事情とか知らないけど ※クロ視点
今回はクロ視点です。
《クロ視点》
イヴ達が寝室に集まって話に盛り上がってきた頃、俺はキールだけを抱きかかえて、そっと部屋を後にした。
イヴとソラリスがお風呂に入っている間に話していた“アビス”の話を二人が聞きたがったからだ。
一度聞いた話に盛り上がることも出来なくて、楽しそうにしてるイヴの隣で白けた顔をしている気にもなれなかった。
月に照らされた森を、俺は得にあてもなく歩いた。
鳥達は寝静まっていて、近くにフクロウ達もいない。虫が鳴くにはまだ少し季節が早いみたいで、風が木々の葉や草を揺らす音だけが響いていた。
静かな森の中を独り歩いていると、昼間、フェリアローシアに言われた事がふと脳裏をよぎる。
―――とっくに“危険因子”であると判断されていますよ。その上で“シアン殿の子供だから”という理由だけで生かされている……。
……だから何だよ。自分がおかしい事なんて、とっくに気付いてたよ。
だって昔はこうじゃなかった。
『―――クロ! 残さず食べないと駄目だよ。大きくなれないんだからね』
『でもおれ、もうお腹いっぱいだよ』
『なら僕がデザートのパンナコッタを食べてあげるね!』
『待て待て、ロゼはもう2個も食べただろ。だけどクロは、もうちょっとだけ頑張ってみようか』
『えー、でもおれ……』
うろ覚えだけど、昔の俺はそんなに食べる事は好きじゃなかった様な気がする。
少し食べれば満足して、満腹という感覚を覚えた。だけど何かの病気で手術をしてから、俺はいくら食べても満腹にならなくなった。
足りない。
足りない、足りない、何でもいいから食べる物が欲しい……。
そんな事ばっかり考える様になった。
だけど父さんは俺が勝手に物を食べない様に、鍵のある部屋に閉じ込めた。
部屋は見た目も気配も、ぼんやりと霧のかかったような何もない部屋。
外に出たいとかはなかったな。
それよりお腹が空いて、駄目だと思いながらも血が出るまで唇や爪を噛みながら、父さんがご飯を持って部屋に入ってくることだけを楽しみに待っていた。
だけど父さんは、たまに何も持たずに部屋にやってくることもあって、その時は言葉に出来ないほどガッカリした。
何も食べる物を持たないで、なんのために来たんだよ? 意味がない。まるで意味がない。何か持ってきてよ。食べるものがないと意味がないよ。父さんだけが来たって……
―――だけどある時、ふと俺は正気に戻ったんだ。
それは口いっぱいに、鉄臭い血の味が広がった時だった。
美味い筈なんかない。だけどそれを飲み干したくてたまらない。肉を噛み千切って呑み下したいけど、肉の弾力のせいで噛み千切れない。―――もっと強く歯を立てなきゃ……そう思った時だった。
『お腹、空いたんだよねぇ。ルドルフから聞いたよ? 可哀想にね、クロ。でもね、イヴやシアンは美味しくないから食べちゃ駄目なの』
イヴやシアンは食べちゃ駄目……。そんな当たり前の事を言われた。そしてそれが当たり前の事だと思いだした俺は、その時自分ががイヴの腕に噛み付いていることに戦慄した。
泣き虫なイヴ。だけどその時のイヴは泣かないで、俺に何気ない未来の話をしたんだ。
『クロがもっと元気になったらね―――クロの為にね、またお腹いっぱいになるお魚のパイ作ってあげるよ』
その時、俺は漸く気付いた。
