ノルマン学園 シアンのとある平凡な日常
その日の午後の授業の後。所用を終えたシアンは俯きながら廊下を歩いていた。
シアンの隣には眉間にシワを寄せたベリルが並び歩いている。
と、シアンの口から深い溜息が漏れた。
「はあぁー……、何が気に入らないんだろうな?」
「単純にシアン先生が甘やかしすぎているのだと思いますよ? だから調子に乗ってくるんです」
二人のそんな憂鬱な話題のネタは勿論クロのこと。
本日だけでも白紙答案の提出に加え、白昼の暴力騒動。更には無断欠席と悩みの種を言い出せばきりがない。
そしてシアンは今、それらの件の関係者に頭を下げて回ってきた所なのであった。
まぁ本当ならクロを連れて謝りに行くところなのだが、無断欠席の為それも叶わず仕舞いである。
「兎に角。シアン先生はもっとビシッと言ってやんなきゃ駄目ですよ!」
シアン同様にクロに振り回されまくっているベリルもまた、苛立たしげにシアンに警告した。
シアンがそんなベリルに曖昧な苦笑を溢したとき、ふと視界の隅に話題の中心人物が写り込んだのに気付く。
シアン達の歩く廊下から見える中庭を、クロが一人歩いていたのだ。
シアンはとたん満面の笑みを浮かべ声を上げた。
「……あ。ぉ、おーい、クロ!」
そしてクロに手を振り、教師という立場を完全に忘れているのか、ひょいと窓枠を乗り越える。
クロは自分に向かって駆けてくるシアンに冷ややかな眼差しを向けながら、シアンに聞こえない程度の声量でボソリと呟いた。
「……ぅわ。確かに人の顔見て大笑いだ。きもっ」
その声は聞こえなかったが、極寒の視線にシアンの動きが止まる。
だが直後背後から、同じく窓枠を乗り越えてきたベリルの咳払いが響いた。
息子と同僚。板挟みとなったシアンは、冷や汗を流しながら声を絞り出す。
「く、クロ、午後の授業に出てなかったが、なにか用事があったのか? いや、決して責めてる訳じゃないんだ。だけどまぁ一言連絡をくれた方が……」
「シアン先生……」
とその時、背後から地獄の悪魔のような声が響き、シアンはビクリと肩を大きく震わせると、慌ててまたクロを諭し始めた。
「うん……あ、あのさクロ。授業に出なくても、学力的に全然問題ないってことは、ずっとお前を見てきたオレにはちゃんと分かってるんだ。だけどまぁつまり、その。白紙答案を出したろ? あれはメリー先生が一生懸命作ってくれた問題でもあるわけで、ああいう態度は良くないと思うぞ」
「……」
ベリル曰く、まだまだ甘いその指導にシアンの背にはベリルの鋭い視線の矢が突き刺さる。
心臓が刺し貫かれそうなプレッシャーに、シアンはカタカタと震えながらもクロに笑顔を向けていた。
と、クロがフイとシアンから顔を背け、吐き捨てるように呟く。
「……知るかよ」
クロのそんな態度に、とうとう後ろで見ていたベリルが舌打ちをした。
「ちっ。お前なぁ……サボっといてなんだその態度は? また反省文書かすぞ、おい」
「はっ、脅しのつもりかよ。書けばいーんだろ、書けばっ!」
「んだと、おいクワトロ。人が優しくしてりゃ調子乗ってんじゃねぇぞ」
クロの反抗にベリルの語気が荒くなる。シアンは慌ててそんなベリルを宥めに掛かった。
「まぁまぁ、ベリル先生。……少しクロの機嫌が悪いんでしょう。それに今はもう放課後。そう目くじら立てて指導しなくも大丈夫ですよ、ね?」
「だから甘いんですよ、シアン先生は!」
「そんなことないですよ! なぁクロ。色々思うところがあるんだよな。久し振りに皆で夕飯でも食べに行かないか? イヴも誘って昔みたいに家族で話そう。な」
「うるせぇ、っ誰がてめぇなんかと食うかよクソ親父!!」
「なっ………く、くそ……?」
「ぷ……おやじ……っ!(笑)」
シアンは聞き間違いかと目を大きく開き、ベリルは怒りを忘れて吹き出す。
それは“父さんっ子”だったクロが、初めてシアンを親父と呼んだ瞬間であった。
「馴れ馴れしくすんじゃねぇっ」
