世界樹の袂2
不思議な、……とても不思議な声が脳裏に響いてから、俺は驚きと緊張のあまり身動きできず身体を硬直させていた。
―――ただし、その間も声は俺の様子などお構いなしに、念仏のように俺の脳裏に流れ続けたのだった。
『いやはや申し訳なかったね。飛び上がるほど驚かれるとは思っていなかったんだ。何故ならクワトロから話し掛けてくれただろう? だから答えても問題ないと勝手に判断してしまったんだ。つい先日も、隣人にも“樹がしゃべるのは気味が悪いことだ”とアドバイスを貰っていたというのに、なんとも気の利かない樹でごめんね』
……いや、誰だよ神妙に“世界樹様は語り掛けてくださる”とか言った奴。語りどころかメッチャ喋ってるし。
そもそも口もないのにどうやって喋ってるんだ? ってかそもそも植物って樹齢を重ねたとしても、こんなにハッキリした意志を宿せるもんなのか?
『あ、今の“気が利かない”と“樹”っていうのは別に掛けた訳じゃないからね。白けないで欲しい』
……しかもなんか下らないギャグまで堪能だし。
『それはそうと俺は動物達と触れ合うのが好きだから、彼等が駆け寄ってきて本当に嬉しく思っている。彼等を怒らないであげてくれるかい。というか実はここだけの話、他の動物達は何故か俺に近づいてきてくれなくて、樹としてこれはどうなのかと、ここ五千年程悩んでいるんだ』
……それは五千年も悩むことか? それはもう、一周回って実は悩みないんじゃ?
『あぁそうだ。実はついでによかったらこれはいかがかな? 折角こんな所まで訪ねてきてくれたんだ。お茶でも出せればいいんだけど俺はこの通り樹だからね。ちょっと色が変で見た目が悪いけれど、ゼロスは美味しいと言ってくれていたから味はいい筈だ。……ごめんね、ルシファー』
と、その直後。近くの茂みにポスンと黄金のリンゴが一つ落ちてきた。
え? マジか? これ、もしかして“神々のみが口に出来る禁断の果実”っていう、伝説の黄金のリンゴ……?
―――あり得ない事が……お伽噺でしか聞いたことのない様な神話の中の奇跡が、いとも容易くまるで当たり前の日常であるかのように次々と起こるこの現実を前に、不意に俺の中の何かがプツンと音を立てて切れた。―――もとい、現実逃避に走った。
世界は広くて、俺はあまりにも知らないことが多すぎる。
こんな時どうすればいいのか?
そう。そんな時、俺はそんな世界に紛れ込めるよう“常識”と言う名の鎧を着込むのだ。
己の常識を覆い隠し、まるでこの未知の世界に馴染みきった風を装って、颯爽と世界を歩む。
俺は小さな息を吐くと、茂みに埋もれる金色にピカピカと輝くリンゴを拾い上げた。
俺がリンゴを手に取ると、喜び祝福するかのように、世界樹が一際大きく葉音を奏で始める。
俺は世界樹の心地よい葉音に耳を傾けながら、黄金のリンゴを柵の向こう側……世界樹に向かって投げ返した。
『え?』
と、驚いた様な小さな声があがり、葉の揺らぎが一瞬止まる。
放り投げたリンゴはコロコロと転がって、あっという間にうねる巨大な根の隙間の陰に消えていった。
「お返ししますね。お気持ちだけいただきます」
常識の鎧を纏った俺は無敵だ。どんな事にも動じることはない。
例え樹が喋ろうが、突然神話級のアイテムを粗茶がわりに出されたとしても、だ。
そして常識的に考えて、禁断の果実を“ハイどうも”って受け取っていいわけないだろ。
なのに、樹の声は途端に狼狽えだす。
『え? そんな、クワトロに好き嫌いはなかった筈……。自分で言うのもなんなんだけれど、マナも豊富で味よし!香りよし!腹持ちよし!なのに……一体何故?』
