008 現実的な入浴場面、あります
「う~ん……」
ある日の放課後。私は学校帰りに、百均に立ち寄っていた。
以前洗濯用のネットを購入した店だが、普段はあまり立ち寄ることのない場所だ。別にミニマリストを気取っているわけじゃない。変に細かい物を買い集める趣味はない上に、普段買いしている消耗品は大抵、ドラッグストアやホームセンターとかで買い求める方が多いからだ。まあそもそも、お母さんがいる時しかまとめ買いできないけど。
ちなみに節約を意識し始めてからは、店舗ごとに陳列されている商品の価格を比べるようになった。まだ何が安くて、何が高いかまでは正確に把握しきれているわけじゃない。けれども、少なくとも自分で購入している物がどこでどう買った方がいいのか、徐々に理解できてきていた。
しかし今日の目的は、百均での価格調査じゃない。何を買うかを決めに、軽くウインドーショッピングしに来たのだ。
「たしかに色々あるけど……なんか使い道が限られてくる物ばかりなのよね」
今日のお昼休みのこと。最近友達になった隣のクラスの留年生に、料理について助言を求めると、まずは『百均へ行け』と言われたのだ。
『道具の使い方から覚えるなら、その前に百均で便利グッズでも買ってきた方が早いわよ』
調理方法によっては、百均で売っているような調理器具を用いた方が手際よくなる場合もあるから、らしい。たとえば玉ねぎを薄切りにしたい時とかは、包丁でおっかなびっくりやるよりも、スライサーでカットした方が安全かつ綺麗に切れるといった具合に。
その助言を基に、下校途中に百均へと立ち寄ったのはいいものの……まさか、ここまでニッチな器具が充実しているとは思わなかった。
「電子レンジでできるパスタの麺茹で用の器に、リンゴ用のカッター……それ以外の使い道ってないの?」
これらを見ていると、長年包丁等の基本的な道具がなくならない理由がよく分かる。
たしかに技量はいるものの、たとえ包丁一本でも十分に応用が利くのだ。いちいち道具を使い分ける必要もなく、無駄な用意もしなくていい。
だからこそ料理に限らず、新しいものを覚える段階で、最初に基礎を教え込むのも分かる気がする。
教えられる段階で、最低でも得手不得手位は理解できる。プロを目指すとかでもない限りは、努力すべきかどうかの指標にはなるからだ。
……と、意識が逸れちゃった。
「『使いたい道具から順番に覚えること。別に包丁なら、それでもいい』って言われてもね……」
援助交際の元凶を絶ったあの日以来、彼女とは友達として行動することが多くなった。とは言っても、一緒にお昼ご飯を食べるとか、バイト先に客として訪れる程度の関係だが。
しかし、元を絶ったとしても、彼女の実家の経済事情が回復するわけではない。だから今日もアルバイトの日々を送っていることだろう。
私も調理場とかでアルバイトでもすれば、その過程で料理を覚えられるかもしれない。けれども、正直に言って理由も目標もない現状では、邪魔にしかならないだろう。むしろやる気を見抜かれて、面接で落とされる可能性の方が高い位だ。
「今度料理の本を貸してくれる、って言ってたけど……」
この調子で大丈夫なのかと、急いでるわけではないのに、少し心配になってくる。
ただ本を読めばいいなら、それこそタブレット端末一つで十分だった。だが本の方が専門的な知識をまとめて得られる分、いちいち検索したりして真偽を調べる手間がないのもたしかだ。
しかしその分、より必要な知識や技能を要する場合もあるから、それらを調べる為のタブレットは手放せない。家庭科で習ったことで足りるかな?
