3.真夜中の攻防
地下四十メートルに位置する、隔絶された空間。ここで、海底より引き上げられた、謎の箱の調査が開始されていた。
この箱が海底にどれだけの期間置かれていたのかは不明。
箱には、傷や汚れ、海洋動植物類の付着や、劣化、腐食などは見られない。
先ずはこの箱を解析し、中のモノがどういった性質のものであるか推測する。また可能であれば、黒い箱を再現した部屋を作り、その中で箱の中の脅威が確実に外へ漏れないよう、慎重に中身の調査を行っていく。
箱には蓋やつなぎ目がなく、海底にあった状態のまま運び込まれて置かれているため、これが正しい上下かも不明であり、これを開ける方法もまた不明である。
今は、箱の表面に刻まれた文様の状態を細部まで写し取り、イグドラシルのデータと照合して、何時、何処で、どうゆう目的で作られた物かを調べるための作業が行われている。
作業は四人一組のチームとなり交代で行われ、二人が箱の写し取り作業を行い、一人が同じ空間で二人の監視を行う。
外的な魔力を遮断する防護服とマスクとゴーグルを着用しているとはいえ、箱に近寄って作業する者にどのような影響が出るか分からない。そのため、一人が箱から離れた場所で、箱と共に二人の様子や体調を見守る役割だ。
空間には、一つだけドアがあり、そこから地上までの昇降機がある。
昇降機までは橋を渡る必要があり、人がこの空間から退出すると、この橋が昇降機側に折りたたまれて格納され、空間からの移動手段が無くなる。
また、この昇降機までの竪穴には、飛行魔術を阻害する魔術符が設置されている。
そして四人目の一人が昇降機に待機しており、状況を定期的に地上の研究室に連絡する係となっていた。
ドアは一つだが、昇降機は三台があり、一台は作業の間必ずこの場に停止し、二台は物資搬入用や、緊急用として利用されている
調査は交代制で行われるため、夜間も続けられる。
夜半から深夜にかけての時間帯の担当となり、深夜に差し掛かるこの時間、魔法安全対策課班長のイフェイオンは作業を行っているグループに加わっていた。
イフェイオンはどちらかと言うと、閉塞した空間にいるとう状況は得意ではない。
だが今回の大任に、手指の毛細血管の位置が分かるほどの興奮状態が、箱を見る度に起こり、恐怖を克服し、この場で部下である作業員を監視していた。
警察学校で同期だったニトゥリーのような化け物じみた魔力や、特異な魔術があるわけではないが、微に入り細を穿つ性格と、誰よりも臆病で慎重であることを長所とし、業務の成果へ繋げるように努力して、ここまでやって来た自負がある。
箱をこの施設に搬入する際に、些か舞い上がってしまったことは認めるが、これからは油断せず、焦らず慎重にこの箱の中身の調査を行っていく。
箱びっしりと刻まれた文様は、たった五センチを写し取るにも数時間を要する。
作業員は、箱の左右に別れ一人ずつ行う。また、正確を期すために写し取ったものを交換して確認する作業もあり、ゴーグルには物を拡大して明るく映す機能があるが、それでもここ最近の作業員の眼精疲労が半端ないようだ。
イフェイオンは、ドアの外側から橋を誰かが渡って来る音を聞き、何事かとそちらに目を向ける。
ここへは、作業員以外の立ち入りが禁止されている。
見ると、予備の昇降機でやってきたのは、魔法安全対策課のウィステリア課長で、彼が橋をこちらに歩いて来るところだった。ウィステリアはイフェイオンの上司に当たる人物だ。
「課長、いかがなさいましたか?」
イフェイオンは咎めるように問う。
何かあったとしても、昇降機で待機している連絡係に話を通すのが決まりだからで、課長といえども、勝手にここへ立ち入ることは出来ない。
「非効率だ」
「は?」
ウィステリアはイフェイオンの元まで来ると、繰り返した。
「実に、非効率だと思わないかね?」
「この作業についてでしょうか?でしたら、既に何度も検討して決定したことです」
警察機関での上下関係は絶対で、部下が上司にものを言う事はまずないが、それでもイフェイオンは、言葉に反抗的な色が加わることを抑えられなかった。
「こんなものは、全く同じてなくても、だいたいの輪郭を写し取って、それに類似したものを手当たり次第探した方が、ずっと効率がいいだろう?」
「ご意見は上に戻ってからお伺いします。ですから、この場からは速やかに退出なさってください」
不確定要素をこの空間に持ち込むのは、上司と言えど許しがたい危険行為であると、イフェイオンは毅然と退場を促す。
こんな夜中に、この危険物を扱う最重要拠点へ連絡もなくふらりとやって来ること自体が、懲戒ものなのだ。それに、ここの指揮管理はイフェイオンが担っており、その上司であるウィステリア課長は相談を受けるか、責任を負うかの役割でしかない。
不意に、ウィステリアの腕がイフェイオンに伸びる。
イフェイオンは躱して、後方に飛びずさった。
「課長、どういう事です?」
異変に気付いた作業員がこちらにやって来て、そして、イフェイオンを羽交い締めにして押さえつけた。
「おい!何をする!お前たちまで、一体どうしたんだ!?」
突然侵入して来たウィステリアを押さえつけるのなら分かるが、作業員の二人がイフェイオンを押さえつけた。床に膝をついたイフェイオンはその時初めて、床が床材と同色の砂粒に覆われていることに気付いた。
何だこれは、一体どこからこんなものが。
目の前のウィステリアが、イフェイオンの後方にある箱を指さして笑った。
