見えない毒牙
「あ、待ってマスター。お仕事? マリーも手伝うよ!」
レイルさんの言葉に、サブマスがすぐに手を上げ答えた。
だけどレイルさんはサブマスをそっと押し留めて言う。
「いや、マリーは彼等ともう少し居てあげるといい。彼らが満足するまでダンジョン内の時間を延長しておいてあげるんだ。じゃなきゃシアンを心配させてしまうからね」
「うん……で、でも……」
言い淀むサブマスを見て、今度はイヴが手を上げて言った。
「マリーちゃん、レイルさん! 私達もそろそろ帰ろうと思うの! ―――だから、お茶ご馳走様でした」
「そうかい? なんだか急かしてしまったみたいで申し訳ないな。ゆっくりしていってくれて構わないのに」
「んーん、いいの。もう帰る。……あ、だけどレイルさん。レイルさんに一つ教えて貰いたいことがあったんだった。今度会えた時にまた教えてくれる?」
「何かな?」
首を傾げるレイルさんに向かってイヴは指を掲げると、そのまま空中に金色の文字をサラサラと描き始めた。
「この文字の使い方なんだけどね。ガラム先生は“神の文字”って呼んでた。レイルさんはこれを使えるんでしょう?」
「あぁ、それか。うん、少しなら使えるよ。だけどまだ君に教えられる程詳しい訳でもない」
「少しでいいからっ! お願いレイルさん!」
イヴの頼みに、レイルさんは困ったように笑いながら頷いた。
「んー、そうだなぁ……分かったよ。他でもないイヴちゃんの頼みだ。教えてあげるよ」
だけどレイルさんは一つだけ条件を付ける。
「ただ今のイヴちゃんには、他に学ばなくちゃならない事がまだある筈だ。今は先ずそっちを優先しようか。そして君が20歳を迎えてまだ尚、教わりたいと思ってくれていたなら、僕は余すことなくささやかな知識を披露しよう」
「本当!?」
「うん。本当だとも」
レイルさんの言葉にイヴの顔が輝いた。―――だけど何故かユウヒの表情が険しく曇る。
「はっ、本当にお前のその偽善ヅラには反吐が出るな。ハッキリ“教える気がない”って言えばいいだろ?」
俺とイヴは驚いてユウヒを振り返った。
今の話のどこをどう聞けば嘘だと言い切れるのか。そして、何故ユウヒがそんなに怒り出したのか、全く分からなかった。
レイルさんも困ったような苦笑を浮かべながらユウヒに尋ねる。
「教えるって言ってるじゃないか。なのに何故そんな事を言うんだい? それか、もし僕に教える気がないと断言できる理由でもあるなら言ってみなよ。勇者サマ」
「そんなの……っ」
煽るようなレイルさんの言葉に、ユウヒは言葉を詰まらせた。
俺達が首を傾げる中、レイルさんは更にユウヒに詰め寄る。
「どうしたの? 言いなよ」
「くっ……、だ、だけど少しくらい今教えてもいいだろ! それで楽しいんだから」
「わざわざそれじゃなくても楽しめる事なんて幾らでもあるさ。それに今がよければいいなんて、随分楽観的かつ脳天気な意見だねぇ」
「あーあー、ほんっと胸糞悪くなるな。お前と話してるとさぁっ!」
ユウヒとレイルさんの言い合いは、どちらも引かずヒートアップするばかりだ。
「そうだろうね。だから早く出ていけって言ってやってたのに、本当に君は忠告を聞かないバカ勇者だよ。あぁ、ついでに調子に乗ってるところ悪いけどさ、君って世界一クロ君の友人に相応しくないよね。もう今すぐ消えろよ。そして二度とクロ君に関わるな」
「何だとっ!? このっ……」
とうとうユウヒがこめかみに青筋を浮かべて怒鳴り返そうとした時、とうとうイヴが二人の間に割って入った。
「喧嘩はだめだよっ! ねぇユウヒ、私大きくなったらちゃんとレイルさんにしっかり教えてもらうから! ……ね、教えてくれんだよね? レイルさん」
「うん。そうだよ。君が将来も僕に習いたいと思ってくれていたならね」
