劣化版賢者①
シアンの呟きに、ケントが表情を変える事なくシアンの方に顔を向けた。
だがそんなケントがなにか言葉を発する前に、ロゼがケントに声を掛ける。
「じゃあ今の応用公式は、ちょうど来てくれたケントに答えてもらおうかな」
そんなロゼの質問に、シアンが思わずガタリと席を立った。
旅の先でケントが酷い目にあってきた事は最早明確だ。
そんな打ちのめされた今のケントに、ロゼの無茶振りは酷だとシアンは思ったのだった。
だがケントはコクリと頷くと黒板の前に進み出て、紫色のチョークを手に取りカツカツと黒板に公式を描き始めた。
勿論、今来たばかりのケントがこれまでの授業の流れなど知る筈もない。
それどころかこの5年間、一切シアンやロゼからの講義を受けていないのだ。
それでも迷いのないケントの手は、止まることなく文字を描き続けた。
延々と、延々と。……軈て黒板が公式でいっぱいに埋まってもケントの手は止まることなく、その先を教室の壁に書き始めた。
延々と、延々と。
まるで何かに取り憑かれたように式を描き続けるケント。その様子に、シアンと生徒達は言いしれぬ恐怖を覚えたのであった。
だがロゼだけは特に気にした様子もなく描かれていく公式を眺めている。
指摘もしないから間違いではないのだろう。だが間もなく、ロゼはケントの背にポツリと声を掛けた。
「いいね、ケント。だけどもう間もなく授業が終わる。あと2分で締めてくれるかい?」
ロゼは時間にも正確なのだ。
ケントは一度顔を上げてコクリと頷くと、それから一秒の狂いもなくジャスト2分でその式を閉じて手を止めた。
とはいえ、そのわずか2分の間に教室の一面の壁はケントの描きあげた式で埋め尽くされてしまっていた。
ケントにより壁にびっちりと書き込まれた式を、生徒達とシアンは唖然と眺める。
ロゼはそんな膨大な文字の僅か2行だけを円で囲むと、生徒達に向かい声を掛けた。
「―――いいかい、皆。この部分が今日の応用の公式だ。これ以降の書き込みについては、さっき話した“p”を表すための正確な演算公式となる。因みにβ=β"まで寄せるには、ウォーターボール発動のみに限ったとしてもこの更に78600倍の演算公式が必要になってくるね。それの解説はもう時間がないからやらないけど、知りたい仔がいれば後でケントに聞くといい。ちゃんと理解しているようだからね。―――じゃあ、ここまでで質問のある子はいるかい?」
平然とそう言い放つロゼに、今回ばかりは流石にモエからの質問すら上がらなかった。
「質問はないようだから、今日の魔法基礎理論学はここまでにしようか。次は教科書の356ページから432ページまでの解説と応用をするよ。読んできておいてね」
ロゼがそう言い終えた瞬間、授業終了を告げる鐘が響いた。
それと同時に儚げに立ち尽くしていたケントが、まるで何かの糸が切れたようにふらりと後ろによろめく。
「っケント!!」
シアンが机を飛び越え、力なく地に崩れ落ちていくケントに向かって走った。
シアンはケントが床に沈み切る直前で何とか腕を掴むと、自分にもたれさせる様に抱き上げ、生徒達に向かって声を上げた。
「ココ! ユメ! こいつの回復を頼むっ、今直ぐに!」
だが一番後ろの席でひっそりと座っていた瓶底眼鏡の成城院ここは申し訳無さそうに首を横に振る。
「ご、ごめんなさい。見た限りマナ切れを起こしてる風でもなく、私じゃお役に立てないかも……」
ユメも同様だった。
「うんうん。外傷はないし癖でCT検査の魔法も掛けたけど問題なし。精神的な疲労じゃない? ってゆーかそいつマジであのケントなの? 別人過ぎてウケるんだけど」
「あぁ。5年どころじゃない程髪も伸びてるがケントだ。間違い無い」