「早い話、これを開ければいいんだろう?中身が分かればいいんだからさあ、こんなにきっちり調べるから課員たちの業務量が減らないんだよ。いつも、『お前のところの残業量は、何とかならないのか』と、上から喧しく言われていてねえ、胃は弱るし、食欲はなくなるしで、こんなに痩せちゃったよ」と、丸くせり出た腹を擦りながら、ウィステリアが言う。
振り返ると、一人の作業員が箱の表面を手で触れている。
「やめろ!!」
イフェイオンは自分を押さえつけている部下を弾き飛ばすと、ウィステリアをドアの向こうに蹴り飛ばして、ドアを内側から閉める非常用ボタンを押した。
外に繋がる部屋の穴は、一瞬で厚く重い強化金属によって閉ざされ、この空間と外界を遮断した。
空間には、二人の作業員とイフェイオンが取り残された。
一時間で照明が落ち、数時間を待たずしてこの空間からは空気が排出され真空となる。
また、中からボタンが押された場合、外からは二度と開かない仕組みとなっているため、イフェイオンは、この箱の中身が外に出ないよう、自分と二人の部下の命を犠牲にしたのだ。
「うう、イフェイオン班長・・・・・・」
イフェイオンは、部下のゴーグルの奥の混濁した瞳を見た。
すまない。
二人もこの空間の外に出してやりたかったが、確実にこの空間を遮断するには、一瞬の躊躇いも許されず、こうするより他なかったのだ。
イフェイオンは足元の砂を手で掬ってみる。
見た目は床材と同じ素材に見えるが、この強化金属が、ここまで細かな粒子となって削られるはずがない。
手袋を外して、粒子を指先で確かめる。
イフェイオンは岩石や鉱物、金属などの状態や鑑定を得意としており、その際、素手で触れる必要があった。
これは、床材と同一の物だ。
つまり、何かの現象が、このイグドラム国で最も硬いとされる金属を削ったのだ。
「今更、そんなことが分かったところでな・・・・・・」
イフェイオンは、出来ればこの時間が長く続かないことを願った。
先ほどこの空間を隔絶した際には、これを地上に出してはいけないという、ただその思いだけだったが、こうしてゆっくりと考える時間が出来ると、余計な事ばかり浮かんできてしまうのだ。
二人の部下に目を向けると、思いのほか側にいて驚いた。
依然、意識は朦朧としているようだ。
その方が幸せだろう。
私は発狂しないでいられるだろうか。
部下の一人の腕が伸びてきて、イフェイオンはそれを手で払う。
「何だ?」
もう一人も捕まえようというのか手を伸ばしてくるため、イフェイオンは背後の壁に後退り、足元が突然何かにすくわれて、体勢を崩した。
見ると、砂が流砂のように渦を巻いて動いている。
砂は厚みを増し、あっという間に踝まで覆うほど積み重なって、それが意思を持った生き物の様にイフェイオンの周囲に重点的に集まって来る。
泥濘に足を突っ込んだように、この場での歩行が困難な状態に陥っていることに、焦燥を感じた。
イフェイオンは箱の中身について、三つの仮説を立てていた。
一つ目の仮説は高等治癒魔法の利かない病魔に罹患した者の死体。この場合、箱を開けた途端、この病魔が拡散し、災厄が人類に振りまかれるだろう。
二つ目の仮説は創世記の武器。伝説では、武器そのものに魔力や意思がある物が存在するという。漏れ出る魔力がこれほどまで大きいのであれば、荒唐無稽な説とも言い難いだろう。
三つ目の仮説は封じるより他にない存在。海底に箱が置かれていた状況から、海と相性の悪い何かを閉じ込めいたという説が成り立つ。
海と相性が悪く封じるよりほかにない存在には、魔族にいくつかそういう種がある。
これらのどれであっても、世に出してはならない。
イフェイオンは砂を纏わり付かせたまま、箱から離れた壁側へ後退する。
二人の部下は、そんなイフェイオンを捉えようと迫って来る。魅了、催眠、混乱、混濁といった精神的な魔法攻撃を九割以上遮断する防御服を着ており、また、そうした魔法攻撃に耐性のない者は、この魔法安全対策課には適正なしとして所属することが出来ない。
つまり、精神攻撃耐性の強いエルフと、それを防ぐ防護服の技術をも凌駕する魔術が使われ、この二人と、外にいたウィステリアを操っているという事だ。
ここへ足を踏み入れたことのないウィステリアまでもが操られたのには、何かを媒介にして魔術が拡散されたのだろう。
もともと、適性を認められ課員となった実力のある部下達と違い、ウィステリアは政治的な根回しを得意としてのし上がったエルフだ。上に取り入り、同期を蹴落とし、魔法安全対策課の実務をこなす実力はないが、それらを管理するだけという事で、課長職の座にいるのだから、精神攻撃魔法には瞬殺だったのだろう。
あのデブめ。
イフェイオンは絡めとられた砂によって、足がピクリとも動かなくなり、二人の部下に捕まって箱の前に連れてこられた。
イフェイオンの両手が箱へと付けられ、その瞬間、砂が薄い刃のようにイフェイオンの手のひらを掠って、そこから血が滲みだした。
血が付着したところから、黒い箱の文様に赤い光が奔る。まるで血液が染み込んで移動するように、全体へと光が行き渡る。
例え何が飛び出してきても、この空間からは出られない。
イフェイオンは、緊張しながらも、この施設に絶対の自信を持っていた。
この箱から出てきたモノに殺されるか、窒息を待つか。この場においては、前者の方がずっといいように思える。
イフェイオンは、いま触れた箱に対し、違和感を覚えた。
イフェイオンは、触れた金属の鑑定が出来る能力を持つ。だがこの黒い箱は、金属や鉱物といったものではなく、生物に触れたように感じたのだ。
