ノルマン学園 クロのとある非日常①
やがてクロが錫を鳴らし終わると辺りは静寂に包まれた。
噴水の水が流れる音と、広場を風が通り抜ける音だけが流れる沈黙。獣達は皆、相変わらず息を潜めて錫の音の余韻に酔いしれていた。
だがその時。突然空から巨大な影が小さな広場に降りてきた。
その存在に先ず気付いたのが、キールを除くクロの契約獣達だ。
彼らが警戒心を顕に空を見つめる中、数拍遅れて木々に止まっていた鳥達が一斉に飛び立つ。
数百羽の鳥達が一斉に空に舞い上がり騒然とする中、その仔は悠然とクロの前へと降り立った。
そのあまりにも突然の来訪者の姿を見留たクロは、電撃に撃たれたように背を跳ねさせると、呼吸すら忘れてその姿に見入った。
それは見事な鬣を持つ獅子の頭、黄金の瞳を持つ山羊の頭、大きくエラを広げた黒蛇の尾、そして力強い巨大な鷲の翼を持つ、無類にして唯一の王獣。
かつて親から歪んだ愛情、そして神より祝福を受けて世に生まれ落ちた伝説の獣・キメラだった。
クロにとってこのキメラは幼い頃からずっと憧れ、逢える事を夢にまで見続けていた存在である。
この突然にして思いがけぬ遭遇に、クロは時を止めたようにその美しい獣に見惚れていた。
キメラは焦げ茶色の鷲の翼を折り畳むと、獅子、山羊、蛇のそれぞれの頭から、ルドルフのように空気を魔法で振動させて口々にクロに語りかけてきた。
『噂に違わず良い音であるな』
『良い音だった』
『うん。実にいい』
三つの頭から放たれた三つの声に、クロはハッと我に返ると慌ててキメラに尋ね返した。
「え、……な、何で……キメラがこんなところに?」
そう尋ねながらも、クロは僅かに期待していた。
ある時からクロは、自分は獣に好かれやすい体質であることを自覚し始めていた。だからもしや、この気高く尊い王獣までもが自分を慕い、ここまで遥々会いに来てくれたのでは?……と。
キメラは嬉しそうに低くゴロゴロと喉を鳴らしながら、また口々に言う。
『勿論会いにきたのだ』
『ひと目、見たかった』
『うん。ずっとずっと会いたかった』
クロの方を見つめ、うっとりと口々に言うキメラに、クロは歓喜に跳び上がりそうになる自分を必死で抑えながらこくこくと頷いた。
「お、俺も……」
だがキメラが一歩足を踏み出しくろに近づいた瞬間、キールを除くクロの契約獣達が一斉に警戒を強め牙を剥いた。
と言っても、キメラは夢見るような視線をクロの方に向けたまま、そちらは一向に気にしてはいない。
『会いたかったぞ、我が愛しい子』
『我が愛しき番よ』
『うん。想像以上の愛しさだ』
「……」
と、そこでクロも漸く、ラーガ達が警戒を解かないその異様さに気付く。
キメラがクロの方へと向けるその熱の籠もった視線は、クロがキメラへと向ける憧憬の念とは掛け離れていて、クロの胸に一抹の不安が過ぎる。
そして思わず一歩後ずさるも、ズシャリと太い獅子の前脚をクロに向かって進める。
翼を閉じていても体長5メートルはある王獣の巨体の威圧に、クロは息を呑み、吹き出す汗を止めることができなかった。
幼い頃からずっとずっと会える日を夢に見ていた。
―――だが、こんな熱烈な想いをぶつけられるのは予想外にしてノーサンキューだった。
「……いや。あの……」
そして契約紋を通じ、クロのドン引きを察した契約獣達は、主を庇うようにクロの前に飛び出した。
「ガウゥッ!」
「コフーッ!」
「キュオン!!」
「シャーッ!」
「クエェン!!」
そして負けじとキールもクロの腕を抜け出し、無謀にもキメラに体当たりを食らわそうと飛び出した。
「キキヒィーッッ!!」
