世界一受けたい授業
―――イヴ達が女子会を開いた翌日。
世界は事もなく、いつも通りの日常を迎えていた。
そしてノルマン学園の特殊学級も、いつも通り変わらぬ午前の授業が始まっている。
まぁいつも通りと言っても、そこはノルマンきっての特殊組。
その授業レベルともなれば高等部はもとより、研究院生ですら頭を捻るようなハイレベルな講義だった。
生徒達が真剣な表情で黒板を見つめる中、凛と澄んだ講師の声が教室に響き渡る。
「―――それで魔法陣を媒体に魔法を使う際に必要になってくる発動範囲、つまり影響を受ける空間〈β〉についての計算なんだけど、これを仮想空間〈β"〉と置き換えてみよう。そうすればその空間計算をある程度省くことができるようになるんだ。例えばこのように海抜13メートルの遮蔽物のない空間〈β〉を〈β"〉とした場合、これを気体の比重と分布率を参照に、重力gと気圧hpから近似値を導き出し〈β"〉=xを簡単に求めることができる。そしたらその解を以前話した公式にして陣に当て嵌めて……」
講師の淀みない話しに転移者達は器用にも正面を向いたままノートを取り続けていた。
一語一句聞き逃すまいと必死に教壇を睨む彼等の顔つきは皆真剣そのものであったが、多感な彼等が始めからこうだったわけでは決してない。
まぁ元から彼らが生まれ持った記憶に馴染みのない“魔法”について興味を持ち、他の授業に比べても意欲的に学びたがってい節はあるものの、始めの頃はそれはもう……一言で言えば酷いものだった。
それは転移者達が生まれ落ち、ノルマン学園に入学して間もなくの頃のこと。
異世界の記憶を持つ若い彼等は、例外なく自分を“特別”だと思い込み、神より与えられた各々の“ギフト”で一通りやらかしたのだ。
喧嘩好きが拳一つで世界を変えようと意気込み、歌好きな姉弟が世界に声を響かせようとし、オタクが趣味を布教しようと目論み、忍者が里を開拓しようとし、噂好きが世界各国の国家機密を盗み出そうとしたり、魔王的おかんがその背を優しく押したりもした。
所謂“俺、またなんかやっちゃいました?”事案というやつだ。
ただ、そんな大きな力を考えもなしに使えば当然大きな弊害も出るわけだが、そんな弊害の対応を僅か14歳の少年少女達にこなせるはずもない。
つまりまぁ、その皺寄せの尻拭いというものをシアンが泣きそうになりながらも大体全てを引き受け、事なきを得つつもなんとか教師としての貫録を見せつけたというのが事の顛末である。
……そうして転移者達は“人としての申し訳無さ”という弱みをシアンに握られてしまって以来、はにかみながらもシアンの言うことをよく聞くようになり、学びの姿勢を厚生させていったのであった。
―――まぁ、一人を除いてはなんだけどね。
その一人とは小坂賢人。……この世界で賢者と呼ばれた者をモデルとして生み出された少年。そんな彼の席だけは、彼がノルマンに入学した翌日から5年と3ヶ月もの間空席のままだった。
だけどまぁ、ここに不在の彼の話しはまた今度にしよう。
転移者以外にも、この授業を受ける者はまだ6人も居るのだから。
その6人とは先ず、転移者以外のクラスメイトであるイヴにユウヒ、そしてリリーの妹達であるミアとグレイ。因みにクロは欠席しているが、それはいつものことだ。
そして残り二人というのが、講師陣であるはずのシアンと副担任のメリーだった。
……―――なら、一体誰がこの授業を受け持っているのか?
