歴史を巡る旅 ーカロメノス水上都市⑧ー
―――その日、カイロン・フォン・ファイブズを当主に置く侯爵邸に、一つの報せが舞い込んできた。
「侯爵様! カイロン様っっ!!」
「ダイス……、一体何だ騒々しい」
ダイスと呼ばれたのは、代々ファイブズ家に仕えてきた今年で50歳になる初老の男だ。普段は絶対に声を荒げることなどない寡黙な男なのだが、その日は息も切れ切れにカイロンの執務室に駆け込んできたのだった。
「はっ、はい! それが、緊急の来客にございます!」
ダイスの声で、広い執務室の机に座った男の眉間に皺が寄る。
上質なスーツを細身の身体にカッチリと着込み、ダイスと同年代にも関わらず、倍は顔に皺を刻み込んだ厳格を絵に描いたような男。その男こそが、ソラリスの実父カイロン本人であった。
カイロンは苛立たしげにダイスに言い放つ。
「緊急? 私が誰か知っているだろう。どこのどいつか知らんが、なんの紹介状もアポも無しに私が会うと思っているのか。お引き取り願え」
だがダイスはカイロンの意向に反し、詰まり詰まり言葉を紡ぐ。
「いえ、しかし……その者が“ノルマンのシアン”と名乗っておりまして……」
途端、カイロンの目が大きく開かれ、勢いよく顔を上げると信じられないとでも言うようにダイスに迫った。
「……シアン…………っシアンだと!!? 魔法大国ノルマンの生きる伝説と言われるあのシアンか!!!」
「は、はいっ!」
怒鳴り声のようなその勢いにダイスが震えながら答えると、カイロンは頭を抱えぶつぶつと呟き始める。
「―――何という事だ……商会の方から、近くに来ているかもしれないという噂は耳にしていたが、まさか我が屋敷に? 本当に……」
「……あの、それで如何致しましょう?」
ダイスがソワソワとしながらカイロンに指示を仰ぐと、カイロンは音を立てて立ち上がり、怒鳴るように指示を出した。
「如何も何もないわ。本物だとすれば待たせるわけにはいかん。すぐに行くと伝えろ。それから来訪の要件は訊いているのか?」
「は、はいっ。ファイブズ家の息女を……ソラリス様をシアン殿の旅に同行させたいそうでその許可をと……」
ダイスの言葉に、喜色すら浮かべていたカイロンの表情が途端に曇る。
そして舌打ちすらしながら、忌々しげに吐き捨てた。
「……ソラリスだと? 何故あんな奴を……」
―――貴族はその血筋を重んじる。婚姻は貴族同士でしか結ぶことが出来ず、それ以外との結婚となれば、家を出て爵位を捨てるしかない。とにかく外から血を入れることを嫌うのだった。
そんな風習の中で現れたソラリス。
本来なら引き取ることなどあり得ないのが常識だった。
だがソラリスの母は、自身が病気でもう何年も生きられないと悟った時、その制度に異議の声を上げた。
“―――貴族の血筋であるのに、多少の混じり気があるからと言って、貴族より有能なスキルを持った子が迎え入れられないのはおかしい。それでもそうだと言い張るなら、貴族の血が平民より劣っているという事実の証明に他ならない。”
ソラリスの母の訴えは一般世論を変えるには至らず、彼女は好奇と侮蔑、それから嫌悪といった衆目を受けながら血を吐いて死んでいった。
だが彼女が死んだ後に、貴族達はそんな彼女へ向けていた侮蔑と好奇の目を、もう一人の当事者カイロンへと向け始めたのだ。
社交界であからさまに向けられるその視線と囁きに、カイロンはとうとうソラリスを“慈善的救済”の名目で保護し、育てる事に決めた。
しかしカイロンにとってソラリスという存在は、己の撒いた種とはいえ最大の汚点にして恥、そして不義の証なのであった。
カイロンはギシリと音がなる程歯を噛みしめると、静かに湧き上がる怒りを収め、執務室を後にしたのだった。
◇◇◇
一方、豪華な客室に通されたシアン達は長椅子に掛けていた。
イヴとクロは出されたジュースや菓子に手を付けず、そのきらびやかな部屋を珍しげにキョロキョロと見回している。
そしてソラとミックは座ろうとすらせず、ソファーの隣に俯いて立っていた。
そんな誰も声を立てない静かな時間が続いていたが、やがてカチャリと扉が開き、豪華なジャケットを羽織ったカイロンが社交的な笑顔を浮かべ部屋に入ってきた。