二人の部下からは、既に押さえつける力がなくなり、イフェイオンは箱から二人の部下ごと遠ざけて、赤く光る箱を観察する。
最期に面白いものが見られそうだ。
無意味だった文様が五センチ四方のブロックごとに移動して位置を変え、やがて正しい位置に収まったように動きを止めて一つの不吉な意匠を浮かび上がらせた。
邪悪の樹の象徴図。
悪徳で表される十の存在を木の枝で結び付けたような意匠、その第三の「拒絶」の部分が強調されている。
イフェイオンは息を飲んだ。
それは、彼が想像していた箱の中身を、遥かに悪い方へと超えていたのだ。
封じるより他にないモノ。邪悪の樹は、魔族の祖となった十の邪神を示し、そしてその中でも、その強さが三番目とされている存在を示している。
十の邪神など御伽噺のようなものだ、存在すら虚構である可能性がある。
何者かが、意匠として刻んだだけだ。
目の前で、邪悪の樹を浮かび上がらせた箱は、その形状を一瞬で崩壊させ、黒い砂状となり床へと溜まった後、旋回しながら、部屋の中央で黒い砂の竜巻となった。
竜巻はルビーの粉を撒いたような、赤い光の粒が混ざり、キラキラと光りながら天井部分に達した。
回転の摩擦で、天上の強化金属を削り取ろうとしているのだろうか、というイフェイオンの予想は覆された。
天井の金属が赤い光の線を浮かび上がらせて、箱の時の再現のように五センチ四方のブロックとなり回転をし、結合して空間を開く。
穿つのではなく、最初からそういうふうに開閉する仕組みだったとでも言うように、次々と結合した金属に隙間ができ、それが広がって、一メートル四方の大きさ、三十センチの厚さの空間が形成される。また、奥の金属に赤い光が奔り、回転と結合を高速で繰り返して、どんどんと地上へと穴が進む。金属部分が尽きて、硬質な岩盤に達しても、同様に岩盤部分に赤い光が奔って、穴が形成されていく。
このままでは、あっという間に地上まで貫通してしまう。
イフェイオンは、何とか止めようとして、部屋の中央で渦巻いている黒い砂の集合状態を解こうと手を差し入れた。
その途端、砂は、口や鼻、耳などからイフェイオンの体に侵入を果たし、イフェイオンは意識を失った。
王都の外れにある地下四十メートルの警察機関の研究施設で、空間遮断のボタンが押されたことが、地上へと伝えられた。
その後間もなく、地下から轟音と共に赤い光を纏った黒い砂が、施設建物を突き破って吹き上がった。
施設から、王都の中心街まで大地が大きく揺れ、吹き上がった赤い光は、王都セイヴの外からでも観測できるほどの高さに達していた。
緊急招集により、周囲巡回の警邏と寮にいた警察官達が先ず初めに集まってきた。
街なかは、軍部と宮廷騎士が警察機関の要請により警戒態勢を取り、王の緊急事態対処命令を待っていた。
吹き上がった黒い砂は上空で蟠った後、回転しながら地上へと塊となって降下して来た。
黒い砂が触れた地表は、七から八メートルほどの多角錐に変形しトゲの様に突き出した。その中心を、黒い砂が人の形となって進む。
最初に現着した警察官達は、その中心の黒い人型の砂を取り押さえ様と捕縛を開始する。
そのうち近づいた一人が、砂に体を貫かれて倒れた。
倒れたエルフは黒い砂を纏って立ち上がり移動を始めると、その場に別のエルフが倒れていることが分かった。
「ありゃ、アレって魔法安全対策課の班長さんじゃないっすかね?」
黒い砂を纏って移動するエルフを警戒しつつ、ピラカンサスが抜け殻のように打ち捨てられた人物の人着から、箱の管理責任者ではと、眠っていたところを起されたらしい、凶悪な人相の犯罪未然対策課の班長に尋ねた。
ニトゥリーは躊躇なく、黒い砂まみれで横たわっているイフェイオンの襟首を掴み上げて顔を覗き込み、舌打ちをして地面に転がした。
「しぶとい奴よ、衛生科を呼びや」
「またまた、班長、めちゃくちゃ心配だったくせに、この班長さんが生きているか確認するまで、顔色悪かったっすよ」
「そうかよ、こいつには、こんな夜中に起こされて、仕事を増やされた愚痴を聞かせにゃあならんからのう」
医療行為のできるエルフがイフェイオンを連れていき、その他にも治癒魔法を持つエルフが、黒い砂の移動する方向に距離を取って追尾を始めた。
ニトゥリー班も、大地をトゲの林に変えながら移動する黒い砂を追って移動した。
黒い砂が移動の先々で大地を硬質化させて、鋭利で巨大なトゲを形成し、その地面から突き出た柱が、集まってきた警察官達の攻撃や接近を妨害していた。
攻撃魔法を当てたり、土魔法で壁を作って砂の進行を何とか阻もうとするも、魔術による攻撃は、砂を覆う分厚い魔力に吸収され、土壁は、砂が触れた途端崩れてしまい、土属性魔法はまったく意味をなさかった。金属で出来た武器も、砂に数秒当たっていると錆びて壊れ、警察官が持つ捕縛用の革の鞭や、木で出来た警棒でなら、対象に攻撃を当てることが出来たが、その際に近づいたエルフが砂の餌食になっていた。
取り込まれたエルフは、次のエルフが取り込まれる際に吐き出され、また、別の者の体が砂に貫かれて持っていかれる事を繰り返している。
ニトゥリーは邪魔な下草を退かすような仕草で、硬い柱を素手でなぎ倒して道を作り、真っ直ぐ砂を追っている。
「相変わらず、班長の魔力はえげつないですね~、俺たちが壊そうとしてもびくともしない柱を、撫でるだけで倒していくなんて」
イソトマはピラカンサスと共に、ニトゥリーの直ぐ後を付いて走る。彼の得物であるロープは、魔術で自在に操って対象物を絡め捕ったり、硬質化させて棍棒のようにしたり、粘度を持たせることも可能だ。