なんて考える前に、練習する方針を定めないと話にならない。最初に何をすればいいのかも分からないし。
「やっぱり包丁かな……でも、」
……家に包丁はなかった。
家には一応、食事用の刃物の類は揃っているが、包丁のような鋭い刃物の用意はない。フレンチトーストを作った時も、わざわざ食事用のステーキナイフで切り分けた程だ。
最初は『不器用だから』と納得できた。自分が不器用だから、母として娘である私に教えられないと匙を投げて、敢えて用意しなかったと……そう思い込んでいた。
「『精神的外傷があるかもしれない』、って言われてもね……」
お昼休みに留年生の彼女と話している時、包丁が家にない話をすると、そう返されたのだ。
『弟も昔そうだったんだけどさ……包丁に悪戯して怪我してからしばらく、見るだけで身体が震えるようになったのよ』
私自身は、多分そうだと思うけど、精神的外傷というものに対して経験がない。だからどういうものなのかは理解できない。でもそう考えると、お母さんが包丁に何かしらの精神的外傷を抱いている可能性は十分にあると思う。
とはいえ、精神的外傷を持ち、またそれにどう接するかは当人の問題だ。たとえ母娘であろうと、他者が簡単に口出しできるものじゃない。
問題があるとすればただ一つ……下手に家で練習できないことだ。
「こっそり部屋に持ち込んで……駄目だ。リンゴの皮剥き程度なら、元々できるから意味がない」
練習するなら同じ皮剥きでも、ジャガイモとか表面がデコボコしているやつの方が技術力の向上になる。リンゴの皮を薄く剥けるなら、大抵の切り方はできると昔言われたことがあるものの、最近はやっていないので、正直不安しかない。
……そういえば、最後にリンゴそのものを食べたのはいつだったっけ?
「子供用の包丁もあるみたいだけど……包丁そのものを買っていいのかは分からないし…………」
一応、お母さんに先に相談した方がいいかもしれない。
今日はもう帰ろうかと、陳列棚を眺めながら歩いている時だった。ふと、ある物に目を奪われたのは。
「こんな物も売ってるんだ……」
私は感心しながら、目に留まった売り物を手に取り、レジへと運んでいった。
「う~ん……」
今日もお母さんは帰ってこない。
夕飯は冷蔵庫にあったカット野菜や冷凍食品を使って、適当に済ませた。
冷凍食品の中には、ちょっとしたおかずや、小腹が空いた時とかに摘まみ易いからと、お弁当用のものもいくつかある。
いつも貰っているお金とは別に、こちらも食べていいことにはなっているので、栄養が偏らない程度には普段食べていた。ちなみに今日のご飯は野菜炒めとレンジ炊きのお米、そしてインスタントのみそ汁だった。
一応炊飯器もあるにはあるけど、肝心のお米の方がない。女の二人暮らしなので消耗も少なく、また買い置きしようにも二、三キロの米を担いで帰るだけでも予想以上に体力を使うので、ズルズルとレンジ炊きのものばかり買うようになってしまったのだ。
もし安かったら、通販で配達して貰った方がいいかもしれない。今度検索してみよう。
「……なんて、考えてても仕方ないか」
ピン、とテーブルの上に置いた、今日買ってきた物を指で軽く弾いてから、私は椅子から立ち上がって自室へと向かった。何か疲れたから、さっさとお風呂に入っちゃおう。
スマホを防水ケースに入れ、替えの下着やパジャマと共に洗面所へと入る。すでにバスタブにお湯は張ってあるので、後は服を脱ぐだけだ。
「それにしても……」
視線を降ろすと、ギリギリCカップの胸が視界に入ってくる。
「……もうちょっと欲しかったかな」
もう少し大きければ地味だと言われず、周りに自慢できたのに。まあ、とはいえ……
「お母さんもそこまで大きくないし……今世はもう駄目かも」