レイルさんは落ち着いた口調で即答した。
「こいつっ……いけしゃあしゃあとマジでさぁ……っ!」
ユウヒは尚も肩をいからせ言い返そうとするが、イヴはそんなユウヒを押し留めて言い聞かせた。
「ね? ちゃんと約束したよ。だからユウヒ、もう喧嘩は駄目だよ……」
イヴに見詰められたユウヒの顔が、一瞬クシャリと歪む。
だけどユウヒは何か思い留まるように言葉を飲み込むと、フッとイヴに笑い掛けた。
「君は……―――……いや、うん。そう……だね」
イヴもユウヒに笑い返す。
するとレイルさんがユウヒに手を差し出しながら、笑顔を浮かべて明るい声で頷いた。
「うんっ。確かに今を楽しく過ごすには仲良くするのが一番だよね。じゃ、そういうことで勇者サマ。僕と仲直りの握手でもする?」
「……」
ユウヒは差し出された手を取る事無く、レイルさんを睨みながら後ずさった。
そして大声で俺達に言い訳を始める。
「あぁ! そうだ。僕はこれから彼方此方に色々報告しなければいけないことがあったんだー! 悪いねみんな、僕はもう急いで行かなければならない!」
……仲直りしたくない事がバレバレだった。
だけどそれはレイルさんも同じだったようで、ユウヒの態度を冷めた目で見やり、差し出していた手を引っ込めた。
そんな険悪な二人に、俺達はもう何も言えなかった。
ユウヒはそのまま踵を返し、さっさと喫茶店の扉に向かって歩き出す。
だけどドアノブに手をかける前にふと足を止めると、振り返って俺に笑いかけてきた。
「あ、そうだクロ。もし何かあったら僕に手紙を書いて。“僕に”と言って手紙を風に乗せれば、精霊達が風の便りとして僕に届けてくれるから。勇者にとって精霊達は、自分の一部のようなものなんだ」
「あ、ぅ、うん! 分かった。きっと書くよ!」
俺がそう慌てて頷くと、ユウヒは小さく手を振ってダンジョンを出ていってしまった。
残った俺達も荷物を持ちあげ、帰り支度をいそいそと始める。
そんな中、どこか気まずそうに無言でダッキーの手綱を持つミックにイヴが声を掛けた。
「ミックはレイルさんと沢山お話ししてたよね。レイルさんって物知りでしょ? また話を聞きに来ようね」
それはイヴなりに場を和ませようとして言ったんだろう。だけどミックは目が泳がせながら首を横に振った。
「え? ……えっと、俺はもういい……かな。ほら俺ってこんな足だし、イヴ達と違って本来ダンジョンをクリアできる力もないし? なのに話だけ聞きたいなんて虫が良すぎるというか……、それにマスターさんも忙しそうだから悪いかなって……」
「そうなの?」
ミックの言い分に、イヴは深く尋ねることなく不思議そうに頷いていた。
また後になって知ったことだけど、この時ミックは実はレイルさんから何の話も聞き出せていなかったんだそうだ。
聞きたい明確な内容もあったのに、長い話の後で思い返せば、まるで夢でも見ていたかのようになんの情報も入手出来てなかったのだという。
そしてそのことについてミックが言うには、それは明らかな悪意あっての対応であったそうだ。レイルさんは興味深げにミックの話を聞いているふりをしていたが、内心では馬鹿にして嘲笑っていたんだとか……。そして、勇者に対して程のあからさまな態度はなかったものの、間違いなく自分は嫌われてるとも言っていた。
―――ただ、俺も見ていたいたけど、ミックとレイルさんの会話は至って普通で、何故ミックがそんな考えを持ったのかは謎だった。
一応、勘違いじゃないかとは言ってみたけどミックの考えは変わらず、今後二度とダンジョンには近づかないと断言していた。
そして間もなく俺達の帰り支度も整い、イヴとサブマスが最後の別れを惜しみ合っている様子を俺が横目で眺めていると、レイルさんが何気ない様子でポツリと俺に言ってきた。