また、ピラカンサスは達人級の武術を扱い、ニトゥリーと同様に素手で戦うスタイルだ。
人を拘束する際は、相手の関節を外して動けなくするため、拘束具が不要である。
そしてニトゥリーは、視線で自分より弱い者を動けなくでき、触れれば悪夢を見せるなどの精神攻撃で戦意を消失させることも可能だった。
ノディマー家の者は、もともと魔力量の多いエルフの中にあって、皆が桁違いの魔力を持っており、身体強化を使えば、一騎当千の兵となる。
そのノディマー家においても一線を画す、もはや人類という括りでは収まらない魔力を保有する者がいる。そんな彼に対し、ニトゥリーは兄として心配が尽きない。
ソゴゥはイグドラシルの中にいる限り無敵だ。
イグドラシルの中では、司書以外魔法は使えない、そしてソゴゥには本人の魔力とイグドラシルから供給される魔力により、一回発動するのに数千のエルフが同時に魔力を供給する必要のある超高等魔術を、一人で連打できる。
ソゴゥがその気になれば、大陸の半分は数か月とかからず制圧できるだろう。
ソゴゥが暴走したとして、自分はソゴゥの味方にしかならないつもりだが、それ以前にソゴゥは絶対にそんな事にはならない。
信じているとかではなく、分かるのだ。
ソゴゥは力に溺れたりすることはなく、自己肯定や顕示欲が他者を陥れるものへと向くこともない。暴力を嫌い、他人を傷つける事を嫌い、きつい言葉を嫌っている。もしそう言う事をしてしまえば、彼自身が傷つくため、そうならないように行動している。
ここぞというときは、ちゃんと暴力と向き合うこともするが、陽だまりを好む猫の様に、温かく、明るい方を向いて生きている。ただ、ちょっと悪いものに憧れたり、自分には良く分からない独特な感性というか、趣味があるようだが。
黒い砂は明らかに、王都へ向かっている。
人の多い方へと移動しているのか、強い魔力に吸い寄せられているのか。
進行を阻もうとするエルフを取り込んでは、吐き捨てることをまた繰り返している。
「魔力を吸っているのでしょうか?」
倒れたエルフを衛生科に引き渡しを終えて戻ってきたローレンティアが、数十メートル先の光景を見ながら尋ねる。
「いや、もともとあれだけの魔力量だし~、目的は別だと思うね」
イソトマが言う。
「依り代を探しているのかもしれません」
コリウスが、魔力を吸収する球体を指の間で移動させて弄びながらも、深刻な表情で言った。
「なるほど、そうかもしれんのう」
「あれは、何かに憑りつきたいが、ここいらのエルフではそれが務まらないといった行動に思えます」
「アレを満足させる器を、探しておるという事か」
ニトゥリーは黒い砂を、悪寒に耐えながら観察する。
視界に入れるだけで、全身から力が抜けていくような根源的な恐怖を禁じ得ない。
応戦している者たちは、使命感により自分自身を奮い立たせ、恐怖で固まりそうになるその体を動かしていた。
黒い砂の捕獲、討伐の指揮を行う暫定の対策本部へ、魔法安全対策課の者達に確認させていた、アレを閉じ込めていた黒い箱が所在不明であるという連絡が届いた。
箱に再び封じる作戦が消え、対策本部は、次に箱を覆うために使用された魔法遮断ケースを急いで持ってこさせ、その場所を王都の中央公園と定めて、総員誘導に当たるよう指示した。
中央公園周辺に規制線が張られ、王より緊急事態対処命令が発令されて、周辺住民の避難誘導が開始された。
イグドラム王宮では、王城を防衛する障壁が発動し、避難民受け入れ態勢を整えた。
また、イグドラシルでは外出していたソゴゥが一度戻って来て、再び自分は事態収束まで外にいると告げ、サンダーソニアに最も重い防御壁の発動を命じ、イグドラム国立図書館は厳重に閉じられた。
ソゴゥはマグノリアのデザイン事務所出てイセトゥアンと分かれ、ヨルとイグドラシルへ帰宅する途中、大きな地面の揺れを感じ、遠くの空に赤い光が吹き上がるのを見た。
異常な事態に、直ぐにイグドラシルへ瞬間移動で帰り着くと、正面のエントランスホールに出てきていたレベル5の司書達と対策を相談して、書籍と建物を守る防護壁を使用することを決定した。
王宮と違い、避難民の受け入れなどで、夜のイグドラシルへ民間人を立ち入らせることは出来ない。司書と樹精獣、それに悪魔のヨル以外はこのイグドラシルに魔力を吸われて、命が危険だからだ。
ソゴゥは第七区画にある自分の部屋に向かい、樹精獣たちを確認する。
イグドラシルから出ることのない彼らだが、何があってもちゃんと身を守るように一言伝えておこうと思ったのだ。
部屋に戻ると、樹精獣のリーダーであるジェームスが、赤い魔導書を手にしていた。
「ジェームス、それもしかして、ヨルの召喚書じゃないのか?」
「キュエ」とジェームスが肯定する。
「あれは、燃えて消えたんじゃなかったっけ?」
「キュッ、キュニエ」というジェームスの言葉が続き、ソゴゥはそれが、再び第七区画の禁書庫に出現していたのをジェームス達が発見して、ここへ持って来たのだという事を知った。
「とりあえず、俺の机の上に置いておいて、後でちゃんと確認するよ。いま、街の外側で何かが起きているようだから、それを確認してくる」
ジェームス達樹精獣が集まって来たので、ソゴゥがしゃがむと、七匹がソゴゥにピトリと引っ付き、ポンポンと肉球で叩く。
いってらっしゃいと言っているのだ。
ヨルもソゴゥの横でしゃがんで手を広げると、小さな樹精獣のイーサンとソルトがヨルの頭までよじ登り、ハリーがヨルの脛を蹴った。