さすがに成人まで五年を切った以上、これからの成長に期待するのは酷な話だ。誰かに揉んで貰えば大きくなるとかいう話もあるけど、あれだって体質の問題もあるし、やり方を間違えたら形が崩れて、逆に大参事になるって聞いたことがある。
それに……どちらかというと、お腹回りの方を気にした方がいいかもしれないし。
最近は公園に近寄らなくなった分、あまり出歩くようなことはなかった。この前援助交際持ちかけてた男共を叩き潰した時が、一番運動した出来事だったかもしれない。
「やっぱり何か、運動した方がいいかな?」
別居する前はよくお父さん達と一緒に色々とやっていたけど、お母さんと暮らし始めてからはとんとご無沙汰だ。内向的な趣味や性格をしていると、こういう時に不便なのよね。
「本当、嫌になっちゃう……」
さっさと湯船の中でゆっくりしよう。
そう考えてスマホを操作し、動画投稿サイトにある作業用BGMを適当に選んで流してから、ゆっくりと全身を洗い始めた。これがその手のDVDなら身体を撫で回したりとかして、結構もったいぶったりするんだろうけど、私は効率重視でテキパキと洗い終えた。そもそも未成年な上に誰も見てないので、気にする必要はまったくない。何なら歌ってもいい位だ。
……やっぱりやめとこう。私の歌って、微妙に音程がずれているし。
「昔お父さん達と社員旅行に行った時も、カラオケの採点散々だったからな……」
しかもまだ小っちゃかったから、点数に納得いかずに愚図ってお父さんにしがみついていたな。社員の人からも、お菓子とか色々貰ったりして……あれ?
「そういえば……あの時お母さんいたっけ?」
お父さんの会社では一、二泊程度の温泉旅行を、年に一度位の頻度で企画していた。都合のつく社員さんだけじゃなく、そのご家族も招待して。
私もお父さんと一緒に旅行に参加していたのだが、その時お母さんはたしか……
「……ん?」
気が付けば、適当に流していたBGM動画が中断された。代わりに、スマホの着信音がバスルーム内で反響している。
お母さんからかと思って湯船の中で身体を捩り、スマホスタンドに置いたスマホの画面に視線を向けると、『公衆電話』と表示されていた。
「もしかして……」
通話ボタンを押すと、ここ最近公園に行っていないので聞けなかった声が、スマホから流れてくる。
『……もしもし』
「あ、久し振り~」
あまり水音を立てないよう、湯船の縁に腕と顎を載せた状態で、私は返事をした。
「もう大丈夫なの?」
『一応な。もう公園に戻ったから、挨拶に電話した』
「そう。じゃあ私も……あ、そうだ」
『ん?』
不思議そうな声が聞こえてくる。単なる思いつきなんだけど、その場にいなければ無駄足になってしまうから。
「明日って、何か予定ある?」
『お前、俺の立場知っているだろう?』
他の公園に遠征して、宴会とかしていた人の台詞とは思えない。
そういえば……よく捕まらずに移動できたな、この人。監視カメラのないルートでもあるのかな?
『今のところ宴会の予定もないし……あっても動画編集のバイトか、公園の清掃作業位だな』
「つまり公園にはいるってことね」
それだけ確認できれば十分だ。
「晴れてたら多分、明日行くからよろしくね」
『いまさら改めて言われることでもないと思うが……まあ、よろしく』
これでもう、話すことはない。
向こうから通話を切られるかもしれないが、また音楽を聞こうとして、スマホに手を伸ばした。
『……あ、それと最後に』
「何?」
もう終わりかと思ったのに、スピーカーからまた、彼の声が聞こえてくる。まだ何かあるのかと、スマホに伸ばしていた手を止めた。
『極力水音立てないようにしても、声が反響している時点で風呂入っているのバレバレだから、』
「最っ、低っ!?」
余計なことをっ!
