幸せの行方⑦
―――侯爵邸に着くと“もう夜も遅いから”とソラは自室に戻らされ、俺だけがカイロン様に客間に招かれることになった。
給仕が紅茶の支度を始めると茶葉の香りが部屋に立ち籠めだす。
だがカイロン様の真ん前に座っているおかげで、それを楽しむ余裕など全くなかった。
それに以前一度だけ来たことのあるこの豪勢な部屋には、トラウマレベルに嫌な思い出がある。
それはシアンの兄貴出会った日、兄貴に付いてこの部屋に通された時の事だ。
あの時は席を勧められることもなく、俺とソラはまるで空気のように立ち尽くしていた。
あの惨めさといったら、そう簡単に忘れられるものではない。
紅茶の準備を終えた給仕は、カイロン様の合図で部屋を出て行った。
そして広いこの応接室には俺とカイロン様だけが残される。……気不味い。
俺が出された紅茶に手を付けることなく警戒心強めに黙り込んでいると、カイロン様がニコニコと友好的な笑みを浮かべながら先に話しを切り出してきた。
「改めて見ると、ミカエル君は本当に綺麗な顔をしているのだな」
「ええ。それが“光のエルフ”というものですから」
顔を褒められることについては馴れすぎて、社交辞令にも“ありがとう”なんて言葉は最早出てこない。
「しかし綺麗過ぎるというのも困りものなんじゃないかい?」
「そうですね。随分苦労しました。そしてソラリス嬢にも、これのせいで多大な迷惑を掛けてきました」
この顔のせいで、これ迄何度も人攫いや危険な目に遭ったが、ソラはその都度俺を助けてくれた。
その事を言ったつもりだったのだが、カイロン様は別の意味に取ったようで仄暗い笑みを浮かべた。
「ほぅ、迷惑を掛けているという意識はあったのかい」
「ええ、まぁ……」
俺が頷くとカイロン様も満足げに頷き、紅茶を啜った。
「成る程。君が慢心した馬鹿でなくてよかったよ」
そして足を組み直すと真っ直ぐに俺を見据える。
その視線だけで、まるで息の詰まりそうな威圧が俺に襲いかかってきた。
俺がその威圧に怯むまいと身を固くしていると、カイロン様はゆっくりとした口調でハッキリと告げてきた。
「―――正直なところ私はね、君という存在はあの子の傍に相応しいと思ってはいないのだよ」
「はい」
だがそれなら俺だって重々承知している。
今回俺も招待を受けた時だって相当驚いたし、なんなら利用されたんだと気付いた時は逆にホッとしたくらいなものなのだ。
「とはいえ、私個人的には君のことをソラリスのよい友人と思っている。だがね、君の種族というものが世間からどういった風に認知されているか。ノルマンで学んできた優秀な君なら知っているだろう?」
「……まぁ一応は」
―――世間的に……特に貴族社会の中で、光のエルフとは美しく稀少な“最上級の奴隷”だということ。
そしてその“最上級の奴隷”を所有できるのは、世界でも一握りの権力と富を手にした者だけ。
そいつ等にとって俺達とは“物”であり“アクセサリー”であり“トロフィー”である。……そう。つまり人となりの人権を持った“者”ではないのだ。
だが俺も仲間達の誰も、そんなもんになりたいなんて望んだことは一度もない。
寧ろそうならないよう、必死で息を殺して生きている。……それなのに相応しくないだのなんだの、手前勝手過ぎるだろ。
「―――君達の種族には心から同情するよ。だが同情だけではどうにもならないのが世間というものだ」
「そう……ですね」
気楽に過ごしたノルマンでの日々こそが、俺にとって“特殊な環境”だったってことくらい分かってはいた。
そう、分かってる。カイロン様が突き付けてくるのは侮辱ではなく、ただの世間から見た常識。
世界から俺が……俺達がどういう風な目を向けられているかという正しい評価なのだ
「それにデビュタントを終えたソラリスは、今後一人の大人として社交の場に出ていくことになる。実情的にも外聞的にも、少女のように友人とばかり遊んでいるわけにはいかなくなる訳だ」
「確かに」