いいから、ちゃんとソゴゥを守れと言っているのだ。
ソゴゥは哀れを禁じ得なかったが、当のヨルが嬉しそうなのでよしとした。
中央公園に展開した状態で設置されたケースの中央で、砂の化け物をおびき寄せるため、国内第四位の魔導士サルビアは魔力全開で佇立していた。
ニトゥリー達班員は、砂を先回りして中央公園周辺待機組に合流し、その様子を監視する。
サルビアの赤に近いオレンジ色の髪が燃えるように逆立っていて、その表情は鬼気迫っている。彼女は、実力は申し分ないのだが、極度のあがり症なため、こうして大勢の警察官や陸軍特殊部隊、王宮の騎士たちに囲まれることは、苦痛でしかない。直ちに家に帰って愛猫を抱いて、布団を被りたい気分なのだろう。
「来ました!」
目抜き通りをトゲ街道に変形させながら、近づいてくる黒い砂の化け物に、待機しているエルフ達の緊張が高まる。
「あの道、新しい観光名所にしたらどうっすかね」
「馬車が通り辛いわ」
ピラカンサスの軽口にニトゥリーが応える。
「それより、あんなものと正面から対峙させられて、サルビア様も気の毒にのう」
「サルビア嬢は、化け物よりも、人の多いことに緊張されているみたいですね」
ニトゥリーは、あれが馬車に積まれてやって来た、小雨の降る夜の事を思い出していた。
青白い馬に乗って、真っ直ぐにこちらに向かってやって来るのは「死」だ。
砂は大地を震動させ、トゲの柱を生やしながら標的を見つけたように、こちらへと加速しながらやって来る。
「サルビア様!ご準備を!」
サルビアの瞳は焔色に炯々と光り、その髪がうねりながら長く伸びる。
彼女の魔術の発動は、その声による詠唱ではなく組指で行われる。
手指が忙しなく動き、数多の魔術を展開させていた。彼女の髪は物質も魔法エネルギーも関係なく、触れたモノをその場に固定し、定着させる。
拘束術において右に出る者のない、最上級の魔術を今、展開し終えた。
黒い砂が、公園入口へ到達し、中央のサルビアへと向けて、中のエルフの形のまま人型で現れてこちらへとやって来る。
サルビアは、到達目前で髪を伸ばして黒い砂を串刺しにするように髪を突き入れた。
サルビアの燃えるような焔色の髪が、黒い砂が取り込んでいたエルフを引き剥がして脇へと放り、砂だけとなった塊を引き寄せる。
周囲の者達が、固唾を飲んで見守る。
オレンジ色の光の輪が、空中にいくつも浮かび上がり、魔力遮断、転移阻害、熱寒耐性解除と次々と対象の防御を剥いでいく。
サルビアの指先に、あらゆる魔術が成功したことが伝えられる。
このまま、このケースに固定させ、後は自分が後退してケースを起動させれば。
サルビアの脳裏に今後の展開が浮かび上がる。
成功は目前だった。
サルビアの髪の束の一つが、チリッと燃える。
砂を拘束していたいくつもの髪の束が、同様に剥がされて、サルビアの髪は空に靡いた。
全ての拘束が弾かれ、砂が揺れた瞬間、待機していた特殊部隊と王宮騎士の一斉攻撃が開始され、サルビアの体はニトゥリーに抱えられて、後方に一瞬で退却した。
「もう一度、今のできるか?」
ニトゥリーがサルビアの魔力量で、今の拘束が再び可能かを問う。
サルビアは自分を抱えているのが、あのニトゥリー・ノディマーであることに気付き、化け物と対峙した時より動揺して「ははははは、はい、で、できます!」と答えた。
衛生科に、燃えたサルビアの長い髪の毛先を再生させ、ニトゥリーがサルビアを抱えて飛び上がる。
「俺が貴女の足になる、貴女は拘束に集中しや」
地形を変えるほどの猛攻が繰り広げられる公園内で、その爆音をも超える声量でニトゥリーは「もう一度や!」と、その場にいる全員に伝えた。
ニトゥリーに抱えられたサルビアの手指は、忙しなく動き、黒い砂の左右にオレンジ色の光の円を出現させた。
光りの円から、二本の巨大な手が伸びてきて、黒い砂を掴んで動きを封じる。
地上に降り立ったニトゥリーの腕の中で、サルビアは空を掴んだ腕を、こちらに引き寄せる。
巨大な腕は、サルビアの腕と同調しており、ケースの方へと引き寄せる。
ニトゥリーがケース中央で立ち止まり、黒い砂の塊がどんどん近づいて来る。
「後ろへ」
サルビアの指示により、ニトゥリーはサルビアを抱えて、ゆっくり後退する。
その間、ここに居るエルフ達により、包囲網を狭めるように強力な防護壁が公園と、ケースのそれぞれの周囲に構築されていく。
これで再び失敗しても、対象を公園の外へと逃がすことはない。
既にこの場にいる半数は、黒い砂に体を貫かれて倒れており、ニトゥリー班もコリウスとイソトマが、意識はあるものの、戦闘不能となっていた。
ピラカンサスは砂の動きを読んで、絶妙に拳で弾き、ローレンティアは後方で、エルフ側に行動力上昇のバフを掛け続けていた。
砂の中で、赤い光が閃く。
「喜んでいる」
サルビアの言葉と同時に、黒い砂はサルビアの拘束を逃れ、サルビアの体ごとニトゥリーの体を突き抜けた。
サルビアはその場で倒れ、ニトゥリーは立ち尽くしていた。
「班長!」
ピラカンサスとローレンティアが駆け付け、ローレンティアは意識のないサルビアを担ぎ上げると、すぐさま後方の衛生科へと引き渡した。
サルビアが気を失ったのは一瞬で、直ぐに目を覚ます。
「いけない!化け物の標的はニトゥリー・ノディマーです!」
ピラカンサスがサルビアの方を振り向いた瞬間、突風に吹き飛ばされるように十数メートルを弾き飛ばされた。
地面に叩きつけられる瞬間に回転し、衝撃を受け流して直ぐに立ち上がる。
