……え、早くない?
シアンは二人から刺されそうな視線を受けながら、気まずそうに笑う。
「ま、そんな訳だ。今月中には申請出すから」
「……今月中……もう十日も無いじゃないですか。休暇で何をなされるんです?」
溜息を吐くロロノアに、シアンはにっと笑った。
「家族旅行だよ。ちょっと世界一周旅行でもしようかと。そんでその後ノルマン本校へ復帰するつもりだ」
「“ちょっと”のスケールが大きいですねえ。じゃあ魔境にはもう戻られないという事ですか」
“尊敬する人は?”と尋ねられれば“シアン教授”と即答するロロノアが、そう言って肩を落とす。
そしてジェムは鬼気迫る勢いでシアンに詰め寄った。
「俺も連れてって欲しいス! じゃないと餓死するス!!」
「だから自炊しろ」
そうして大人達がやいやいと話をしてる間に、クロは少し離れたところでキールとラーガに鈴の音を聞かせて、静かにしていた。
こういう所は、クロは“大人達に都合の良い大人しい子”だった。―――だからまぁ、皆はクロについてよく勘違いをしてしまうのだった。
◆
やがてロロノアに業務を、ジェムにだしのとり方を引き継ぐ事に話が纏まり、シアン達はロロノアのハウスを後にした。
そして階段を下っていると、ぽつりとクロがシアンに声を掛けた。
「父さん、俺ね。今日森で新しい友達が出来たんだ。金頭鷲のゴールディと、銀頭鷲のシルバって言うんだけど」
「へぇ良かったな! ……ていうかそれ、聖獣だろ。ロロノア達が知ったら狂喜するぞ」
「友達は見世物じゃない。研究なんかには絶対に使わせないよ」
「そ、そうか。冷静な判断だな」
クロに睨まれ、シアンは失言でしたと頭を掻いた。
また『友達は見世物じゃない』とは、クロの好きな童話【ウィルとエメラルドドラゴンの大冒険】に出てくる主人公ウィルの決め台詞の一つだった。
そしてクロはキールを一層強く抱きかかえ、俯いたまま尋ねる。
「……俺達、遠くに行くの?」
「……」
それは、普段あまり自分の意見を言わないクロの、切実な願の籠もった抗議だった。
だけどこういう時、たいてい子供の意見は通らない。
「うん。帰ってきたらイヴにも話す。来年からオレの仕事先の学校でイヴとクロは入学する。それまでに、世界を見て視野を広げておいた方がいい」
「でも、ここの方がきっと楽しいし、ここでだって勉強も出来るし……」
「ま、取り敢えずイヴにも話してみよう。な?」
「……うん」
クロは何かに耐えるように頷いた。
◇◇◇
「旅行!? 行く行く! 行きたい!!」
ガラムに付き添われ帰ってきたイヴは、シアンの提案に両手を上げて即答した。
「まぁ、イヴならそう言うと思った」
そう言って笑うシアンとは対象に、クロの表情は暗く沈んでいた。
「お姉さんになったら、格好いい制服を着て学校に行くんだよね! 私もう大きいから、きっと制服も似合うよ! 楽しみだねぇクロ!」
「うん」
楽しそうに跳ね回るイヴに、クロは口を挟むことなく頷いた。
だけどクロの反応に、ふとイヴが跳ねるのを止める。
「どうしたの、クロ? 楽しみなのに元気ないね? お腹痛いの?」
「痛くないよ。大丈夫」
「じゃあ、どうしてしょんぼりしてるの?」
イヴがクロを覗き込むようにしてそう尋ねると、クロは小さな声で観念したように言った。
「森の獣達とお別れになる。きっと皆悲しむ……だから、喜んじゃ駄目な気がするんだ」
「……」
尚も表情を変えずじっと覗き込むイヴ。クロはそれに気付き、慌てて手を振った。
「あ、でも別に行きたくないわけじゃないんだ! イヴが楽しそうなのは見てると俺も嬉しいし、イヴに行かないでとか言わないし、俺は残るなんてことも言わないから……」
クロの言い訳の様なその早口に、イヴはふうと息を吐くと何処か得意気にニヤリと笑った。
「全くクロは寂しがり屋なんだからぁ。『駄目な気がする』なんて言って、本当は自分が寂しくて怖いんでしょ。んふふー、しょうがないからお姉さんな私が慰めてあげるよ。ちょっとこれから二人で出かけよう!」
「なぬ!?」
「え!?」
イヴの提案に、ガラムとシアンが同時に声を上げた。
だけどクロは困った様に笑う。
「ありがとうイヴ。行きたいけど、俺これからガラムさんにガレット・デ・ロワを教えてもらう約束してるんだ」
ガラムの肩がピクリと揺れる。
