉しそうに一回転する。彼女が動くたびに、周囲の空気が甘く香り、心地よい風がシャリクの頬を撫でた。
そして、その、まるで子犬のような勢いのまま、シャリクの隣に、まるで彼を守る最後の砦であるかのように、あるいは、彼と共に戦う戦乙女であるかのように、毅然として立つリュミエールへと、その、一切の人見知りなどという感情を感じさせない、人懐っこい笑顔を向けた。
「リュミエールお姉様も、こんにちはー! こんなところで会うなんて、本当に奇遇だねっ! もしかして、リュミエールお姉様も、皇竜様に会いに来たのー?」
その、あまりにも天真爛漫な、この場の状況とは致命的なまでに不釣り合いな、一切の警戒心というものを感じさせない、そのあまりにも無防備な態度。
それは、この場の、それこそ剃刀の刃の上を歩くかのような、凍りつくような緊張感を、ある意味で、そして誰にも予期せぬ形で、完全に、そして跡形もなく破壊していた。
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竜騎士団隊長ヴァレリウス。
彼の顔には、一切隠しようのない、絶対的な驚愕の色が、まるで仮面が剥がれ落ちたかのように、はっきりと浮かんでいた。
無理もない。フロステアのその内に氷竜の血を色濃く引く、厄介極まりない王女一人だけでも彼の計画を大きく狂わせるに十分すぎるというのに、今度は、全く、それこそ神々の悪戯としか思えぬほどに予期せぬ形で、一見すればただの子供にしか見えないが、その身に纏う雰囲気からして、明らかに尋常ではない、二人目の〝何か〟が、この、彼にとっては重要な任務の途中に、まるで嵐のように現れたのだから。
彼の、長年の経験と、獣のような鋭い勘が、この、あまりにも小柄で、そしてあまりにも無邪気な少女が、決して、断じて、ただの無力な子供ではないことを、彼の脳髄に、明確に、そして警告と共に告げていた。
(風……? この、まるで生きているかのような、そしてあまりにも精密な、異常なまでの風の制御……。まさか、あの、大陸東方に広がる、果てなき風の大地を支配するという、セリュウ草原連邦の、あの〝風詠み〟の一族か……!? いや、それ以上の……まさか、あれも〝竜姫〟だとでもいうのか……!? なぜ、こんな、大陸の辺境の……。一体、何がどうなっている……!?)
ヴァレリウスの額に、一筋の、まるで氷のように冷たい汗が、ゆっくりと、しかし確実に伝う。
彼の、完璧であったはずの計画が、そして、この場の、彼が支配していたはずの力の均衡が、今、大きく、そして彼には全く予測のつかない、そして致命的な方向へと、急速に傾き始めているのを、彼は、その、苦々しい、そしてどこか焦燥感を滲ませた表情と共に、認めざるを得なかった。
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一方、リュミエールは。
その、突然、風と共に現れた青い髪の少女。
ミィナ・サリフィエル。
その名を、リュミエールは、もちろん知っている。
マイペースで、そして、この場の状況を一切考慮しないかのような登場と、そして、長年の親友にでも接するかのような、馴れ馴れしいまでの態度に、ほんの僅かではあったが、ピクリと鋭くひそめた。
大陸東方に広がる、セリュウ草原連邦の、風を司る古の竜の血を引く、正真正銘の〝風竜の姫〟。
一見すればただの子供にしか見えない、どこまでも無邪気で天真爛漫な振る舞いとは裏腹に、その身に宿す風を操る能力に関しては、他の、数多いるはずの竜姫たちの中でも、間違いなく随一、あるいはそれ以上と言われるほどの、規格外の存在。そして、何よりも、その、まるで春の嵐のように、一切の行動の予測のつかなさにおいては、おそらく、この世界の誰一人として、彼女の右に出る者はいない、と。
(ミィナ・サリフィエル……。なぜ、貴女までが、このような、何の縁もゆかりもないはずの場所に、このようなタイミングで現れるのですか……。まさか、本当に、あの、貴女がいつも口にする、実在するのかどうかも定かではない〝風の精霊〟とやらが、貴女を、この、あまりにも危険な場所まで運んできたとでも、そう、言うつもりかしら……? それとも、何か、別の……私がまだ知らない、何らかの意図が……?)
