成長と芽生え ④
クロは視線だけを動かし、フェリアローシアを見た。
好奇心に目を輝かすフェリアローシア。
クロはまたふいっと視線を洗濯物に落とすと再び手を動かし始め、やがて表情を変えることなく、淡々と答えた。
「―――…………。 思うわけないだろ。もう忘れた」
「そうですか。忘れましたか……」
フェリアローシアは手を動かしながら頷く。―――だが、それで話を終わりにはさせなかった。
「しかし私はクロ君の“家族”ではないので、その言葉を信じはしません。ここで“忘れた”と答える事は“忘れなければならないという事を知っている”と同義ですよ」
フェリアローシアは耳打ちでもするようにクロに顔を寄せると、同意を求めるように囁く。
「実は鮮明に覚えているのでしょう? あの味と食欲を」
途端、クロがパシャンと水しぶきを上げて洗い掛けの衣服をバケツに叩きつけた。
そして嫌悪を込めた眼差しでフェリアローシアを睨む。
「―――っ嫌いだ。俺、お前が嫌いだっ」
相手を本気で貶めた事などない子供が、初めて放つ精一杯の悪意は、随分とたどたどしい物だった。
だから何十年もマスターを追い続けたフェリアローシアにとって、そんな未熟な悪意は路傍の小石程も恐ろしくはない。
フェリアローシアはクスリと笑いクロに言う。
「そうですか。でも私はクロ君が好きですよ」
「っ嫌いだって言ってるだろ! 話しかけるなよっ」
懸命に拒絶するクロの言葉を、フェリアローシアは作業の手を止めることなく軽く無視して受け流した。
「クロ君。私は以前、私が尊敬するとある方の行動を見て、一つの真理を学びました。―――無知による暴言は論外ですが、大切だからこそ、戒めの言葉を吐くのだと。例えそれによってどれ程の怒りや恨みを背負おうと、大切な人々が凶事に見舞われた時、無事に乗り越え、その後に笑っていられる事が何より重要なのだと学んだのです」
フェリアローシアは話ながらも、山と積まれた洗濯物をどんどん片付けていく。
一方、クロの手は止まったままだった。
「この世には大きな分岐点がいくつがあり、極限の状況下での二択は、いつだって大切な物を守り切るか、失うかです。そしてその選択を迫られた者の存在が大きければ大きい程、周りに及ぼす影響は計り知れず、あの御方は自身の能力の全てを使い、その分岐点の切り替えや調整を行ったおられましたね」
「だからなんだよっ。そんな人、俺は知らない。―――っ関係ない!」
クロは思わず立ち上がって叫んだが、フェリアローシアは相変わらず落ち着いたまま、クロが耳を疑うような話を続けた。
「でも、クロ君はその御方から、とっくに“危険因子”であると判断されていますよ。その上で“シアン殿の子供だから”という理由だけで生かされている」
俺はフェリアローシアの言葉に、そっと葉を揺らし、俺の根本に意識を向けた。
静かに沈黙するマスターは、俺が何を言わずともこの会話を聞いている筈だ。
だってクロの体質が発覚してから、マスターは先ずシアンに頼まれるまでもなくダンジョンコアを提供した。―――そう。あの鍵のついた寝室だね。
やがてその寝室が使われなくなった頃、マスターは“お守り”という名目で、クロに新たなダンジョンコアをさり気なく持たせた。
そして念押しとばかりに、初回の子供達の失踪事件を期に、シアンに対して“今後も持たせておくべきだ”という意識の刷り込みを計っていた。
シアンはその案件以降、まんまとクロに「お守りを肌見放さず持つ様に」と言い聞かせ始めたが、多分気付いていない。
シアンがクロを見守るのに、マスターが必ずしも手を貸すことはないと言う事に。
既に二度目の失踪で、あれ程の待ちぼうけをくらっていたと云うのに、一体何故気付かないのだろう?