「やあ、これはこれはシアン殿。ファイブズ家当主、カイロン・フォン・ファイブズです」
カイロンはそう言って胸に手を当て敬礼すると、懐から名刺を取り出してシアンに差し出した。
シアンも同じ仕草で敬礼を返すと、名刺ではないものの冒険者ライセンスを取り出し、カイロンに差し出す。
「お初にお目に掛かりますファイブズ侯爵。突然の訪問なのに、快く門戸を開いて下さり有難うございます」
この名刺交換のような流れは、貴族間での礼儀の一つであった。
初見の者同士が互いに身元を確認し合う。今回の様な突然の来訪では常識的マナーであった。
カイロンは「ほぅ!」と声を洩らし、大きくS級の文字が書き込まれたライセンスを眺めると、それをシアンに返しながら握手を求める様に手を差し出した。
「噂はかねがね耳に入っております。一国の王とて頭を垂れる程の実力と人脈をお持ちだとも言われる英雄殿が、わざわざこのファイブズ家を訪ねていただけるなど光栄にございます」
シアンも返されたライセンスを仕舞うと、差し出された手を取りながら笑顔で返した。
「なんの。噂などどうせ尾ひれ背びれのついたもの。宛てになどせず、どうぞいち旅人として接していただければ幸いです」
「はっは、これはまた謙虚な」
そんな風に、カイロンとシアンの会話は和やかに始まった。
カイロンはシアンの向かいに座り、子供達やシアンに菓子や飲み物を勧めた。しかし子供達の隣で、空気の様に沈黙して佇むソラリスとミックには茶の準備どころか席に座れとさえ言う事なく一瞥だけをくれ、視線を逸らすとまたシアンに尋ねかけた。
「―――それで、一体なぜソラリスを?」
「いや、実は私には二人の子供がおりましてね。イヴとクワトロというんですが、生まれてこの年になるまで、ずっとジャック・グラウンドの深層で育ててきたのです」
出された珈琲に手を付けることなく、親しげに話をするシアン。子供達もシアンに倣って菓子に手を付けることはしない。
カイロンはそんな細やかな警戒心には気づかず、髭を撫でながら感嘆の声を上げる。
「ほぅ、ジャック・グラウンドで……それは凄いですな。あの大陸に踏み入るには冒険者ランクC級……深層ともなればB級の実力が必要と聞きます。まぁシアン殿がS級なので問題はないのでしょうが」
「ええ、森での生活は気楽にやっていました。ただお恥ずかしい話、おかげで人里での一般常識をあまり教えることが出来ておらず、是非ファイブズ家のソラリス殿にその点のご助力を頂けないかと思った次第です」
「なる程。それで同行をと」
そう言って珈琲をすするカイロンに、シアンは身を乗り出して食い気味に提案した。
「はい。勿論御家に負担を強いるつもりはありません。旅費に関する出費はこちらが全て負担しますし、高名なファイブズ家の御息女であるソラリス殿が侯爵家で学ぶであろう基礎学問や作法に関しては、旅の間に私が手ずから指導をさせて頂くつもりです」
「シアン殿手ずから……それはなんと……」
シアンはこう見えて、世界の頭脳が集まる場所と言われるノルマン学園都市の最高クラスの教授にして、正教会出身ということで礼儀作法や説法については教える立場にある。冒険者ランクS級ライセンス所持者ということで実戦や戦略に於いて横に出るものはなく、騎士の嗜みである馬術に至っては、獣王と契約する程に獣の扱いにも長けているのである。
因みに、そんなシアンか自分の中で一番の得意分野と考えているのが、料理をはじめとする家事全般だった。
そう、一言で言えば超人。それでいて無欲で奢ろうとしない、ある意味掴み所のない完璧超人。
シアンの気持ちさえ動かなければ、いくら金を積んだところで教義を与えてくれる様な相手ではなかった。
そんなシアンが今、人の良さそうな笑顔を浮かべながらカイロンに請い願ってきているのだ。
「どうでしょう? ソラリス殿の同行許可を頂けませんか?」
カイロンは目を閉じ、もったいぶる様に沈黙した後、カチャリとカップをソーサーに置いた。
そして眉を下げて申し訳なさげに言った。
「―――許可出来ませんな」