「ちょ、え? あの、クロ??」
突然の出来事にシアンが涙目で困惑していると、校庭の方から澄んだ声が、シアンの名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「あ、シアーン! 居た居た!」
「あ? あぁ、おぅ、イヴか」
駆け寄ってきたイヴがシアンの涙目に気づいて、心配そうに顔を覗きこんでくる。
「あれ、シアン? 目が赤いよ? 泣いてたの? 誰かに虐められた?」
「いや、な、何でもない。……今クロと“イヴも誘ってメシを食いに行かないか”って話をしててな。そしたら……」
とその時突然、イヴがシアンの話しに被せて声を上げた。
「あ、私ねご飯パス! 今日またみんなで女子会しようって約束しちゃったの。だから外泊許可に担任の先生のサインがいるからシアンを探してたんだよ。シアン、ここにサインして」
「え? あ、うん。でも……ちょっとくらい……?」
「んーん、すぐ行くって言っちゃったから。場所はマリーちゃんのところでね、クーちゃんとソラリスも来るんだよ。後のメンバーは、これたら来るって言ってたけど……。だからご飯はクロと二人で行ってきて」
「あ……うん」
目に見えてがっかりするシアン。だがこの年頃の女子は、家族イベントより友人と過ごす方が大切なのである。
イヴは申し訳無さそうに苦笑こぼしつつも撤回はせず、話を逸らせるようにふと報告を始めた。
「あ、そうだシアン。今日昼間ね、この私達の校舎近くの校庭に、SS級の魔物が来てたみたいだよ。気付いてた?」
「いや、全然……ってかS級じゃなくSS級? そんなん聖域レベルの奴じゃねぇか」
「うん、珍しいよね。私も見に行きたかったけど、授業中だったから大人しくしてたの。だからもし、その子が私と死合たいって言ってきてるんだったら、絶対に教えてね! 私いつでも予定空けるから!」
イヴはいつだって血気いっぱいだ。
「うん、了解……。でもオレとの飯の予定は空けられないんだな……」
「そ、それはまた今度!」
未練がましいシアンにイヴは「じぁーねー!」と手を振りながら逃げるように去っていった。
そして取り残されたシアンは悲しげにクロに声をかけ、その肩に手を置こうとする。
「……な、クロ。イヴもああ言ってたし、二人で……」
「行かねえっつったろ。触んなっ!」
だが怒声を上げながらクロは飛び退き、シアンの手は虚しく空を掻いた。
行き場を失い彷徨う手の所在を持て余すシアンを無視し、クロはそのままスタスタとシアンに背を向け歩き出す。
だが数歩進んだところで、ふとクロは歩を止め小首を捻って振り返った。
「あ、そうだ親父」
「! な、なんだっ? やっぱりメシに……」
「違うよ。俺、明後日キメラと契約することになったから」
「……。…………んん?」
シアンの目が一瞬リアルに点になる。
「キメラの気分次第になるだろうけど、基本授業とかも一緒にいるってさ。死人出したくなかったらなんとかしといて」
血気いっぱいのイヴに対し、クロはいつだってクールに(無茶振りを)決める。
クロもまた「じゃ」と短く言って踵を返し去ろうとするが、流石のシアンも今日一番の焦り顔でクロを呼び止めた。
「えぇ!!? ちょ、マジで何がどういうこと!? せ、説明を!」
「昼休みの後、フィーがキメラに喧嘩吹っかけて怒らせた」
「吹っかけたって……フィーってそんなキャラだっけ!? つか喧嘩はしてないよな? したらノルマン半壊はしてるもんな?!」
「してないよ。でもキメラがフィーを許す代わりに俺と契約させろって言ってきたんだ」
シアンはハッと傷付いた奇形の仔猫の姿を脳裏に描きあげ、サザ○さんよろしく腕を振り上げた。
「あんのドラ猫おぉ! だめです! まだ一個生まれてない卵様もあるだろ!? 可哀相だけど元の場所に返してきなさい! ノルマンじゃ世話しきれません!」