ピラカンサスは、いつもは紫に光る班長の瞳が、今は血のように赤い不吉な色を湛えて、普段と全く異なる、色香さえ漂わせる優雅で凶悪な笑みを浮かべているのを見た。
「最悪だ、最悪の事態だ!」
ニトゥリーを知る特殊部隊と王宮騎士、それにこの場にいた警察官達は、今まさに先ほどとは比べ物にならない絶望を感じていた。
「おい、誰か、ガルトマーン王国に行って、ガルダ王を借りて来いよ」
「終わったな・・・・・・」
「ニトゥリー・ノディマーは、本当に体を乗っ取られたのか?」
まるで大気が歓喜に打ち震えるように、先ほどまでとは全く異なる強い魔力の奔流が防護壁を、薄いガラスを割るように粉々に粉砕し、大地が、溢れ出る魔力を打ち付けられて、震動する。
『血をよこしなさい』
ニトゥリーの口から、ニトゥリーの言葉ではない声が発せられる。
戦闘任務時に着用する、特殊な素材で出来た警察官用の紺色の服の背中を突き被って、赤い光を纏った黒々とした翼がニトゥリーの背に生える。
ニトゥリーが背の翼を羽ばたかせると、近くの者は魔力を帯びた風で飛ばされた。
ニトゥリーはまるで長い髪をかき上げるような仕草をし、物色するように倒れ伏す者達を睥睨した。
「マジで最悪っすね~、化け物に化け物を掛け合わせたようなもんっすからね」
ピラカンサスは弾丸のように飛び出していき、ニトゥリーの顔、右耳を狙って飛び蹴りを繰り出すが、触れる間もなく空気の層のようなもので弾かれ、後方に宙返りをして着地すると、怯まず攻撃を続ける。
呆けていた他の者も、対象が得体の知れない砂から、人体になったのだから、むしろ攻撃が通り易くなったはずだと、己を鼓舞して攻撃に加わる。
王宮騎士はスピア状の剣技を得意とし、その針のような細い切っ先は、触れたモノに巨大な風穴を開けるほどの威力を持つ。その見た目の華奢で優雅な造りからは想像できない、強力な武器と技で、これに立ち向かう。
ニトゥリーはそれらを躱すことなく、蚊でも払うように軽く手で払い、また、特殊部隊の連携を、欠伸を噛み殺しながら、軽くいなす。
魔導士の第二位と第五位のオスティオスと、ローズマリーが到着し、オスティオスは中心にいるのが、ニトゥリーと知り途端に戦意を無くしていた。
どうにか、ニトゥリーを傷つけずに拘束する方法はないか。
あたかも戦術を思考している体を装い、オスティオスは支援に徹する。
その横で、ローズマリーは倒れているエルフ達を魔術により強制的に立ち上がらせて、地面に鞭を打ち付ける。
「貴方たち、この私より先に、惰眠を貪るなんて許さないわよ、さっさと起きて、骨になるまで私のために働きなさいな!」
治癒魔法、行動力、瞬発力上昇、身体強化、防御力強化を彼女の発破により、対象者へ耳朶から一瞬で付加するローズマリーの特殊能力だ。
ゾンビの様に復活した戦士たちが、ニトゥリーに一斉に襲い掛かる。
ローズマリー自身も炎と雷を帯びた両手剣でニトゥリーに容赦ない剣戟を加え、ニトゥリーはそれらを面倒くさそうに素手で弾いている。
ニトゥリーはローズマリーの両手を掴み、ローズマリーは拘束を逃れようと藻掻く。
『いい匂い』
ニトゥリーうっとりとした目をして、尖った牙をのぞかせる。
「班長、やめるっすよ!ローズマリー嬢のようなエルフの血を吸って、これ以上班長がSになったら、誰が止めるんっすか!」
「ピラカンサス、言い方・・・・・・」
ローレンティアが頭を押さえて、地に這いつくばって顔だけをあげているピラカンサスに呆れた視線を向ける。
「いやあ~、やめて~誰か、助けなさいよ」
ローズマリーが叫ぶ。若干棒読みだ。
オスティオスがニトゥリーの手から、ローズマリーを取り戻す。
「大丈夫か、ローズマリー」
「ちょっと、助けるの早いわ!ニトゥリーの唇が私の首に付くまで待ちなさいよ」
オスティオスは首を振り、ローズマリーを連れて後方に下がり、上空を見た。
「巻き込まれたくなかったら、下がっておくことだ」
上空の大気が擾乱を引き起こすほどの大きな力が、怒りを伴ってこの地に降りた。
真っ黒な炎を纏った悪魔と、清廉な魔力を抑えることもなく放出しながら光彩を緑色に光らせてソゴゥがニトゥリーの前に降り立った。
ソゴゥは大きな魔力を追って中央公園までやってくると、その戦闘のただ中にある者の前に降り立ち、そこに次男の変わり果てた姿を見た。
「ニトゥリー」
瞳は赤く光り、背に蝙蝠や翼竜のような黒い翼、唇から除く犬歯、黒く尖った爪。
吸血鬼じゃん。
「ずりい、マジでカッコいい」
オスティオスは再び首を振った。
ソゴゥの謎の趣味が、ここに来てブレていないことを再確認させられたのだった。
『悪くないわその魔力、その血をよこしなさい』
「女子?男子?どっち?」
ソゴゥは顎に指をあてて考える。
「ソゴゥ、そういった個人的な事に立ち入っては」とヨルが窘める。
「そうだね、ごめんなさい」
ソゴゥは素直に謝る。
「とりあえず、ニトゥリーから出て行ってくれない?俺、兄弟に何かされたら、正気でいられる気がしない」
上空で雷鳴が轟く。
一個人が天候を変えるほどの魔力を持つ事が、周囲のエルフには脅威だった。
オスティオスには、ソゴゥが平静に見えて、実はひどく怒り興奮していることが分かっていた。
ニトゥリーの両手が、ソゴゥの頬を包む。
ソゴゥはニトゥリーの手を引き剥がし、その両手と組みあう。
「血はやらない、お前に力を与えた時の弊害が予想できないからな。おい、ニトゥリー!目を覚ませ!可愛い弟が、吸血鬼に襲われているぞ!」
