鎮魂祭の奇跡 ①
―――その日。私は約束の手紙を綴りながら、ふと昔の事を思い出していた。
それは今思い返せえば、とても不思議な出来事だったように思う。
だがそれは恐ろしいと言うよりは、私にとってもっと大切な、意図せず天使が舞い降りて救いを与えてくださったような、深く、神聖な出来事であった。
ただこの話を不思議と呼ぶには、私の半生も少し語らなければならないだろう。
◇
私の生まれ落ちた家は、代々カロメノス水上都市を含む広大な土地の管理をしてきた名のある貴族の家系だった。
私も幼少の頃から家督を継ぐべく、先祖に恥じることのない人格と教養を当然の事として身に着けてきた。
母譲りの容姿は端麗と言われ、祖父に似て真面目で公平なる人格者として認識されるようになり、若い頃から社交の場でも一人になる事など無縁に過ごしてきた。
やがて三度目の見合で今の妻と出逢い、19歳で結婚。翌年には第一子に恵まれ、まさに順風満帆なる人生であった。
だが、それから間もなく私の人生は転落していく事になる。
それは、私が担当していたカロメノス湖の景観保全事業の中で、水質浄化力高い真珠貝の養殖に成果が出始めた頃……そして、妻が第二子を身籠った頃であった。
ある日出掛けた社交の場で話題に上がったのが、女性についての話だった。
しかも、妻以外に何人の女性を世話しているかという、少し行儀の悪い話である。
その話によれば皆大抵は二〜三人程、多い者で十数人の女性を囲っているのだという。
勿論浮気などではない。爵位のない酒場や茶屋の娘達に給与を払い、合意の下に情婦となってもらっているのだ。
皆はそんな女性達の話を、酒や博打のような遊び、またはアクセサリーのような装飾品を自慢するような感覚で話をしていた。
そして私が一人もいないと言えば、紹介するとまで言われた。
邸宅に帰った私は、まだあまり腹部の出っ張りの目立たない妻に、冗談めかして話してみた。
――――本妻に対して失礼だろうと、笑い飛ばすつもりだったのだが、妻の反応は思いの外淡白だった。
「女として気分のいい遊びではありませんけど、別にいいんじゃございませんか。皆様もなさってるのでございましょう? 私達女性陣も多忙でストレスの多い殿方達に、そこまで縛る権限はないと心得ておりますよ」
「あぁ、そう……なのか」
妻はただ頷くことしか出来なかった私に、社交での付き合いもあるだろうから、紹介してもらえるなら囲っておけとすら言ってきた。
その時私は、女性というのもなかなか強かで、か弱く縋り引き止めてくるなど幻想だったのだと知った。
それから間もなく、知人に紹介してもらったのが“彼女”だった。
「キャハハッ、なになにぃ? もしかしてアタシに見とれちゃってるぅ?」
ブロンドの髪に空色の瞳。そして血のように真っ赤なルージュを引いた、ライムの香水が香る軽い女だった。
しかし私とはまるで違う世界で生きてきた“彼女”は、私にとって全てが目新しく、心惹かれる存在でもあった。
私は底抜けに明るい“彼女”に、いつもの様に正直に答えた。
「―――……ああ。思わず目を奪われてしまったよ。まるで夏の蒼天の下に輝く向日葵の様だ」
「えっ、花に喩えてくるやつとかホントにいるの? チョー新鮮っ!」
「ははは、相変わらずお前は誰に対しても真面目だなぁ。だが向日葵はいい例えだぞ。なんせこの娘は男の乗り換えが早い事で有名なんだ。気付けば違う方向を向いてるって言うな……」
「ちょっと旦那ぁ、ひっどぉーい」
場に慣れぬ私の失言から、可愛く頬を膨らませる“彼女”と、女性を女性とも扱わぬ物言いの友人の間に、私は慌てて割って入る。
「そ、そうだぞ! 決してそういう意味では無かった! 本当にっ、心から美しいと……」
だが陽気な酒場では、そんな私の必死な物言いは逆に場違いだったようで、周りのメンバーは白けた様に押し黙ってしまった。
そして“彼女”も少し居心地が悪そうに私から目を逸らし、小さな声でポソリと言った。
「あ……うん。ありがと」
それが私と“彼女”の出逢いだった。
まぁ出逢いは多少気まずかったが、“彼女”は遊び慣れていないこんな私を嫌がることなく、私に囲われる事を承諾してくれた。
とは言え、“彼女”を囲い始めてからも、それによって仕事と家庭を疎かにする気はなかったので、私が“彼女”の下を訪れるのは週に一度、数時間程度。
宿屋のテーブルに向かい合って座り、コーヒーを飲みながら、与えた宿や金に不満はないか、体調は悪くないか、それから天気の話なんかをする。
そして“彼女”が相変わらず元気な事を確認すると、私は土産と給金を渡して帰るといった、手を握ることもない逢瀬を重ねる事2ヶ月。
―――ある日突然、私は何故か不機嫌な“彼女”に襲われた。……“彼女”との初めてのキスは、苦い煙草の匂いがした。
それから私達は、会えば体を重ねるようになっていった。
だからといって訪問回数が増えたわけではない。さらに既婚者の私が“彼女”にこんな事をさせているのが申し訳なくて、渡す額面を上げようと提案してみたりもした。
だけど“彼女”は「約束だから」と言って、それを拒んだ。
理解し難かった。何故ならこんな風に囲われる女性達は、皆金の為に囲われているのだろう?
