竜騎士団の影と、最初の選択 #003
リュミエールの、その凛とした、冷徹な宣言が響き渡る。
それが、この薄暗い古びた納屋の空気を変質させた。一瞬にして、絶対零度の氷塊のように、完全に凍てつかせたのだ。
いや、それはもはや比喩などという生易しいものではない。実際に、物理的に、この空間の温度そのものが急激に低下していく。彼女の全身から放たれる、意思を持ったかのような凄まじい冷気。
彼女から、冷気が陽炎のように立ち昇る。それはゆらゆらと舞い、見る者の正気すら奪う。
彼女の内に秘められた、始祖氷竜グラキエスより受け継いだ絶対的な氷の魔力。それが彼女の鋼のような怒りに、シャリクを守り抜くという揺るぎない決意に呼応する。
シャリクは息を呑む。石でも飲み込んだかのように、喉がひきつった。目の前で繰り広げられようとする、あまりにも現実離れした光景。
対する、竜騎士団の隊長ヴァレリウス。
彼の、風化した岩肌のような厳つい顔。そこにはリュミエールの挑戦的な言葉に対する、明確な不快感が浮かぶ。まるで目の前に転がり込んできた、予想外だが極上の獲物を見つけた狩人のような、強欲な光だ。
彼はシャリクからリュミエールへと視線を移す。一度捉えた獲物は神であろうと決して逃さぬと言わんばかりの視線。
「フロステアの、正統なる血を引くという、第一王女殿、か。なるほど、これは驚いた。加えて、実に興味深いことだ」
その声には、先程シャリクに向けられたあからさまな侮蔑とは異なる響きがあった。どこか相手の真意と、その底にあるであろう弱点を執拗に探るような。一切の油断のならない、まるで沼の底から響いてくるかのような声色。
●
ヴァレリウスはリュミエールの絶対的な気迫に僅かながら気圧されている。だが、決して屈してはいない。
「貴国が、我がアストレア大陸が長年かけて築き上げてきた、この尊き法。我ら竜騎士団が、その血と誇りをもって絶対の忠誠を誓う、古の規律。それらを、そうまでして、その美しき御足で踏みにじろうというのであれば、こちらも相応の対応を考えねばなりますまいな。たとえ、相手が、かの雪と氷に永遠に閉ざされた北の大国の、選ばれた王女であろうとも。我らには、その〝権利〟と〝義務〟があるのだからな」
●
ヴァレリウスの言葉は静かだった。だがその静けさの奥には、明確な脅迫の意志が込められている。
周囲を包囲する黒鉄の騎士たち。彼らがヴァレリウスの宣戦布告とも取れる言葉に呼応する。カチャリ、と一斉に、腰に佩いた長剣の柄に無言のまま手をかけた。確実な殺意を込めて。
空気が張り詰めていく。ま
シャリクは、ただ自分の心臓が激しく脈打つのを感じていた。
(やめろ……! もう、やめてくれ……! 俺なんかのために、これ以上、争わないでくれ……! 俺は……、俺は、どうなってもいいから……!)