魔力の正体がニトゥリーの中にあることを知った時点で、ヨルには手を出さないように言ってある。
もしも、自分にも手に負えない場合、自分とニトゥリーを燃やしてくれと頼んだ。
ヨルは承諾していないが。
他のエルフ達が触れる事さえできなかったニトゥリーを、ソゴゥは易々と捕まえる。
両者は手を組んで睨みあったままだ。
ニトゥリーが噛みつこうとしてくるが、ソゴゥが避けて、牙が空を噛む。
赤い目は炯々と光り、血を欲するあまり、その喉がグルルルルと鳴る。
「アッハ、めっちゃ吸血鬼じゃん!ニトゥリー、マジでそれでいいのか?」
ソゴゥは決して笑ってはいない。むしろ悲痛な響きであった。
これが、イセトゥアンなら、ちょっと本当に笑ってしまったかもしれないが、ニトゥリーだと笑えない。次男のニトゥリーは、自分の思うようにならない事を嫌う。自分のせいでとか、自分の努力が足らないせいでとか、そういう事が嫌で、普段はふざけて見せていても、その実、誰よりも慎重で努力家だ。きっと兄弟で自分自身に一番厳しいのはニトゥリーだ。
だから、ニトゥリーのせいで、この俺が怪我をしたら、きっとニトゥリーはあの時の様にひどく後悔するだろう。
ミトゥコッシーから聞いた、十年前、ニトゥリーが正気を失ってソゴゥに怪我をさせた際、その晩から、かなり長い間、俺に謝り続けるように魘されていたということを。
兄弟の喧嘩で、怪我なんていつもの事だが、正気を失って怪我を負わせてしまったことが、ニトゥリーには許せなかったらしい。正気で怪我を負わせる分にはニトゥリー的にオーケーなのが、ソゴゥには腑に落ちないのだが。
「おい、マジで弟の血を吸おうとしてくるなって!絵面を考えろ、嘔吐者続出すんぞ!」
ピラカンサスは、横で懊悩するローレンティアをちらりと見て、あの兄弟はもっと自分たちのビジュアルを理解した方がいいと、若干暢気に考えていた。
秀麗なエルフにおいても、あの兄弟は人目を惹く。
何とも美しい吸血鬼と、それに抗う飛びぬけた容姿を持つ人間の青年といった構図だ。
吸血鬼も、黒髪の方もエルフなのだが。
実際は、空気を吸うのもやっとなほど、この場の魔力量が高まっており、そのせいで意識を保てない者がいるほどだった。
精鋭揃いのエルフでこの状態なのだから、一般人ならば、例外なく昏倒しており、命の危険もあるだろう。
『ニッチ、どうした?何があった?さっきの爆発と関係があるんか?意識が混濁しとるのう、そこにソゴゥがおるん?なあ、返事しいや!』
異変を感じたミトゥコッシーがニトゥリーに呼びかける。
海軍基地の敷地内にある寮から、ミトゥコッシーは王都の空を見上げていた。
雷雲が渦巻き、青白い雷光が横へと奔っている。
嫌な感じだ。
同じ頃、避難民誘導に奔走していたイセトゥアンも、セイヴの中心街の空を見上げていた。
ソゴゥはイグドラシルにちゃんと帰ったんだろうな?
ニトゥリーは警察官だから、自分と同じように駆り出されているかもしれないが、あいつは兄弟で一番慎重な奴だから、大丈夫だろう。
まったく大丈夫ではないニトゥリーが、ソゴゥの両腕を一まとめにして腰を抱える。
女子エルフ達からは、どちらの応援か分からない声援が贈られている。
「いやいやいや、ニッチ、マジで地獄だから!お前、いますぐ美少女に変身しろよ!」
ニトゥリーの唇がソゴゥの首に触れる寸前で、ソゴゥはオスティオスの元に瞬間移動した。
「どうしたものか・・・・・・」
女子からは、何やら舌打ちが聞こえてくる。
項垂れるソゴゥの背を、オスティオスが擦る。
ニトゥリーの前にはヨルが立ち塞がり、両者睨み合っていた。
「園長先生、何か良い方法がありますか?」
「アレは、まだ固定されていない、追い出せるが、それにはニトゥリーの協力が必要だ」
オスティオスは深刻な顔をして、懐からノートを取り出すと驚くほどの速記で書を認める。ソゴゥの速記術は、オスティオス園長譲りだ。
オスティオスは書き記した物をソゴゥに渡すと、それを確認したソゴゥは、その内容に衝撃を受けて、腰を折り自分の両膝の上に手を付いて何とか耐えた。
やがて、決意したように顔を上げ、オスティオスに目配せをする。
ソゴゥがヨルの元まで戻ると、オスティオスは倒れた者達を回収して、その周囲に障壁を張った。
再び、ソゴゥはニトゥリーと向き合った。
「ニトゥリー、戻ってこい、そうしないと・・・・・・」
十年前、五人兄弟のうち、自分と末っ子のソゴゥを除く三人の兄弟が誘拐された。
兄弟を追ってガルトマーン国の火山地帯へと向かった先で目にした光景は、深い穴の前で、今まさにスパルナ族が、三男のミトゥコッシーを穴の中へと突き落とすところだった。
あの瞬間、何もかもが分からなくなって、気づいたら、ソゴゥは肋骨を折って、口から血を流していた。
あの頃は、今よりもずっと体格差があって、ソゴゥにとっては正気を失った自分は、素手で熊と戦うような恐怖だっただろう。そんな状況でもソゴゥは立ち向かい、その結果、自分を止めるために怪我を負った事を、ついに言及することはなかった。
もう二度と、正気を失ってソゴゥや兄弟達に怪我を負わせるようなことはしないと、自分自身に誓ったのだ。
浮上しても浮上しても、海底に引きずり込まれるような苦しさ、幾度となく手が届きそうな海面から引き離される絶望を、繰り返していた。
こうしている間にも、俺の体が、何か取り返しのつかないことをしているかもしれない。
もう絶対に、俺はそれを許してはいけない。
「ニトゥリー、残念だ」