その点、マスターを追い続け理解しようとし続けたフェリアローシアの方が、その辺りのマスターの考えを理解しているようだった。
フェリアローシアは、クロの持ってきた洗濯籠の方も洗い上げながら、不安と怒りに目を見開くクロに笑いかける。
「私はね、今日出会う前からクロ君のことが好きでした。そしてそれは今も変わりません。クロ君のすぐに揺れ動く感情の天秤など正直どうでもいい。嫌われても、私はクロ君にどうしても幸せになって欲しいと願うだけです」
「何で……、意味が分からないよ。俺はフェリアローシアなんかに心配されなくても普通だから!」
クロがそう言い放った時、ふとフェリアローシアの顔から笑顔が消えた。
そして厳しい表情で言い聞かせる様に断言する。
「いいえ。クロ君はその身体に、深い闇へと育つ物を宿しています。今はまだ眠っているでしょうが、ひとたび芽吹けば、先程も言ったように“シアン殿の子”でなければ生きる事を許されない程の深い業です。―――そしてその闇は成長と共に、いつかシアン殿の力でも手に負えなくなる」
「そんな訳ない……父さんは……凄いから……助けてくれる。何とかしてくれるっ。父さんはフェリアローシアなんかよりよっぽど凄いんだぞっ!」
クロはフェリアローシアに懸命に凄んでみせるが、まぁ内容は年齢相応だ。
フェリアローシアは肩を竦め、そんなクロを呆れ混じりに責め立てた。
「ならなぜその食欲を隠すのですか? 生まれ持った欲求は克服なんてできない。ただひたすら限界まで我慢するしかない。なのに何故、忘れた振りなんかしてるのです? いつか我慢できなくなった時は止めて欲しいと相談しておかないと駄目でしょう。それとも何か、できない理由でもあるのですか?」
クロは何も答えなかった。
クロが睨みながら沈黙する中、フェリアローシアは洗い上げた最後の大きなテーブルクロスを絞り、パンと音を響かせて拡げた。
そして真っ白になった大きな布のシワを伸ばしながら、手慣れた様子で持ちやすい大きさに畳んでいく。
いつの間にかフェリアローシアとクロの持ってきた籠の洗濯物の山は、全て洗い終わっていた。
フェリアローシアは最後のテーブルクロスを畳みながら、まっすぐクロを見つめて言った。
「怖くとも、ご自身をもっとよく見詰め、よくよく考えて下さいね。最終的に自分を管理できるのは、自分自身しかいないのですから」
フェリアローシアはそう言うと、よく絞って綺麗にたたみ上げられた洗濯物を抱え、立ち上がった。
そしてクロに「お先に」と挨拶を残し、また小道を戻って行く。
それからクロは暫くの間、フェリアローシアが去っていった森を、睨むように見詰めていた。
◇◇◇
《シアン視点》
「火打ち石なんて初めて使ったわ!」
風呂に水を溜めて竈に火をつけた時、ソラリスちゃんが楽しそうな歓声を上げた。ついでにミックも感心した様に感想を述べる。
「いやー、エンシェント・エルフって言うからには凄い魔法で何でもかんでもやるのかと思ってたら、思いの外質素な生活形態なんすねぇ」
「おぅ。ハイエルフやダークエルフは、無闇に魔法は使わない。縛りある摂理の中で、如何に自身を高められるかを探求しているんだよ。ただまぁ、その気になればカロメノス湖を干上がらせることの出来る魔法も使えるとだけは言っとこうか……」
「ま、マジすか!?」
目を見開いて驚くミックの反応が面白い。
オレは燃え上がった竈を確認して立ち上がり、ソラリスちゃんとミックに声を掛けた。
「じゃ、二人共。ちょっと火の番任せるな。クロがなんだか遅いから、ちょっと様子を見てくるよ」
「は~い」
「任せて!」
オレは家の裏の風呂炊場を後にすると、湖に続く小道を歩き出した。
だが暫くも歩かない森の中で、オレは小道の向こうからとぼとぼと歩いてくるクロを発見した。
オレは小走りに駆け寄りながらクロに声をかける。
「どうした? クロ」
オレがクロに近づくと、不意にクロがオレのボディーにタックルを仕掛けてきた。
「ぉわ!?」
不意を突かれたオレは、バランスを崩して後ろに倒れ込む。だがその衝撃にもクロは離れていかず、それどころかオレの腹にヒッシとしがみついてきた。
クロの不可思議な行動に疑問を感じつつ、オレが上半身を起こす。するとクロは相変わらずオレの腹にくっついたまま、オレの顔を覗き込んできた。
「―――父さん、……俺の事大切?」
……。
…………突然なんだろう。このクソ可愛い質問は。
オレは思わずギュッとクロを抱き返しながらデレデレと答えた。
「ああ、凄い大切だぞ。もう滅っっ茶苦茶大事だ」
だが次の瞬間、クロから突然大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
オレが呆気に取られてクロを見つめていると、クロはとめどなく流れる涙を乱暴に腕で拭いながら、震える声でまたオレに尋ねてきた。
「イヴもっ、俺のこと大切と思ってくれてるかなぁ?」
「うん。勿論大切にしてるよ。決まってるだろ。オレもイヴもクロが大好きだから」
俺はそう言いながら、またぎゅっとクロの肩を抱き寄せた。
無抵抗に腕の中で泣き続けるクロを抱き締めながら、オレはふと考える。
そう言えば、いつぶりだろう? 近頃のクロはこういったスキンシップを嫌っていた。
あまり気にしてなかったけど、そういえばいつからあんなに嫌がるようになったんだろう?
イヴは今年に入ってから、背伸びをする為に急に嫌がるようになったけど、クロはもっと早かった。
いつだっけ? ……あぁ、そうだ。
―――イヴに噛み付いた“あの日”からだ。
オレは大きなしゃっくりを上げて泣き出したクロの背を、トントンと叩きながら、誓いを立てるように言い聞かせた
「なぁクロ。何言われたか知らないが、オレは何時だって、何があってもお前の味方だからな」
「っごめんなさい……」
「うん、いいよ。クロはいい子だな。本当にいい子だ。こんないい子の父親になれて、オレは本当に嬉しいよ」
何を謝ってるのかをクロは言わなかったし、オレも聞かなかった。
だけど例えどんな内容だったとしても、オレの中に“クロを許さない”という選択肢はない。
「大丈夫だ。何をやらかしたって、オレがクロを嫌いになんてならないし、クロを放って行ったりなんて絶対にしない。だってオレは、お前達の“父さん”だから」
オレはクロが泣き止むまで、そっとその背中をさすっていた。
―――だけどその抱擁が、クロの生涯の中でオレとの最後のスキンシップだったなんて、その時のオレはまだ知る由もなかったのだった。
◇◇◇
―――子供達は健やかに成長していた。
そしてその身の内に秘めた闇もまた、ひっそりと大きく育っていたのだった。




