少年の微笑ましい願い。それは……
そして漸くクロの鳴らす鈴の音が途絶えた頃、シアンは革紐で胴に留めた小さなバッグから、キラキラと色とりどりに輝く砂の入った小瓶を取り出した。
まあ当然、小瓶の中の砂は唯の砂ではない。
それは、一つ一つが、高純度の魔石の粒なのである。
シアンは慣れた手付きで小瓶の蓋を開けると、小瓶を傾けて軽く振る。
すると小瓶の中からたったひと粒だけ、シアンのもう片方の手の中に転がり出てきた。
シアンはまたしっかりと瓶に蓋をして、取り出した一粒の魔石をクロに差し出した。
「魔石を使っての解体、自分でしてみるか?」
「うん!」
シアンの提案に、クロは満面の笑みで頷いた。
とは言え、頭を落とされたその猪はまだゆうに80キロを超える立派な物だ。
クロは今迄シアンと一緒に解体作業をした事はあったが、一人でやるのはこれが初めてだった。
シアンは魔石をクロに渡しながら、神妙な面持ちで言う。
「いいか、クロ。魔法を使うにあたって、使っていいマナは魔石に保有されてるマナだけだぞ」
「うん、自分のマナは使わない。分かってるよ! キールやラーガのご飯がなくなっちゃったら大変だからだよね」
「……うん! その通りだ!」
シアンは力強く頷いた。
因みにシアンがクロにこのルールを設けたのは、実はもう一つの理由がある。
まず、一般的に人間が体内に保有するマナは、多くても平均100MP程度だ。だがこの3年の間、クロの持ちマナは既に11万MPを超えてしまっている。
これがまかり間違って暴走でもしようものなら、当然シアンの手に負えない。
そこで苦肉の策としてシアンはクロに“大切な相棒達の為に、持ちマナは残しておいてあげよう”と、説明を行ったのだった。
まぁ、大人の事情というものである。
シアンから魔石を受け取ったクロは、次に真剣な面持ちで地面にカリカリと魔法陣を描き始めた。
クロが得意とするのは【水】の魔法。変幻自在の流動の魔法だった。
描き上がった魔法陣に、魔石を置くと魔法陣に光が走り、魔法が発動する。
魔法陣の上に、空気中から水が滲み出してくる。クロはその魔法にかかった水が、地面に滴り落ちる前に命令を出した。
「【回転】!」
クロは指を回し、滲む水はクロの指にすくいあげられるように浮かび上がると、くるくると回転を始める。
その様子を見て、シアンが満足げに笑った。
「中級魔法【水のナイフ】か。クロも随分魔法の扱いも慣れてきたな」
その言葉に、どこか得意げにコクリと頷くクロ。
そして間もなく、クロの指先には水で形作られた直径10センチ程の薄い円盤が姿を成した。
クロがそっと指先の水の円盤を猪に添え当てると、円盤は霧のように細かい飛沫を上げながら、スッパリと猪の胸を切り裂いた。
サクサクと迷いのない手付きで解体されていく様子に、シアンは感心したように声を上げる。
「うん、相変わらずだが上手いなあ。刃の入れ方では注意する箇所がない。クロは始めから動物の体の仕組みをよく理解してたよな。図鑑を繰り返し見てたからか?」
「ううん、図鑑は生体の事しか書いてないよ。獣達の体の仕組みは、ジョーイさんに教えてもらったんだ」
手元から目を逸らさずそう答えたクロに、シアンは首を傾げた。
「……女医さんは獣が苦手じゃなかったか? 魔獣ならザクザク解剖するのに、動物となれば未だハムスターすら触れない、筋金入りの“動物嫌い”で有名だぞ」
「父さん知らないの? ジョーイさんは昔、獣医さんのお友達が居たんだ。触れないだけで、知識は凄いんだよ。―――この前だって、腸閉塞を起こした山猫を見つけたんだ。ジョーイさんに見せたら『貴方が切りなさい。その子を助けたいなら』って、言われたんだ」
「……ちょうへ……?」
「腸閉塞だよ! 俺、助けたかったから代理執刀をしたんだけど、部位も手順も全部教えてくれたんだよ」
誇らしげに思い出を語るクロに、シアンは顔を引き攣らせながらぽそりと突っ込む。