「あ、キールっ! 待って……」
クロが慌てて止めようとした瞬間、キメラが巨大な翼を開き肢体を跳ねさせると、まるで毛糸玉に飛び付く仔猫のように歓声を上げながらキールに飛びかかった。
『愛し子!』
『我の元にとうとう来てくれたのか!』
『うん。もう、夢かな? これは夢かな?』
「……キヒ、ヒィ?」
「え?」
呆気に取られるクロ。
そう。キメラはずっとクロの方に……、正確にはクロの胸に抱きかかえられたキールに視線を送り続けていたのである。
とは言え、それぞれの頭の鼻先や肉球でつつき転がされるキールも困惑気味だ。
『愛しき!』
『柔らかし!』
『うん! かわゆし!』
「キ、キヒィ……」
「いや、待ってキメラ。ちょっとストップ。キメラの愛し子って俺じゃなくて、まさか……キール?」
キメラははしっと前脚でキールを抱きかかえながら、3つの首を並べ頷いた。
『そうだ。だからこの愛し子を是非我が嫁に』
『必ず幸せにする』
『うん。というか、オスを番に出来ぬのは人も同じであろう? 何故お前は己がなどと思った?』
「……あー……」
そう当たり前のことをキメラに返され、クロは暫し己の思い上がりを深く反省するよう長い間沈黙していた。
だがやがて何か心の整理がついた様で、クロは大きな深呼吸を一つ吐くと、低い声でキメラにハッキリと告げた。
「駄目だ。キールはやれない」
『な、何故だっ。お前も以前から我に興味を抱いていたのではないのか!? 何も化け物や邪竜に嫁がせるというわけでもあるまいっ』
『遠くからずっと愛し子を想い続けていた。我にはもはや愛し子が必要なのだ』
『うん。どうか頼む、お義父さん!』
慌てふためきながら必死で言い募るキメラに、クロは淡々とした口調で応えた。
「キメラがずっと想ってようが、こっちとしては急過ぎて意味が分からない。それに何故も何も、普通に考えて今日初めて会った奴に、はいどーぞなんて言うわけ無いだろう」
全く以て尤もである。
「確かに俺は、小さい頃からずっとキメラに会ってみたいと思ってた。……だけどそれとこれは別。俺、キメラにお義父さんなんて呼ばれる筋合いはないから」
獣に愛された少年は王獣に恐れることなくそう言い放つと、巨大な獅子の前脚の肉球の隙間からキールを引っ張り出して腕の中に納めた。
そしてそのままキールを隠すように身を撚ると、拒絶を込めた視線をキメラに送る。
キメラは助けを求めるようにキールを見るが、キールはといえば、大好きなクロに再び抱き上げってもらったことの方が重要らしく、クロの腕の中で嬉しそうに体をぷるぷると震わせているだけだった。
そう。クロとキールの間には、他者の介入を許さないほどの固く強い絆がある。
その絆には、シアンやイヴですら手出し出来ない程なのだから、キメラが割り込めるはずもない。
だがそれでも諦めきれないキメラは、自分よりずっと小さくてひ弱な少年の前にペタリと寝転ぶと、羨ましげに横目でクロを眺め始めた。
ネコ科の獣が、直ぐに立ち上がれぬよう手足を投げ出して寝転ぶのは“敵意なし”を表すポーズではあるのだが、クロは一向に警戒の色を緩めない。
クロとキメラが見詰め合う中、遠くからカンカンと響く鐘の音が聞こえてきた。
間もなく昼休憩が終わることを報せる予鈴の音である。
クロの脳裏にふと、先程聞いたばかりのルドルフの声が蘇ってきた。
“―――で、寝過ごすパターンだな。やっぱサボりじゃねぇか”
(……別に寝てる訳じゃないけれど)
クロはそう心の中で言い訳をしながら、午後の授業をまたバックレることにしたのだった。