シアンはそう確信をもって頷き、力なく自分に身を預けているケントに話し掛けた。
「大丈夫か?」
「……」
ケントは答えない。それでもシアンはゆっくりとした口調でケントに声をかけ続けた。
「なぁケント。あの日お前が出て行ってからずっと心配してたんだ。何年経ってもお前の席をずっとずっと空席のまま準備してたんだ。よく、帰った。頑張ったな。あいつのトコからこうして帰ってこれるなんて、ホントすげぇよお前。―――ホント、迎えに行ってやれなくて悪かった……」
光を失っていたケントの目から、じわりと涙が溢れ出す。
そしてあの頃とはまるで違う、知性溢れる声でシアンに謝罪をしてきたのだ。
「……いいえ。シアン先生が謝ることなんて何一つありません。愚かなのは僕でした。あの日、シアン先生は懸命に僕を止めようとしてくださっていたのに……。奴の所に辿り着いて以来、僕はあの日シアン先生の忠告を聞かなかったことを後悔しなかった日はありません。……本当に……すみません。すみませんでした、シアン先生……」
ハラハラと涙ながらに訴えるしおらしいケントに、他の転移者達は別の意味で引き気味だ。
シアンは奇異の目を向けられるケントを隠すように目深にフードを被り直させると、生徒達に向かって指示を出した。
「皆、オレはこれからケントを教員室で休ませてくる。だから次の時間は自習をしておいてくれ。―――メリー先生、午後の授業迄には戻るので、それまで皆をお願いしてもいいでしょうか?」
「自信はありませんけど一応副担ですので! やっときますよー」
「ありがとうございます! 問題起きたら後で全部俺処理しますんで!」
シアンは本当に損な性格だ。
だがそうでなければ、きっとメリーもこのクラスの副担任なんて辞退していただろう。
メリーの答えにシアンがホッとしたのも束の間、今度は生徒達の方から苦情が溢れてきた。
「てゆうか、なんで自習? 別に普通に次もロゼくんの講義受けて待ってるよ」
「そうだぜ。最近先生授業はロッゼに丸投げじゃん。こちとら必死に予習してきたんだから講義予定変えるなし」
なんとも熱意あふれる苦情である。
だが熱血教師であるはずのシアンは首を縦に振らなかった。
「勝手なことを言うな。それじゃあオレがロゼの講義受けられないだろう。オレも受けたいんだから自習してろ」
「我儘か」
「傲慢熱血教師(笑)は放っといてロゼくんに授業してもらおー」
「お前等に良心の呵責はないのか?! そ、それに。ロゼは一応学園非公認の講師だからなっ。教師であるオレがいなきゃ……」
「本音のあとの建前とか説得力なさすぎなんですけどおー」
「や、ホント待ってて。お願いします。今日みんなに焼肉奢ってやるから」
それでも聞き分けず責め続ける生徒達に、とうとうシアンは指でマネー印をコソコソと作りながら生徒達に平にお願いを始める。
なんともいやらしい態度ではあるが、まだまだ食べ盛りの生徒達は手を叩いて興奮しだした。
「焼肉?! マジで!? やった!」
「ならお昼肉以外のメニューにしなきゃ! 」
「シアン先生、ユッケもある?! ユッケ!」
「カールービッ! カールービッッ!!」
「てゆーかいーんですかぁ? 教師が生徒に賄賂とかー?」
そんな囃し立てに、シアンの腕の中でぐったりとしていたケントが焦り気味にシアンを止めにかかった。
「そ、そんな。止めてくださいシアン先生。教師の立場でありながらこんな僕の為に賄賂だなんてっ、僕なら平気ですから!」
「いや賄賂じゃねえし」
スンと冷ややかな目でシアンに睨まれ、ケントは困惑気味に言い募る。
「え? でも皆に焼肉を奢るって……」
「馬鹿か。焼肉はお前の歓迎会だよ。そこを教師として持ってやんのは当然だろ」
「……っ」
目を見開き、驚きに言葉を詰まらせるケント。