しかし“彼女”は金は勿論、贈り物にも興味を示さなかった。
「また何か買ってきたの? そんな物いいよ。それより早く、時間が勿体ない」
……その代わり、私に対しては戸惑う程に貪欲だった。
―――そんな事をされれば、勘違いしてしまうだろう。
「……その、もしよかったら私の邸宅の離れに住まないか? この安宿よりはよっぽどいい造りなんだ」
「はっ、お断りだね。他の女とイチャコラされんの見せ付けられるくらいなら、ここの便所に住む方が万倍ましだっての」
“彼女”は私を期待させてはいつも裏切る。
そして私は、何度も裏切られては、希望を見せられ続けた。
「え? なに? もしかしてアタシに本気で惚れちゃった? げぇー、駄目駄目ぇー」
「……いや、そ、そんな事は……」
勘違いした事を後悔して、苛立ちに紛れて上着を羽織れば、“彼女”は見送りに起き上がろうとすらせず、ベッドに寝そべったまま煙草の煙を吐いて言った。
「ホントに駄目だよ? カイはお偉いお貴族様。そんカイがアタシみたいな奴に本気になっちゃ駄目。―――本気になるのはアタシだけでいいの」
「……やっぱりあと1時間だけ、ここに居る事にする」
この手の中にあるのに、絶対に掴めないもどかしさ。それが残酷だと感じる程、いつしか私は“彼女”に恋焦がれるようになっていった。
なのに……。
「アタシねぇ、しばらく街を離れようと思うの。だからちょっと纏まったお金が欲しいんだけど」
彼女を囲いだして、まだ一年も経っていないある日のことだった。
軽口にも少し慣れてきた私は、内心驚きながらも笑いながら返した。
「なんだ、新しくいい奴でも出来たのか?」
勿論、そんなことはあり得ないと思っていた。
その頃の私は、確かに“彼女”から愛情を感じていたから。
だが“彼女”は何の悪びれる素振りも無く、笑顔で頷いた。
「そうよ」
「……は……え? 冗談だろう? 酒でも飲んでるのか?」
「飲んでないわよ」
「……はは、……あぁ、煙草を切らしたようだね。買ってこよう」
私は動揺する自分を落ち着ける為、適当な理由で外に出ようとした。
しかし彼女はそんな私を引き止めて言った。
「いらないよ、煙草はもうやめる。それよりお金はくれるの? くれないの?」
……煙草をやめるだと?
匂いがつくからやめろと、いくら私が言っても絶対にやめなかった煙草を。
「それは、その“いい奴”の為なのか?」
なのに、新しい……私じゃない男の為に?
「そうよ」
その答えに、私の胸の内に嫉妬と憎悪が燃え上がるのを感じた。
―――所詮、気の多い下賎で救いようのない情婦の一人でしかなかったのだ。
私は湧き上がる憎しみを隠すことなく“彼女”に冷ややかな視線を投げつけた。
そして懐から小切手を破り取ると、庶民の年俸3年分の額を書き込むと“彼女”の前に投げ落とす。
「勿論やるさ。手切れ金だ。二度と私の前に現れるな」
“彼女”は卑しくもそれを大事そうに拾い上げると、私に言った。
「カイ。愛してるわ」
……白々しい。
心地よかったその言葉が、金を握りしめて言う“彼女”の口から放たれた今、ひたすらに耳障りであった。
「それを持ってどこへでも行ってしまえ」
そう言い放ち宿屋を後にした私は、路地のゴミ箱を蹴飛ばしながら歩いた。涙など出ない。いや、出してやるのも惜しい程に“彼女”が憎かった。
そして“彼女”を一人置いて出てきた事を、その時の私は欠片の後悔もしなかった。
―――何故なら私は知らなかった。
私が勝手に新しい男だと思い込んだ“いい人”というのが、まさか“彼女”のお腹に宿った、私の子供だったなんて。