声にならない叫び。あまりにも情けなく、無力な慟哭。それが彼の渇ききった喉の奥で、誰にも届くことなく虚しく惨めにこだまする。
●
リュミエールは、そのヴァレリウスの巧妙に隠蔽された脅しにも、美しい眉一つ動かさない。
彼女の夜空の深淵を閉じ込めたかのような蒼い瞳。それはただ真っ直ぐに男の瞳の奥底にあるであろう、彼の矮小にして醜悪な真の魂胆を見据えている。まるで全てを見透かすかのように。あるいは、その存在そのものを否定するかのように。
「ふぅん? それはむしろ、こちらの言葉。そして、この世界の全ての良識ある者たちの言葉でしょう、ヴァレリウス殿。この、何の力も持たぬはずの少年。貴方がたが〝出来損ない〟と一方的に蔑む、このシャリク・ヴァルデインに対し、大陸最強を謳う竜騎士団がこれほどの戦力を差し向ける。その異常な理由こそ、我々フロステアには不可解極まりないのですけれど」
彼女の言葉は、氷の結晶が触れ合うように、硬質で澄み切っている。
「それとも……、貴方がた竜騎士団は、いつから、ただの魔力を持たぬ少年一人を捕らえるのに、これほどの茶番を演じるようになったのかしら? それこそ、大陸の笑いものですわ」
「我々はただ、大陸の法と我らが騎士団に伝わる古の秩序に従うのみ。この地で観測された異常な魔力の調査。そして、世界への災厄となりかねない危険性の速やかなる排除。それを厳粛に命じられたに過ぎん。そこに、貴女が疑うような浅ましい企みなど、一切挟む余地はない」
●
ヴァレリウスは淀みなく答える。まるでそれが絶対的な真実であるかのように。その声には微かな苛立ちが滲む。
「我々は改めて今、その排除すべき〝危険対象〟が、このシャリク・ヴァルデインであると、結論付けた。様々な状況証拠。そして何よりも信頼すべき情報源からの証言に基づき。なにしろ、かの高潔にして偉大なるヴァルデイン辺境伯閣下からの正式な依頼もありましたのでな。父としての、あまりにも切実な、涙ぐましいまでの。――『これ以上、我がヴァルデイン家の輝かしい名誉と、地に堕ちた家の恥を、この愚息に晒し続けさせるわけにはいかぬ』、と。出来損ないにも、使い道というものがあったようで、騎士団としても、また彼のご家族にとっても、喜ばしい限りだとは思いませんか? シャリク・ヴァルデイン」
●
それはシャリクの存在を、完全に否定するかのようだった。残酷で、無慈悲な言葉。
その言葉が、シャリクの脆い心に深く容赦なく突き刺さった。
(親父たちが……俺を、竜騎士団に……売り渡しやがった……? やっぱり、そうなのか……? ただの邪魔な存在でしかなくて……、最後に残った、利用できるだけの、ただの汚れた道具でしかないのか……!)
絶望的なまでの拒絶。それはもはや覆しようのない、家族からの完全なる最終的なもの。
その冷酷で残酷すぎる事実。それがシャリクのかろうじて保っていた精神の最後の均衡を、無慈悲に完全に、プツリと断ち切った。
視界がぐにゃりと歪む。
耳鳴りが嵐のように、彼の乏しい意識の全てを容赦なく覆い尽くす。
リュミエールの気高い背中が遠く霞んで見えた。
もう、何もかも、どうでもいいのかもしれない。
シャリクの右手の甲の紋章。それが彼の絶望に呼応するかのように、一瞬だけ苦しげに蒼白い光を揺らめかせた。
●
リュミエールだけが、その鋭敏な感覚でそれを捉えていた。
「あの、古き血統だけを最後の拠り所とし、その実、魂の内側から腐り落ちていると噂の」
リュミエールは小さく、冷ややかに頷く。
声には僅かながら、ヴァレリウスに対する、そしてその背後にいるであろうシャリクの忌まわしく救いようのない家族に対する、氷のような軽蔑の色が明確に滲んでいた。一切の共感を排した、冷たい色。
「ですが、ヴァレリウス殿。貴方がたが声高に叫ぶ、その〝危険〟とは、一体全体、何を指してのことですの? この少年が右手に宿すことになった、この清浄にして強大な、古の〝皇竜〟の聖なる力のことを、まさかそう呼んでおられるのであれば、それは貴方がた人間風情の竜騎士団などが、その汚れた口で軽々しく口にすべき性質のものではありませんわ。それは、万物を凍てつかせる氷の摂理が如く、自明の理」
彼女の言葉は、静かながらも、絶対的な確信に満ちている。それは、彼女自身の血に流れる氷竜の誇りそのもの。
●
「……なっ……こ、皇竜、だと……!? 馬鹿な、あの伝説上の、そして禁忌の……!?」