ソゴゥはオスティオス園長から預かった紙を広げて、そしてそれを読み上げる。
「図書館、書架D38上段左から二番目、男子棟三階トイレ用具入れ、男子共同浴場脱衣場、脱衣籠収納棚上・・・・・・?」
「グウウウウッ」
「何か、効いておるようであるな」
ヨルが腕を組んで、その様子を観察する。
「ニトゥリー、いいのか?続けるぞ!」
「ウウッツ」
ソゴゥはその様子を見て、ため息を吐く。
「ここからは、本当に、大変だぞ?声を大にして言うぞ?」
ソゴゥの念押しに、やや狼狽したような表情を見せるニトゥリーだが、まだその目は赤く光っている。
何やら紙を見ながらぼそぼそ喋るソゴゥを、遠くから見ていたピラカンサス達は、ソゴゥが何か呪文を詠唱しているのかと、聞き耳を立てていた。
「好意を寄せていた、コスモスちゃん十二歳が、ミトゥコッシーの事が好きだと分かったニトゥリー少年十一歳は、自分はミトゥコッシーだと宣言しながら全裸で園内を周回。ああ、あの事件の背景には、そんな甘酸っぱい理由があったのか。ニトゥリー少年十三歳の夏、思いを寄せていた、リリーちゃん十四歳に・・・・・・」
「グウウウウッ!」
「効いておるな」
「リリーちゃん十四歳に告白するも、イセトゥアンになって生まれなおして来いと言われ、腹いせにイセトゥアンを真っ裸にして、簀巻きにし庭に転がした。ああ、あの事件ね、ただの喧嘩かと思っていたが、そんな切ない理由があったのか。お前、裸祭りか?裸大好きかよ、ええ、続いて・・・・・・」
伸びてきたニトゥリーの腕を避けて、ソゴゥは後ろに飛びのいた。
「全裸魔人に言われとうないわ!!」
ソゴゥはオスティオスを振り返り、オスティオスが超速で移動してきて、ニトゥリーの体に神聖魔法による衝撃波を当てた。
ニトゥリーの背中から翼が剥がれ、全身から黒い粉が花粉の様に周囲に飛び散り、それが一塊となって地面に蜷局を撒いた。オスティオスがニトゥリーの背を叩くと、ニトゥリーは膝をついて、さらに黒い砂を吐き出した。
吐き出された砂も、塊の方へと移動していく。
ヨルが砂を寄せ付けないよう、兄弟とオスティオスの周囲に黒い炎の壁を作った。
砂は、黒い炎の周りをウロウロと彷徨って、やがて諦めたように上空へと消えていった。
「ニッチ!おい、大丈夫か?」
「俺は、お前に怪我させんかったかのう?」
「大丈夫だよ、俺の一人勝ちだ。頭脳戦ってやつ?」
「その紙はなんや?」
「ああ、これは、ピラカンサスさんとか、ニッチの職場の人に後であげようかなって思っている紙だよ」
ソゴゥは、ノディマー領で働くピリカの兄であるピラカンサスとは面識があった。
ニトゥリーはソゴゥから紙を奪うと、顔を真っ赤にして崩れ落ちそうになる体を、膝に手を付いてなんとか支えた。
ピラカンサスがニトゥリーの後ろで笑っている。
「班長、無事でよかったっす。一時はイグドラムのエルフ、総ミイラ化を想像したっすよ」
「私はちょっとくらいなら、班長に血を吸われても構いませんでしたが、班長はローズマリー様とソゴゥ様にしか興味がなかったご様子。とても残念です」
「異性か、魔力量が基準だったんじゃないの~」
イソトマがやって来て、ローレンティアの肩に手を置く。
ローレンティアはそれを払いのけながら「私は異性に該当するのでは?」と若干キレて言う。
「それにしても、ご兄弟は子供の頃はやんちゃだったのですね」
悪気のないコリウスの言葉に、辛うじて立っていたニトゥリーが崩れ落ち、普段はイグドラシルの第一司書として澄ました顔をしているソゴゥは、全裸魔人なる不名誉なあだ名を公言されたことによるダメージが、じわじわと膝に来ていた。
「すまない」
オスティオス園長は、二人の卒園生に憐憫の涙を禁じ得なかった。
「精神攻撃を得意とする班長に、ここまで衝撃を与えるとは、流石はオスティオス様」
さらに悪気のないコリウスの言葉に、オスティオスまでもが項垂れる。
園の子供たちの甘酸っぱい思い出は、オスティオスにとっても共感性羞恥心を呼び起こす諸刃の剣なのだった。
「だが、アレは逃げてしまったな」
ヨルの言葉に、ニトゥリーはやっと深刻な事態が継続していることを認識する。
そこに王宮騎士がやって来る。
「黒い砂の正体は吸血鬼でしたが、依り代がないと吸血行為が出来ず、また、依り代となる器には相当な魔力耐性を持った者でないとならない、そのように王に連絡して対策を講じるよう進言いたします」
王宮騎士と陸軍特殊部隊の者たちが、それらの情報を持って撤退し、警察官達は、トゲの林となった目抜き通りと、取り逃がした吸血鬼の事とで、始末書に頭を悩ませていた。
「まあ、始末書百枚の長編力作を頑張れよ、俺は兄弟の暴挙を止めに来た、ただの善意の一般市民だから、もう帰って寝るとするわ」
ソゴゥは欠伸を噛み殺し、ヨルに翼を出すように言うとその背中に乗っかって、上空へと舞い上がり、この場を後にした。
ニトゥリーは項垂れながら、ミトゥコッシーの呼びかけに応えた。
『すまない、ずっと呼びかけてくれて助かった。ソゴゥを傷つけんで済んだ。詳しいことは明日話すが、あの海底から引き揚げた箱ん中におった吸血鬼が逃げ出した、周囲に魔力の強いエルフがおったら用心せい、吸血鬼に憑りつかれる恐れがある、お前もな』
『なんやニッチ、吸血鬼に憑りつかれて、ソゴゥに迷惑かけとったんか』
『グウッ』
『お前とソゴゥが無事ならええわ、その吸血鬼が戻ってきた時、迎え撃てるようにしっかりと体を休めて用心せいよ』
『おう、わかった』
ニトゥリーは、暗雲が消えて雲一つない、未明の星空を見上げた。