シアンはそんなケントの頭をグシグシと撫でながら笑った。
「おかえり、ケント。やっと一緒に勉強できるな」
「はいっ。―――……ただいまシアン先生。それから皆……」
ケントは教室を見渡し、嬉しそうに笑いながら泣いていた。
そうして教室が突然の再会と焼肉の興奮に揺れる中、モエもまた興味深げにその成り行きを眺めていた。
「……ほう。シアン先生はあのケントをもその手中に落としましたか。新たなCP誕生の瞬間ですなぁ。実に善き善き」
『あぁ然り。最弱の総攻めという噂は真であったようだな。誠に楽しませてくれる男よ』
モエがポツリと呟いた独り言。なのに期待もしていなかった返事が返され、モエは驚きながら声のした方に目を向ける。
するとすぐ目の前の教卓の上に、鳩程の大きさの黄金の羽毛を持つ小鳥がちょんと乗っていた。
しかもその小鳥は、肩と頭が黄金の髪を持つ人間の子供のようになった半人半獣の姿をしている。
異形の見た目にモエは一瞬目を見開くが、直ぐに“同士に種族の壁はなし”と思い直し、親しげに話し掛け始めた。
「総攻め……確かに。その考察から察するに、そちらは名のある腐死鳥とお見受けする。その噂の出処については深く語り合いたいですなぁ」
『よかろう。いずれ、な』
そう言って人間の頭を持つ小鳥がニッと不敵に笑ったその時、クロが声を上げて身を乗り出してきた。
そしてその黄金の小さな体を両手で包み込むと、モエの前から小鳥を回収していく。
「レイ! 勝手にブランケットを抜け出したらだめだろ」
『チュピッ』
そう。この小鳥こそ、精霊王がクロに授けた最後の獣リリマリスであった。
モエはクロに掻っ攫われていく同士を目で追いながら尋ねる。
「はて。その子はクワトロ君ところの子でござるか?」
「そうだよっ。今朝漸く生まれたとこなんだ。変なことを吹き込まないでくれ」
「ほう、生まれたてとな? なんと有望な……。ただ拙は何も吹き込んでなどおらぬでござるよ」
「嘘つくなよ! 今“総攻め”だの“CP”だの話してただろ。まだ何も知らないレイに“ミリタリー知識”を仕込もうとか馬鹿なんじゃないのか?」
「……えーっと?」
クロの勘違いをどう説明すべきかと、モエはチラリとリリマリスに目を向けた。
するとリリマリスはクロの手の中から穢れなき瞳でモエを見上げ、クリっと小首を傾げると『チュピ?』っと無邪気に鳴く。
―――刹那、モエは全てを悟り深々とクロに頭を下げた。
「……成る程。すまんでござったな。今後、其方腐死鳥殿にはミリタリートークは控えるで御座るよ」
「フェニックスじゃなくてハーピーだ(多分)。レイが遊びたがるならお前も構ってもいいけど、今後は気をつけろよ」
「モチのロンなり」
―――腐なる真実は、身内の前でこそするべからず。
それが彼女等の暗黙のルールなのであった。
それからクロはイヴにリリマリスの紹介を始め、他の生徒達もその可愛らしい雛を近くで見ようと集まってくる。
シアンの方は、気になりつつもそちらには構うことなくケントを連れて教室を出ていった。
そして、それらの成行きを静かに眺めていたミアが、リリマリスを取り囲む人だかりに目を向けながらポツリと呟くのであった。
「やっぱイヴちーは凄いなぁ。完全に腐ってたね☆」
◆◆◆
一方、教室を抜け出してきたシアンは、教員室の片隅に置かれた来客用のソファーにケントを座らせていた。
「ま、なんだ。とりあえず寛いでくれ。なんか飲み物淹れるが何がいい?」
ケントは泣き腫らした目のままニコリと微笑むと、謙虚に答えた。
「お気遣いありがとうございます、シアン先生。僕は“紅茶”でなければ泥水であろうと何でも構いませんので」
……。
うん。完全にトラウマを植え付けられているね。