ヴァレリウスの厳つい顔。常に冷静沈着を装っていたはずのそこに、初めて隠しようのない明確な驚愕が浮かぶ。そしてそれを遥かに上回る、餓えた獣のような強欲で醜悪な光が。シャリクは朦朧とする意識の片隅で、それを確かに捉えた。
この男は、その全てを知っていたわけではなかったのだ。皇竜の力の本当の意味と価値を。ただ利用価値のある、何か強大な何かが、この出来損ないのシャリクに宿った。そう認識していたのかもしれない。その力を自分の野心のために利用しようと、心の底から考えていたのかもしれない。その浅ましさが今、リュミエールの言葉によって無慈悲に暴かれようとしていた。
「その力は、真に理解し正しく導く者の手に渡れば、この大陸に再び絶対的な秩序と安寧をもたらす唯一無二の希望の光となり得るでしょう。ですが、貴方がたのような、ただ目先の力に目が眩み、その気高い力を己の矮小な野心のために利用しようとしか考えぬ愚かな者たちの手に渡れば、それは千年前の悲劇を再び繰り返すだけの、破滅の引き金にしかなり得ませんわ」
リュミエールの言葉は、もはやただの王女のものではなかった。それは古の賢者が語る、世界の行く末を深く憂う厳粛な警告のようだ。その声には彼女自身の氷竜の血に刻まれた、永い記憶と悲願が込められているのかもしれない。
「シャリク・ヴァルデインの意志。彼の魂の選択。それこそが今、何よりも尊重されるべきもの。貴方がた竜騎士団に、彼の聖なる運命を塵芥のように左右する権利など、どこにもありはしないのです。……もし、それでも、この皇竜の器たる者を、その汚れた手で力づくで連れ去ろうというのであれば――」
リュミエールはそこで言葉を鋭く切った。
彼女の身体の周囲の空気が、甲高い音を立てて急激に絶対零度に凍りつき始めた。高純度の魔力が臨界点を突破する。
絶対零度の、死をもたらす冷気がこの古びた納屋全体を一瞬にして支配する。
「――この、我が魂の一部たる〝フロストリーパー〟に宿る、我が祖、始祖氷竜グラキエスの全魔力をもって、貴方がた全てを、この場で一片の情けもなく、永遠の氷の塵へと変えましょうぞ」
その声はどこまでも静かだった。だがその静けさの奥には、何者にも覆すことのできない絶対的な、そしてどこかあまりにも悲しいほどに神聖なまでの、揺るぎない覚悟が込められていた。シャリクはその瞬間、彼女のあまりにもか細い背後に、巨大で気高い氷の竜の荘厳にして神々しい幻影を見たような気がした。その竜の瞳は、この世界を、どこまでも優しく、厳しく見守っているようだった。
シャリクは、そのリュミエールの気高い姿に、ただ魂の全てで圧倒されていた。この世のものとは思えぬほどに美しく、どこまでも力強い、戦う乙女。あるいは、運命に立ち向かう女神の姿に。
(リュミエールが、俺のために、こんな何の取り柄もない出来損ないの俺のために、本気で、あの竜騎士団とたった一人で戦おうとしてる……? なんでだよ……俺なんかのために、そこまで命を張る必要なんて、どこにもこれっぽっちもないはずなのに……!)
彼の冷え切っていたはずの胸の奥。そこでこれまでの人生で一度として感じたことのない、熱く、そしてどこか甘美なまでの痛みを伴う強烈な感情が、抑えきれない奔流のように激しく渦巻いていた。
自分の無力さに対するどうしようもない絶望。彼女の献身的な姿に対する言葉では表現しきれない圧倒的な負い目。
だが、それだけでは決してなかった。彼女の絶対的な強さ。自分に向けられた真摯で一切の曇りのない信頼に満ちた眼差し。その中に、シャリクはほんの僅かだけ、何かを感じていた。自分の中にずっと昔から深く眠っていたはずの、しかし今まで一度として気づくことのなかった小さな〝何か〟。それが彼女の気高い姿に呼応して、微かに、しかし確かに存在を主張するように震え始めているのを。
それはまだあまりにも弱々しく頼りない、いつ消えてしまうかも分からないか細い希望。生まれて初めて心の底から、誰かのために、自分自身のために何かをしたいと願った。このヴァレリウスという巨大で理不尽な「世界の悪意」を前にして。このリュミエールという気高く献身的な「他者の善意」を前にして。
シャリク・ヴァルデインの中に永い間眠っていた本当の何かが、今まさに産声を上げようとしていた。彼の右手の甲の紋章。それがまるでその新たな胎動を祝福するかのように、先程よりもさらに強く確かな熱をもって、その蒼白い光をこの薄暗く絶望に満ちた納屋の奥底で、静かに、しかし力強く放ち始めていた。
それは、シャリクだけが感じ取れる、微かな、しかし確実な力の奔流の、その確かな兆しだった。