「キメラをどら猫なんて言うなっ! それに卵にはキメラが孵化の魔法みたいなのを掛けてくれたから、明日中には孵るらしいし。その卵が孵って契約した後、キメラが契約にくるんだって」
「孵化の……魔法……? 何だそりゃっ!??!?」
孵化の魔法……。ここだけの話、そんなものはこの世界に存在しない。
キメラがクロへの願いとして契約を提案した際、キメラの弟妹とならないために自ら孵化を決行することにしたのだった。
とはいえ、そんな裏の事情をクロが知る由もない。
沈黙するクロにシアンは外聞もなく懇願した。
「うんクロ。午後の授業サボったことはもう一切責めない。白紙答案の件もいい。―――だからどうか今日の昼休みの後に一体何があったのか話してくれ!」
だがクロの返事は無情だった。
「嫌だ」
「なんで!?」
「じゃあ親父がまずなんか話せよ。親父が俺達に隠してる秘密を100個くらい。……どうせそのくらいあるんだろ?」
そう言ってクロはジトリとシアンを見据える。
シアンは一瞬はたと動きを止めて目を泳がせた。
そして数秒の沈黙の後、嘘と秘密に塗れたシアンはへらりと笑ってぬけぬけと答えた。
「―――……オレにヒミツナンテいっこもナイヨ?」
……シアンにはこういう少し卑怯な所があるのだが、そんなところは俺に似ているな、と俺は実はこっそり思っていたりする。
そして案の定その答えにクロは激怒し、シアンに罵声を浴びせながら背を向けて駆け出した。
「っもう知らねえ! クソ親父! キモ親父!! もう一生メシ一緒に食ってやらねえぇえ!!!」
そう叫びながら遠ざかっていくクロ。
その背中を、シアンは唖然と見送りながらポツリとベリルに声を掛けた。
「……なぁ、ベリル先生。オレさあクロが成人した時、一緒に酒飲むのが密やかな夢だったんだよ……」
「ま、気にすんな。クワトロくらいの歳ったら丁度思春期ってやつだろ。二次反抗期じゃね?」
「二次……そっかぁ。クロもデカくなったんだなぁ……うん、父ちゃん嬉しいぞ……」
そう呟いたシアンの目から、とうとう一粒の涙が溢れた。そんなシアンの肩にベリルがそっと手を置く。
「泣くなよ。今日は俺が飲み連れてってやるから」
「やだ」
「何でだよ」
「だって結局いつもオレの奢りになるし」
「いーじゃん金持なんだし」
「それにお前居酒屋でオレのことほっといて、他の客や店員口説きにいくじゃん」
「だって」
「だってじゃねぇし。てかせめて一緒の時はやめろよな。人を出汁にしやがってよ。マジで他人のフリしたくなるんだよ」
「いやぁ、でもシアン先生と行きゃ皆食いつきいいんだよ。まさに入れ喰い状態?」
「あーっ、もうこのイケメンオヤジとは二度と飲みに行ってやんねぇえぇ!!」
やはり親子だからだろうか? 怒った時の反応にデジャヴを感じる。
―――こうしてクロはキメラと出会い、自らに隠されていた秘密を知った。
そしてクロは父を恨み、復讐することにした。……とはいえ、クロはまだ復讐を具体的にどうすればいいのかを計画出来るほど経験豊富な訳でもない。
そこで素直なクロは、キメラから聞いた“与えられた苦痛を返す”という一点に復讐行動を集約することに決めたようだ。
クロにとっての苦痛とは、食事に対する楽しみを奪われた事と、秘密を抱えられたという裏切り。
そこでクロが考えたシアンへの復讐とは、先ずもうシアンとは食卓を囲まないこと。そして、今日知ったその件を、シアンに秘密にすること……。
それがクロが熟考の末に決めた復讐内容だった。
幼かった自分では処理しきれなかった大きな問題に、必死で向き合おうというする少年。
―――だが大人達は、必死に藻掻く少年を見て簡潔にこう言い表すだろう。
“思春期にありがちな一種の青春”
“二次反抗期”
“厨二病”
そして、“誰しもが通る道”
仕方ない。大人になればそれは自分の一部となり、かつての感情の起伏など忘れてしまうものなのだから。
だが当の子供達にとって、それは常に真剣な行動であり、人知れずこの上なく重要で繊細な理由と意味を持つのであった。




