4.
喫煙室には他の誰も居なかった。
否、誰か居たとしても、彼に対して疑念を抱くことはなかっただろう。無論、その時にはその時の行動を取るだろうから、だが。
ヤニの一服がてら、プライベートにケータイを一本。
そのプライベートの内実が問題だった。
「同志ツツイ、それは本当なのか。心身機能を飛躍的に向上させる合法ドラッグ、だと」
相手の声は、スクランブラーを通しての機能上に留まらない、疑念を含んで歪んでいた。
合法ドラッグ。通例の麻薬と違い、常習性や心身を破壊しない市販されている安全な”クスリ”を指す。
「本当です同志。現に日本軍はその開発者であるミユキ・アンドウを保護すべく然るべき手順を発動させており、陸上自衛隊の特殊1コ班が任務に就いています。現在は行方不明ですが、最新情報は常に私の手にあります」
相手の声が詰まった。回線の不調ではないようだった。
「同志ツツイ。ミユキ・アンドウの確保を命じる。日本軍に先駆け必ず確保するのだ。必要な支援は与える」
「了解です、同志」
通信、終了。
男は独りほくそ笑んだ。ふだんの彼の周囲の人間は余り見ない表情だった。
そして、更にもう一本を悠然と灰にしてから彼の職場である執務室に戻った。
席に着くなり報告があった。
「課長、アルファから定時連絡です。まだ発見できておらず接触もなし。以上です」
彼はそれを、いつもの表情、つまり人生に面白いことなどあるものかという、彼独特の、世間一般でいう苦虫を噛み潰した様な表情で受け、軽く頷いた。それが彼一流のポーカーフェイスだった。
そう、ここに勤務する誰も、全く何も疑っていなかった。
この、筒井純敬課長、二佐が、中国情報部とのダブル・スパイであることなど、だ。
ジーマと美由紀の奇妙な共同生活はまだ続いていた。
ジーマは、殆ど美由紀に対して興味がないようだったが、かといって邪険に扱うこともなかった。
当初、共同生活、というより美由紀の一方的な寄生状態だったが、あるときたまりかねて自ら調理役を名乗り出てからは、以降、完全に炊事係りとして定着した。ジーマも好き好んで”人間という家畜のエサ”のような食事をしていたワケではなかったらしい。絶賛するような調理でも無かったが、それでも毎回律儀に旨い、と賞賛しつつ食べている。
美由紀の目から見ても、ジーマには少なからぬナゾ、があった。
何よりこうして、美由紀を居つかせて平然としているのがそもそも最大の不可思議だった。
冷静に公平に考えて、ホームレスが更に無産者を抱えることの負担について、美由紀でも容易に想像出来る。そしてジーマは、美由紀に対して、その、カラダを要求してくるようなこともなければ、男という野獣の視線で美由紀の貌や身体をなぶってくるようなこともなかった。不能とも思えなかったが。
だが無論、美由紀からそれを問いただすことも出来なかった。
もし気が変わって。
「そうか、じゃ、出てけ」
などということになったらヤブ蛇どころの騒ぎではない。それこそカラダでも売って食いつないでいくしかない生活に転落するかもしれない。故あってのホームレス生活だが、当たり前だが美由紀には何のスキルもなかった。つい、先日までは、フツーに高校に通うただの女子高生だったのだ。うちに帰ればゴハンが食べられて、小遣いも過不足なくあって、国内の多くの同輩同様、日々、何の不自由もなく暮らしてきたのだ。それが家を焼かれ、家族も失い、何者かの追跡を受け、こうして逃亡生活を送っている。まるで、ドラマかマンガの様だと美由紀は苦笑するが、これは紛れもない現実だった。
が、そうこうするうち、美由紀は薄々、ジーマの正体が判ってきた気がした。
なんと、ジーマは軽自動車まで持っていた。
ぼろぼろだが、自動車を一台持っているのだ。
「そろそろ移動するかー」
といって、その軽に乗って現れたときには心底、驚いた。
立ち尽くしている美由紀をほっておいて、ジーマはテントを畳み、その他いっさいがっさいを軽に積み込み、おい、置いてくぞ美由紀に声を掛け、だらだらと低速で移動すると突然、車を止め、荷物を降ろすと走りさり、再びぶらぶらと現れるとテントを張り直し、何の説明も無かった。
だから、判った、たぶん。
ジーマは、仮面ホームレス、というか、”趣味のホームレス”なのだ、と。
何故に、というナゾはまだ残るが、そうなら、と美由紀は一気に気がラクになった。
ホームレスが趣味なら、自分を保護しているのも趣味、なのだろう、と。
いつまでなのかは判らないが、こうしている間はそれでいいのだと。