そしてイヴが少し悲しそうな顔でガラムに尋ねた。
「―――そうなの? ガラム叔父さん」
「……。……いや。―――そ、それが……今気付いたんだが、バターを忘れて来てしまってな。今日は作れなくなったんだ。クロ、作ルノハ、マタ今度ニシナイカ?」
「そうなの? 父さんバターのストック無かったっけ?」
「ナイ!」
シアンも即答した。
クロは訝しげにしつつも肩を落としイヴに言う。
「なんか駄目になったみたい。やっぱり一緒に行っていい?」
「いいよ! 行こう! あ、シアン。ルドルフ貸してくれる?」
「いいぞー。おやつまでには帰って来いよ」
「うん!」
イヴは元気に頷くと、キールを抱えたクロの手を引いた。
クロが引かれるがまま歩きながら尋ねる。
「どこ行くの?」
「デートだよ」
「「!!?」」
「“デート”って何処?」
「場所じゃないよ。リリーがね『大好きな人と出掛ける事をそういうんだ』って言ってた」
「ふーん?」
シアンとガラムが唖然と見守る中扉は閉まり、そして間もなく窓の外が燃えるように輝いたかと思うと、背にイヴとキールを抱くクロを乗せたルドルフが空へ駆け上がった。
そしてその影が空の彼方へと消える迄見送った後、シアンがポツリという。
「……リリーの奴……なんて事を教えてるんだ。アイツ等まだ8歳だぞ? 8歳ったらオレなんて、初めて友達(人外♂)が出来て喜んでた頃だよ」
「……まぁ、子供の言う事だ。おそらく意味だって分かってないだろう。気にする事では無い」
ガラムが手に持った籠から、普通にバターを取り出しながら言った。
するとシアンの頭の上でじっと沈黙を守り傍観していたロゼが、目を見開いて声を上げる。
「ガラム! いつの間に【創造の魔法】を覚えたの!?」
「……あ、いえ。その実は忘れていなかっただけです。つまり先程の言葉は【嘘】で御座います」
人を疑うことを知らないロゼは、クワッと目を見開いてガラムを見つめた。
シアンは暗黙の了解で、小麦粉や砂糖の準備をしながらロゼを宥めた。
「まぁ、そんなんで『もう誰も信じられない』とか言わないでくれよ? 優しい嘘なら吐いていい時もあるんだ。……それよかラーガはクロ達と行かなくてよかったのか? ラーガなら普通に空を走れるだろ?」
「ワン」
「いや、ワンじゃなくて」
「……ふ、我等が空を駆ける事等余裕だが【スノーウルフ】の子供であれば無理であろう? 我等は己の立場を弁えている」
ラーガはシアンの問いかけに普通に答え、スノーウルフの亜種を貫き通す宣言をした。
まぁかく言う俺も【ただの樹】を貫き通している訳だから、ここはラーガを応援せずには居られないというもの。―――頑張れラーガ! 一緒に行きたかったのに、よく我慢したね!
ラーガはそのまま床に座り、本当に犬の様に欠伸すると丸まって鼻を鳴らした。
「それにクロの状態やある程度の位置は【契約紋】を通じ、リアルタイムで分かる。まぁ獣王も付いてあるし、問題無かろ」
シアンは「なる程」と頷き、またガラムに声を掛ける。
「ああ、そうだ叔父さん。例の手紙にあった【転移者】の件について、今晩少し皆に集まってもらいたいと思ってるんですが、叔父さんは空いてますか?」
「あぁ、問題無い」
そう答え、バターをボールに移して木のヘラで捏ね始めたガラムを見て、シアンは尋ねた。
「ありがとうございます。―――あの、何か手伝う事はありませんか?」
「ん? あぁなら……―――」
だがガラムは途中で答えを濁した。
シアンの頭上から、自分に向けられたロゼの寂しそうな視線を感じたからだ。
そしてガラムは、一息の間ほど逡巡して答えた。
「―――なら、ロゼ様と何かベリー系のフルーツを採って来てもらえんか? 飾り用だから、おやつの時間迄に戻ってきてくれれば良い。ただ、後のドライフルーツケーキにも使いたいから、たくさんある方がいい」
「はい! 分かりましたか。じゃ、行こうかロゼ」
「えー、僕も? まったくガラムは妖精使いが荒いなぁ」
「申し訳御座いません。後ほどフルーツ増し増しでケーキを納めさせて頂きますゆえ」
「約束だよ! 嘘だったら一時間くらい口きいてあげないからね!」
そしてシアンとロゼもまた、扉の向こうへと消えて行った。
―――だが、その扉が閉まる最後の瞬間に見えたロゼの表情は、この俺が嫉妬するほどに輝いていたのだった。