「そう言えばクロ君。ダーク・エルフのフェリアローシア様と仲が悪いんだって?」
「え? うんまぁ……。―――いっときは仲良くしなきゃとも思ったんだけど、なんかあいつ苦手で」
「あはは、別に責めてるわけじゃない。だって僕も苦手だから。何だか勝手に尊敬されたり奉られたりして、とても迷惑してるんだ。もし今度会うことがあったら、僕が迷惑してたと言っておいてよ」
「うん。分かっ……」
俺は何気なくそう頷こうとして、ふと言葉を詰まらせた。
以前フェリアホが言っていた言葉が、突然脳裏を過ぎったのだ。
“―――私が尊敬するとある御方……”
確かそんなことを言ってた。それからこんな事も………。
“―――クロ君はその御方から、とっくに“危険因子”であると判断されていますよ”
背筋にゾクリと鳥肌が立った。
“―――その上で“シアン殿の子供だから”という理由だけで生かされている”
……まさか、レイルさんが? いや、フェリアホの尊敬する人が一人とは限らない。
だって、レイルさんは昔から俺達に良くしてくれてたし……。
脳裏に過ぎった一抹の不安を俺は振り払おうとした。だけど、ふと一つの事実に行き当たる。
いや違う。俺達じゃない。
レイルさんが仲良くしたり気遣っていたのは、いつも父さんとイヴだけだった。
父さんの頼みで俺に薬を持ってきてくれて、イヴの頼みで俺の誕生日に来てくれて、イヴのする質問には全部答えてくれてた。……―――でも俺は関係ない。昔からレイルさんの事は知ってるけど、俺がレイルさんから何かを教えてもらったことは…………ない。
そう気付いた瞬間、俺は今すぐここから逃げ出したい気分になった。
そうだよ。なんで今迄“俺達”なんて思ってたんだ?
父さんは誰もが知る有名人で偉大な人。そしてイヴはそんな父さんすら一捻りにできる天才だ。
だけど俺は必死で頑張って、……頑張っても足りないことが多すぎて……。だから父さんに嫉妬して、意地張って、それどころかイヴが真面目であろうとする事を邪魔しようとしたりもして……。
なんで俺、イヴや父さんと自分が同じなんて勘違いしてたんだろう? ―――恥ずかしい!
俺が本能的にここから逃げ出す出口に目を向けようとしたとき、ふとレイルさんと目があった。
……怖い。
ふとそんな感覚が湧き上がり、みぞおちのあたりが締め付けられた。
レイルさんはさっきと何一つ変わらない眼差しで俺を見ている。
だけどその裏では、俺のことをどんな思いで見てるんだろ?
―――そうだ。……きっと“化け物”だ。そう思ってるに違いない。
そしていつか俺のことを殺すつもりなんだ。この人は躊躇しない。今までやらなかったのは“父さんの子”だったからで、今こうして口を利いてくれるのは“イヴの前”だから。
だって俺、化け物だから……レイルさんにとって……そしてこの世界にとって、俺はいらない存在。この世界の中で間違った存在。―――駄目だ。早くここから逃げなきゃっ……!
その時の俺は、訳の分からない恐怖と不安に囚われていた。
そして不安は別の不安を呼び、雪だるま算式に恐怖が膨れ上がる。後で考えれば、軽いパニック状態に陥っていたのかもしれない。
だけどその時、ふと俺の脳裏に小さな温かい感情が割り込んできたんだ。
( ―――違う )
俺ははっとして、胸に強く抱えた猫耳の生える黒いボールに目を向けた。
「キヒっ!」
「……キール?」
キールがゴムが擦れるような鳴き声を上げ、腕の中でもぞもぞと身を震わせている。
俺は強張った肩の力を抜き、いつものようにキールの頭をそっと撫でた。
いつも通りの張りのある弾力がホッとする。
キールはまた契約紋を通じて、また俺に訴え掛けてきた。
( ―――クロはキールの特別 いらなくない 間違ってない 逃げないで ずっと一緒にいて )