リュミエールの冷静沈着なはずの内心は、決して、穏やかではなかった。状況が、彼女の予想を遥かに超えて、さらに複雑化し、そして、このシャリク・ヴァルデインという、つい先程まではただの〝出来損ない〟としか思っていなかった少年が持つ、その存在の重要性が、彼女の、そしておそらくはこの世界の運命にとって、あまりにも急速に、そしてあまりにも巨大に高まっていることを、彼女は、その、いかなる状況下にあっても失われることのない、冷静な思考の中で、改めて、そしてどこか戦慄と共に、再認識せざるを得なかった。
だが、リュミエールは、このミィナという少女が、少なくとも現時点において、シャリク・ヴァルデインに対して、明確な敵意や害意を持っていないことも、その、あまりにも無邪気で、純粋な、そして子供特有の、飽くなき好奇心の色から、はっきりと感じ取っていた。
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その、三者三様の、そして複雑に絡み合う思惑と、そして言葉にはならぬ感情とが、まるで目に見えない火花のように交錯する、奇妙な、そしてどこか滑稽なまでの静寂の中で。
青い髪の少女、ミィナは、再びシャリクへと向き直ると、まるでそれが、この世界で最も楽しく、そして最も重要なことであるかのように、その、きらきらと輝く大きな瞳で彼の顔を覗き込み、そして、まるで大切な、大切な秘密でも、彼にだけこっそりと打ち明けるかのように、その小さな、しかしどこか不思議な魅力を持つ顔を、彼へと、ぐいと近づけた。
そして、悪戯が成功した子供のような、どこまでも無邪気な笑みを浮かべながら、ヴァレリウスたち、あの、いかめしく、そして敵意を隠そうともしない竜騎士団の方を、ちらりと、まるでそれが汚いものでもあるかのように、あるいは、ただの背景であるかのように、盗み見る。
「ねえ、〝皇竜様〟? あのおじさんたち、なんだかとっても、とーっても怖い顔してるけど、もしかして、皇竜様と、これから、おしくらまんじゅうでもして、一緒に遊ぶんじゃなかったのー? ミィナも、まーぜーてっ!」
その、あまりにも場違いで、そして、この場の全ての者の度肝を抜く、あまりにも無邪気で、そしてあまりにも突拍子もない言葉。
それが、この、凍りつき、張り詰めていたはずの空気を、ほんの僅かだけ、しかし、確実に、そしてどこか心地よく、揺るがした。
彼女の、その、風に愛されたかのような、あまりにも小柄で、そしてあまりにも華奢な身体の周囲には、常に、まるで彼女を守る、忠実にして見えざる騎士であるかのように、あるいは、彼女の、その奔放な感情に、ただ 呼応するかのように、優しい、しかし、時には、その奥に鋭い刃を隠し持つかのような、不思議な風が、まるで呼吸をするかのように、絶えず、そして優雅に纏わりついている。
その風が、竜騎士団の、屈強な騎士たちが放つ威圧感を、相殺しているかのようだ。
シャリクは、現実離れした、理解力を遥かに超えた展開の連続に、もはや、何を感じ、何を考え、そして、この後、どうすればいいのかすら、全く、分からなくなっていた。
(皇竜様って、本当に、俺のこと、なのか……? 風の精霊……? さっきまでの、あの、殺し合いみたいな、命懸けの雰囲気は、一体どこに行っちまったんだ……?)
ただ、目の前の、まるで春の嵐のように現れた、あまりにも不思議で、そしてあまりにも規格外な少女の、一切の曇りのない、そしてあまりにも真っ直ぐすぎる、吸い込まれそうなほどに大きな瞳に、ほんの少しだけ、本当に、ほんの少しだけではあったが、先程までの、あの息も詰まるような、そして魂の底から湧き上がるような絶望的な緊張感が、和らいでいくのを感じていた。
それは、決して、安心などという、そんな生易しい感情では、断じてない。だが、少なくとも、ほんの僅かな、本当に、ほんの僅かな、呼吸をするためだけの、そして、この、あまりにも理不尽な状況を、ほんの少しだけ客観的に見つめ直すためだけの隙間が、彼の、その、今にも張り裂けんばかりに押し潰されそうだった心に、確かに、生まれたような、そんな気がした。