と、その時。講師が解説と共に黒板に流麗な黄金の文字を描きあげていく中グレイとミア、それからシアンが講師をじっと見詰めながら目を潤ませながらコソコソとひそひそ話を始めた。
「くっ、基本の授業料でこの授業内容とかあり得ない。お願いですから配達のバイトで貯めた貯金を全てぶっ込ませてください。超課金したい……! お願いですから貢がせて……供えたいのぉ……」
「ふあぁ、先生の尊みが超ヤバみぃ……マジ昇天レベルだよぉ……」
「エモい……前のも激可愛くて爆発しそうだったけど、これはマジ尊みが深すぎてオレそろそろハゲそう……」
我の強いこの三人が感極まり、瞬きすら惜しんで褒め散らかすこの講師の正体。
「ねぇそこ。指摘や質問があるの? あるなら手を上げてからにしてくれる?」
それはここ数年の成長に伴いイヴの精神が安定してきたことにより、その知能レベルを僅かに取り戻したロゼその本人であった。
ロゼの優しい注意に、まるでJCのようにはしゃいでいた三人の背筋がピリッと伸びる。
「申し訳御座いません」
「指摘などあろうはずもございません」
「はい。仰せになること全てが真理にございます」
「そう。楽しんで聞いてくれる分にはいいんだけど、他の仔達の気が散らないように配慮はしてね」
「「「はっ! 御聖意のままに」」」
そう言って寸分の狂いなく揃って頭を下げた三人には、最早JCの面影など何処にもない。
ロゼはニコリと微笑むと、澄んだ鈴の音のような音を響かせて瞬くように羽を翻し、また指先で黒板に黄金の文字を描き始めた。
「じゃあ続けるよ。―――そうして出来上がったこの魔法陣だけど、これを公式陣とするには必ず余白〈p〉を持たせておかないといけないんだ。というのも、この〈p〉こそがカオス的余白で〈β"〉を限りなく〈β〉へと近付ける為の物になるからね。ただ、この余白〈p〉はあくまで公式として必要なだけであって、それが〈p=0〉だったとしても成り立ってしまうんだ。というのも〈p〉を唯の空欄()としておくだけでも〈β〉≒〈β"〉は既に成立しているからだよ。つまりここの〈p〉とは万象や心理とも呼ばれる可能性に対する為のものであり、この計算を突き詰める事で限りなく〈β〉と〈β"〉の誤差を(=)に近づけることが可能になるというわけだ。というか、もし全ての計算を終えてその誤差±0にまで寄せることができたなら、その時は〈β"〉=〈β〉となり仮想が現実となるということでもある。とはいえ、単に魔法を使うだけならそこまでする意味はないね。そして現状の君達にはまず不可能でもある。だから〈p〉を表す()内の公式については空欄のままでも別に問題はないということでもある。―――……うん、ここまでで分からないところはないかな?」
と、ロゼが話しを止め振り向いた刹那、間髪入れず一人の生徒が手を挙げた。
「はいっ!」
ピシッと挙手しながら眼鏡をクイッと指でずらす生徒を、ロゼは嬉しそうに指名した。
「いいよ。モエ、言ってみて」
「はい。本筋とは少し離れてしまうのですが、気圧のhpや重力のgといった単位はどういう経緯で名付けられたのでしょう? まさかこの世界に存在し得ない“パスカル”という学者の名から取られた……というわけではありませんよね?」
「あぁ、それね。そこら辺の表記については“世界樹の記憶”に由来しているんだ。この世界の基礎は世界樹の記憶を真似て創られているから、万物が生まれた時からそうと決まっていたものが数多くあるんだよ」
おっと、突然の俺の話。
俺がコッソリドキドキと幹を高鳴らせたことなど露知らず、モエははてと首を傾げた。
「世界樹の記憶……? “世界樹”とは確か小坂賢人がこの世界に来て早々“直ぐに向かうべきだ”と言っていた聖域と呼ばれる森に生えるという巨木のことですか?」
「その通りだよ。だけどこの世界の世界樹について話すには、今の講義とはあまりにかけ離れてしまう。また歴史の授業にでも話してあげよう。それでもいいかな?」
「は、はい! 確かに! 関係のない話をしてしまい申し訳ありませんでした」
「いや、とてもいい質問だったよ。じゃあ魔法陣構築の授業を進めよう」
ロゼは生徒のどんな質問にも手放しに褒めるが、決して授業が脱線することもない。
再開された授業を邪魔しないようにと静かに席に着いたモエに、ふと後ろの席のシアンがヒソヒソと話し掛けてきた。
「……な、モエって普段はともかく授業中は凄く真剣で意欲的だよな。どんなささやかな疑問でも必ず質問するのって、凄くいいと思うぞ」
正教会を裏で牛耳るシアンもまた、ロゼ同様に人の良いところを見つけて褒めるのが上手い。
だがモエは不思議そうに首を傾げると、その褒め言葉を否定した。
「……? 何も凄くはないですが。そもそも拙は常から真剣に取り組んでおりますぞ? 今件とて単純にロゼ様というイケボの権化に、拙の名前を呼んでいただけるチャンスを逃すとかありえないというだけでげすし」
「……へぇ」
モエは本能に忠実なだけだった。
まぁたまには褒め間違えることだってある。人間だもの。
ともあれ、ロゼの授業は転移者達の間でも大人気だった。
己の持つ知識を余すことなく伝えようとする熱意があり、例え生徒達が見当違いな質問をくれてきたとしても絶対に否定はしない。
まるで愛に包まれ、揺りかごの中で子守唄を聞くようなその癒しのハイレベル授業に関する評価は転移者の間だけにはとどまらず、例のスレの中でも“羨ましすぎる”、“俺も受けてみたい”とここ最近のトレンド上位に常に食い込んでいるのであった。
「―――となるから、つまり“ウォーターボール”を出現させる為の基本術式はこうなるわけだ。じゃあ仮にこれを変則的に動く的に当てようとするなら、ここにどんな式を書き加えればいいか分かる仔はいるかな?」
ロゼがそう言って教室を見回した丁度その時だった。
突然大きな音を立てて教室の扉がガラリと開き、本日も欠席かと思われていたクロが教室にやってきたのだった。
かつての聖女イム(カンナ)に思考放棄させたロゼ()の説明に、世界は漸く放棄することなく考え始めたようです。
成長しましたね。