「まったく……」
公園の彼からの余計な一言に若干苛立ちながら、パジャマに着替えた私は、ドライヤーで髪を乾かしていた。変に感情が昂ると手元が狂って髪が乱れそうだから、なるべく落ち着こうとはしているけど……なかなかうまくいかない。
「やっぱり明日やめとこうかな? ……いや、いいやもう」
ドライヤーを止めて、洗面所から出た私は自室には戻らず、リビングに来ていた。
今日百均で購入した物を見下ろし、一先ず明日の予定を考える。
「とりあえず、学校から帰って来てからかな? 冷蔵庫のもの使えば、買い出しの必要はないし……」
突発的に大きな声は出してしまったものの、もう怒り自体は冷めている。
私は購入した物を持って、自室へと戻っていった。
お母さんに見つかったら、説明が面倒臭いし……って、何となく言い訳しながら。
**********
「まったく……」
公園内にある公衆電話の受話器を戻した男は数度、軽く耳を叩いてから、その手を降ろした。
「風呂場だってのに、忘れて叫びやがって……」
周辺の確認等、一通りの用事が済み、いつもの公園に戻ってきたのはいいものの……まさかの洗礼に男は思わず、溜息を吐く。
「ここの電話番号は教えているんだから、別に折り返しでもいいだろうが」
それとも他に、公衆電話を使う相手から電話が来ることがあるのだろうか?
まあいちいち気にしても仕方がないからと、用事は済んだので、すぐ公衆電話のある場所から離れた。公園内に用意した自分用のテントに戻り、さっさと寝ようと足早に駆けていくが、何故かその足は止まる。
「もう関わりたくない、って言ったよな?」
「しょうがないでしょう……あなたに用事があるんだから」
男の前に出てきたのは、前に再会した興信所の女性だった。
しかし今日彼女が持っているのはカメラではなく、近くのスーパーのレジ袋だった。
「差し入れのお弁当。ハンバーグと焼き肉、どっちがいい?」
「……焼き肉」
変に居座られても迷惑だからと、男は相手に用事をさっさと済ませて貰えるよう、無駄な抵抗はしないことにした。肉にありつけるという理由もあるにはあるが、彼にとっては些事である。
「で、一体何の用だよ?」
近くのベンチに腰掛ける彼女とは少し距離を取り、男は適当にごみを払った地面の上に向かい合うようにして腰掛けた。受け取った(割引)弁当の蓋を開けつつ、その用事について問い掛ける。
「ちょっと気になっただけよ。あなた……」
若干言い澱みながらも、彼女は自分の弁当を膝の上に置いたまま、口を開いた。
「私と別れてから……一体何に関わっているの?」
「……答える義務があるのか?」
答えは『NO』。だから女性も、深く突っ込むことができなかった。それでも、ただ一つだけ、確認しておかなければならないことがある。
「この前話した、うちの興信所に依頼した大口の雇用主のことだけど……もしかして、あなたも関わっているの?」
「…………」
男は答えず、ただ黙って弁当を食した。さっさと中身を空にし、容器をそのまま近くのゴミ籠に投げ入れている。
「……ご馳走様」
「本当、あなたのご両親が不憫でならないわ……」
顔を合わせたことはないはずなのに、何故か残念そうに首を振っている。そんな女性を見て、男の顔はますます険しくなった。
「せっかく礼儀正しく育てて貰ったのに……」
「……余計なお世話だ」
もうさっさと寝よう、男はそう考えて立ち上がった。
女性の食事に付き合う必要もないし、未だに蓋を開けていないのなら、このまま家に持ち帰ることも可能である。女の一人歩きは不用心だが、彼女に至っては特に問題ないだろう。職業的には日常茶飯事なのだから。
だが歩き出した男の背中に、女性は声を掛けた。
「別の支店にいる友達から、偶々聞いたんだけどね」
男の足が止まる。
「……あなたの捜索を依頼されたんですって」
「そうか……」
そしてまた、男は歩き始めた。
「けじめはちゃんとつけなさいよ~」
「……お前にだけは、言われたくない」
未だに女性のことを根に持っている男は寝る前に一杯引っ掛けようと、隠し持っているウィスキーの瓶に思いを馳せるのであった。