食べる以外にも、そこに意味はあるんだと。
父さんがよく口にする「頑張れ」という励ましの言葉も、イヴが思い描いただけの未来図も、お腹が膨れることはない。
お腹は大きくならないけど、そこに意味がなくはない……。
そう気付いた俺は、慌ててイヴから離れようとしたけど、強く噛みすぎた顎はなかなか離れなくて、俺は低い呻き声のような物を漏らしてもがいた。
『楽しみにしててね。だから、今だけ我慢して。私もクロやシアンと遊ぶの、楽しみにしてる。クロが良くなるまで、我慢して待ってる……』
イヴはあの後、俺が噛み付いたことを許してくれて今でも変わらず優しく接してくれてる。
だけどこうして夏が近づいて袖の短い服を着るようになると、あの時の傷がうっすらと見えるような気がして、すごい自己嫌悪に陥った。
食うもんじゃない事は分かってる。だけど未だに食えるもんだと思ってる自分が居る。
自分でもそれがおかしいとは思うんだ。―――だからこそ、相談なんて出来るわけ無かった。
嫌われる事が怖かったから。
だけど、それじゃあ逃げてるだけだとフェリアローシアに言われた。
その時言わなきゃと思ったけど、やっぱり言えなかった。父さんは何があっても味方だって言ってくれたけど、それでもどうしても言えなかったんだ……。
「はぁー……」
いつの間にか、俺はカロメノス湖の畔まで来ていた。
少し向こうには、昼間見たテーブルセットも見える。
俺は蛍の舞い飛ぶ暗い湖を見ながら、大きな息を吐いた。……その時、ふと足元の草むらが揺れた。
「ピー」
草むらから出てきたのは、大きなミミズを咥えたハリネズミ。
そのハリネズミは何故か、咥えたミミズを半分に噛み千切ると、その片割れをまるで子供に分け与えようとするかの様に、俺に差し出してきたんだ。
「……くれるの? ありがとう。だけど俺は決めた時間にしか食べないようにしてるんだ。だからこれは君が食べて」
そう言って俺は、未だに動くミミズの半身を指で押し返すと、ハリネズミはあっという間にそれを飲み込み、茂みの方へ去っていった。
俺はそれを見送ると、踵を返してローレンさんの家へ戻ろうと歩き出した。
―――獣達は好きだ。どんな弱者でも捕食者であり、どんな強者でも被食者になり得る。皆が狩って狩られる存在である事を理解していて、それでいてお互いが距離を取って共生してる。……だから、ホッとするんだ。
だけど俺は獣になりたいわけじゃない。
人間じゃないと、イヴや父さんと一緒にいられないから。
だから誰がなんと言おうと俺は人間だ。
―――俺はそこでふと足を止めた。そして考える。
……俺は人間だ。だけど、誰もが認めてくれる人間でいたいなら、俺は俺を管理しきらないといけない。我慢しないといけない。―――フェリアローシアはもしかして、その事を俺に言いたかったのかなぁ……?
フェリアローシアは変な奴だったけど、ローレンさんの仲間だって言うならそんな悪い奴じゃない筈だ。
言い方は癪に障ったけど、俺の事を思ってとも一応言ってたし。
だったら嫌いなんて言っちゃった事……謝るべき、……だよね?
そんな事を考え、後悔と罪悪感で胸がソワソワしてきたその時だった。
湖側の茂みの向こうにチラリと小さな灯りが見え、俺は思わず身を隠した。
魔獣かな? ゴースト系の魔物かも知れない。それか、俺が抜け出したことに気づいた父さんが追ってきた?