そう。ソラリスは今後忙しくなる。
貴族としての地位を示すため様々な活動に参加しなきゃならない。
聖騎士になる為の登用試験だってある。
兄貴からそれらを乗り切る力を付けて貰ったとはいえ、実際向かい合うのはこれからなんだ。
そして、そこに俺は必要ない。
「言っておくが、君を我が家で雇用することはできないよ。奴隷を買い入れたと誤解されると妻の慈善活動に水を差す事になりかねない。それで無くとも、いずれ騎士となるソラリスに付き従うのは、まともに歩くこともできぬ美しいエルフ……―――なんてあの子を陥れようとする奴らから見れば、まさに恰好のネタだと思わないかね?」
「……仰有る通りです」
反論できず俺は頷いた。
「なら君は、ソラリスの“よき友”として今後どういった振る舞いをしてくれるのかな?」
カイロン様は俺の善意や思い遣りといった部分を刺激して、ソラと居る為の全ての僅かな可能性をも潰していく。
そして俺に残された答えはたった一つしかなかった。
俺は顔を上げ笑顔を見せる。
「ソラリス嬢からの手紙にもあったかもしれませんが、俺はこの夏でノルマンを去ることにしました。今日は侯爵家のご厚意によりソラリス嬢のデビュタントという素晴らしい晴れ舞台を見せていただきに参りましたが、それも済めばもうここに留まる理由もありません。今晩にでもここを出て新たな旅に旅立つつもりです。―――よき友として、それぞれに己の道を邁進するのがよいかと考えておりますので」
カイロン様は手を叩いて笑った。
「そうか。君は本当に素晴らしいソラリスの友人だ。話の分かる者でよかったよ。これは僅かだが、此れからの君の旅への援助として受け取って欲しい」
用意周到。渡された小袋の中には“旅の援助”と言うには多すぎる額の金貨が入っている。
手切れ金というわけだ。
「受け取れません」
「感謝の気持だ」
「感謝をするのは俺の方です。ソラリス嬢に助けられた回数など計り知れないくらいです」
「ならばこれは君に預けておく事にする。君の旅が終わったときにでも返してくれ給え。まぁ途中の入用で使ったり、失くしてしまった場合は返さなくていいが」
「旅の荷物は少なくしたいので」
「ソラリスに感謝をしていると言うなら、その父の頼みも聞いてはくれんかね?」
「……」
……いやずるいだろ。ここでソラの名を使うのは。
俺は観念して、ファイブズ侯爵家の紋章が刺繍されたその袋を受け取った。
「分かりました。お預かり致します」
「ありがとう。必要な時、好きなように使ってくれたまえ」
金、権力、世間への信頼、発言力、そして血筋も。侯爵家が持つ全ての力が俺にはない。
そしてその力がなければ、俺には今のソラを幸せにすることは疎か、隣りに居ることすらもう出来ない。
俺は席を立つと踵を返す。
だがすぐに背後から声が掛けられた。
「今までソラリスと仲良くしてくれてありがとう。今後は会うこともないだろうから言っておくよ」
俺は睨むように笑顔を浮かべた侯爵を振り返る。
「ええ。今後俺とソラリス嬢が会う機会はないでしょう。―――余程の幸運でもなければ、ですが」
今はこれだけしか言い返せない自分が情けなかった。
◆◆◆
それから直ぐにカルメノスを後にした俺は、ダッキーに乗って休む事なく駆け続けた。
あと数時間で昇りくる太陽から逃げるように。
「速くっ!」
「グワッ!」
ダッキーはそんな俺を気にしつつも、不満を見せることなく地を蹴って走り続けてくれた。
――――こんなことをしても意味ないことは分かってる。
だけど俺は、それでもソラの居いない明日からの日々が訪れることを拒絶したかった。
そんな日が来るなんてとても信じられない。……堪えられない。
街道を駆け、平原を越え、俺は森を突き進む。
だけどどんなに逃げても意味はない。
何をしても時は過ぎるばかりで、その歩みは止まりも戻りもしないのだから。
やがて朝陽の射仕込む森の奥で立ち止まると、俺は少しの間だけ一人で膝を抱え蹲った。