「いや、ぶっちゃけ嫌いなんですよね。昔トゥーリノのカフェに行った時なんですけど、アップルティーを飲んでる時にちょっと嫌なことありまして。それ以来リンゴの香り嗅ぐとそれ思い出すんで苦手なんです」
一瞬、樹の枝が戦慄する様にザワリと揺れた。
『ま、まさか……あの時マスターは今日俺がクワトロと仲良くなろうとするあまりに、こうするだろう事まで読んで……?』
が、直後。また機嫌のよさげなあの鈴の音の様な葉音が響き始める。
『まったく、あの仔はどんな時も周りをよく見て、誰も想像がつかない様な先の事までこうして考えてるんだね。本当になんて賢くて気が利く仔だろう。凄いなぁ』
……なんかキモい。
それがこの樹の呟きに対する俺の正直な感想だった。
『ともあれ、嫌いなら無理して食べることはないとも。なんのお構いなしで悪いのだけれど、彼ら同様にクワトロもくつろいでいってくれるといい』
「いえ、こちらこそ何の奉納品もなく申し訳ないっす。ってか、あれ? 俺、世界樹様に自分の名前名乗りましたっけ」
当然とでもいうように俺の名を呼ぶ世界樹に一瞬疑問を抱くが、ふと気付く。
そういえば、世界樹と言う存在はこの世界の全てを見て、その根幹に全てを記録してるんだったか。
つい先程まではその話も信じてはなかったが、こうして流暢に喋り続ける樹を見れば、最早その話を疑う理由もない。多分だいたい真実なんだろう。
『奉納品だなんてとんでもないことだ。そもそもただの樹なんだし、創世から生えてると言うだけで“世界樹”と呼ばれてるだけだから“様”付けだってして貰わなくていいんだよ』
ほら、流暢どころか聞いてもない事を勝手に喋り続けてる。
もしかしてあれか? 伝説や神話級の話って、登場人物の威厳や神聖さを維持するため、かなり噛み砕いていい感じに伝えてるだけなんじゃねーのか?
そんな感じに自分を納得させ、ラーガ達の気が済んで戻ってくるまで、この世界樹の話は適当に聞き流しておくことにしようと心に決めた矢先の事だった。
『それに俺がクワトロの名を知ってるのは当然の事だよ。だって俺が名付けたんだから。シアンが君を胸に抱いて初めてここを訪れた時、クワトロはまだ自分で目を開くことすら出来ないほど小さかったね。本当に、とても立派に成長したよ』
「……は?」
一瞬、俺の思考と感情がフリーズした。
今この樹、何て言った?
『あ、そうだ。どうせなら“様”付け呼びの必要はないから俺を“アインスおじちゃん”と呼んでみてはどうだろう? 血や樹液の繋がりはないけれど、名付けという強い関係の絆で俺達は……』
「絶対嫌ですけど」
『…………しょぼん』
いや“しょぼん”じゃねーよ。
ってかちょっとマジで黙っててくれ。考えを整理したい。理解が追い付かない。
俺は眉を寄せ、自分の髪をくしゃりと掴んだ。
クソ親父と血の繋がりがない事は知ってたが、俺はイヴとジャック・グラウンドで生まれ育ったんじゃなかったのか?
なのに、俺はここに来たことがある?
俺の名付け親が
……世界樹?
幾百兆の緑の葉が、俺に囁きかける様に揺れる。
『―――そうだ。よかったら聞いていくかい? ……少し不思議な人生を歩む“クワトロ”という名の何処にでもいる、普通の少年の話を』
そして、世界樹は語りだしたんだ。
―――ある日、とある山の中に名もない赤ん坊が置き去りにされていた。
人間には得意不得意があり、中には他者を養う能力の低い者もいる。その赤ん坊の両親はそういう類いの者達だった。
愛され養われなければ赤ん坊は生きられない。だからその子は独り、世界の片隅でひっそりと世界に還ろうとしてた。
もう持って数時間の命の灯火しかない。
だけどその灯火が消える直前に、偶々傍を通りかかった一人の男に赤ん坊は見付けられ、生かされる事になったんだ。