何れにせよ、俺にとって有り難くない相手だろうと、俺は見つからない様に息と気配を潜めた。
……こうしてると思い出すけど、前はよくこんな風にイヴと隠れんぼをして遊んでいたな。
相手に気付かれていないなら、完全に気配を消してはいけないんだ。勘のいい相手なら、そこに空白という違和感を感じ取られてしまうからだ。
だから気配は消しきらず、俺は周りの気配に同化する。……そう、さっき会ったハリネズミが餌を探してる時くらいの、小さな小さな気配だけを放っておくと、向こうはこちらを察知しても“人がいる”とは思わない。
そしてそんな些細な気配を、相手は逆に気にしないんだ。いわば、気配の擬態。―――まぁ、これでも十回に一回くらいしか、イヴには隠し通せなかったけどね……。
俺は気配を周囲に同化させたまま、そっと茂みの向こうを覗いた。
「……っ!?」
―――するとそこには、ランプを持ったフェリアローシアと、その額に何故か口をくっつけてるローレンさんがいた。
俺が呆気にとられ、その光景に目を釘付けにさせていると、止まった時が動き出したかのように、突然フェリアローシアが慌てふためき始めた。
「ろ、ローレんっ!? あのっ、嬉しいんですが、今そういうのは……シアン殿に禁止されておりマシて!?」
……そう言えば父さんが、なんかそんなことを言っていた気がする。
だけどそれに対し、ローレンさんは涼しい顔でサラリと返した。
「ん? そんなものバレなければいい。積極的だった昼間とはまるで様子が違うがどうした? 」
「……いえっ、椅子に乗って背伸びでもしなければ、私なんてこんなもので……っ、ローレンこそ“バレなければいい”だなんて、昼間とまるで違いますが!?」
フェリアローシアが顔を押さえながら、息も絶え絶えにぐらぐらとよろめいていると、ローレンさんは優しく教授でもするように言い放った。
「私は外界が長いからな。聖なる森では嘘偽りない正しさが求められたのであろうが、ここでは“嘘も方便”と言うのだ」
え、……ローレンさん……嘘つきだったの……?
駄目だ、なんか俺も頭がぐらぐらしてきた。……信じてたのにっ。
「ふふ。フェリならあんなもの、ただの建前だとすぐ分かると思ったが?」
「えっと……た、建前……ですか?」
「そう。何故なら私は2900年以上もそなたを焦がれ続けていたんだ。だから幾らクールに振る舞おうが、私はフェリに寄り添えているこの時の一分一秒が、苦しい程に名残惜しく、そして舞い上がりそうに愛しくて仕方ない。分かるか?」
そう尋ねるローレンさんに顔を覗き込まれ、フェリアローシアはうっとりとローレンさんを見つめ返すと、嬉しそうに深く頷いた。
「ローレン……。分かります。私も同じ気持ちですから」
……この上なく幸せそうなフェリアローシア。
―――なんかさ。今日の昼間にも、イヴが“俺じゃなくてソラリスと遊ぶ”みたいに言った時も、ちょっとソラリスに腹が立ったんだけどさ。
今はなんか、あの時の比じゃないくらいフェリアローシアに苛つくぞ?
まるで“自分は不幸です”みたいな事を言いながら、世界で一番幸せそうな顔してるし。
「そうですね。例えクロくんと同じ時しか残されていないとしても、こうしてローレンと同じ気持である私は、ずっとずっと幸運なのでしょう。―――本当にクロ君は可哀想です。だから私は、これからもクロ君を生涯彼を支えてあげたいと思います」
「そうか。……頼んだぞ、フェリ」
は? いらないし。俺、なんであいつに同情されなきゃならないんだ? 意味が分からないけど、苛立ちだけは十倍だ。
―――俺、やっぱあいつ嫌いっ。
さっきあいつに謝ろうとか一瞬でも思った事を、俺は今心の底から物凄く後悔してる……!
「さぁフェリ、手を繋いでもう少し歩こう」
「えっ、手を? そ、そんな事をすれば……恥ずかしくて足が竦んでしまいそうです」
「そうか? ならゆっくり歩こうか。―――背伸びなんてしなくても、そのままのフェリが私は一番好きだ」
「ローレン。……私もです」
……ほんとさぁ、あのフェリアホとかいう奴さぁ……
本気で爆発しろよっっっ!!!
それから嬉し恥ずかしそうに、ローレンさんと仲良く手を繋ぎ去っていったフェリアホ。
俺はその影が見えなくなるまで、声に出すことなく“アホぉ”と叫び続けていた。
そして俺はこの日、多分生まれて初めて明確な嫌悪を他人に向けたのだった。