「……いや……女医さんは一体、子供相手に何を教えてるんだ……?」
……だけどまあ、俺から言わせれば八歳の子供に魔石を与え、80キロを超える猪の解体を一人でさせているシアンも似たような物だと思う。
「出来た!」
そうこうしている内に、猪はクロの手によって綺麗に解体された。
シアンはぽんとクロの頭を叩き、上手く解体を終わらせたクロを褒めあげる。
「オーケー、完璧だな! じゃ、先にベーコン用の漬けダレに肉を漬けとくか。内臓部位の洗浄は、馴染ませてる間にするからな」
「うん!」
それからクロがシアンに教えられながら、香草をブレンドさせた塩ダレを作っていると、キールが茂みを掻き分けて転がり出てきた。
「キッヒィ!」
どこか得意げにそう声を上げたキール。シアンがふと顔を上げ、声を掛ける。
「あれ、キール。今までどこ行ってた? クロと一緒じゃなかったのか?」
「ッキヒ!?」
自分が居なくなってた事に気付いて貰えていなかったキールが、悲痛な声を上げた。
―――思い返せば3年前、この森の中でキールの存在を巡ってちょっとした大波乱が起きた。
そしてその事件以来、キールの身体にはラーガとその他たまご達により結界を内外に重ね掛けされ、今やキールは絶対防御を誇る、完全無害の癒やし系キャラとなっていた。
その絶対防御力の高さと言えば、イヴがキールでサッカーやドッヂボールをしてもノーダメージと言えば分かりやすいだろうか。
ただその防御力の高さに加え、幸運のドラゴンに授けられた【幸運値:+1000】によって保証された安全さから、キールの扱いは最近では結構雑になりつつあった。……慣れとは恐ろしい物である。
クロが完成したタレの味見をしながら、シアンに言う。
「ほら父さん、あの時だよ。樹の下で猪が父さんの方に向かった時、キールは跳ね飛ばされちゃってたでしょ」
「……それ、結構前だぞ?」
「俺も遅いから迷子になったのかと思って、探しに行こうかとしたんだ。だけど、キールに契約紋を通して語りかけたら『散歩してるだけで、道に迷ったりとかしてないから!』って断られて……」
「……迷ってたな。だからさっきあんなにドヤ顔で帰ってきたのか……。うん、頑張ったな! キール、凄いぞ!」
「キヒィ!!」
シアンに褒められ、キールはまた嬉しそうに転がった。
同時に、クロも漬けダレの入ったボールを掲げ、元気な声を上げる。
「父さんタレが出来たよ!」
「オッケー、いいだろ。しかしクロはもう、オレの定番レシピの半分はマスターしたんじゃないか? 頑張るなぁ」
タレの味見をしたシアンが、しみじみとクロを褒めた。だけどクロはじっとシアンを見つめた後、首を振った。
「まだ半分だよ。定番以外のもまだあるんでしょ? 全部教えて貰うんだからね」
「い、いいけど、お前いつの間にそんな料理好きになったんだ? 午後からガラム叔父さんに、お菓子かなんか教えてもらう約束もしてただろ」
「うん。でも別に料理はそんな好きじゃないよ。俺キールやラーガと遊んでる方が全然好きだし、俺的には御飯なんて質より量が重要だと思ってるから……」
「!?」
思わぬ返しに、シアンが目を見開いてクロを見る。
クロは慎重に肉をタレに漬け込みながら答えた。
「俺が好きなのは獣達だよ。ロロノアさん達と獣達の話をするのも楽しい。だけど一番は、やっぱり本物と一緒にいる事かな。そんな獣達は料理なんかしないし、してあげたとしても、ちょっとした味の変化はあまり気にしない。そもそもそんなんに時間かけるより、ぱぱっと食べてその分遊ぶほうが、体力も付くし有意義だよ」
若干8歳にして、この世界では取り分け取得困難なスキルである【シェフ:lv1】を手にしたクロが言い放ったのは、料理人への冒涜とも取れる、元も子もない見解。
その予想外の言葉に、シアンは唖然としながらクロに声をかけた。
「―――何故だ? じゃあ……何故、お前は包丁を握る……?」
……動揺のせいか、まるで熱血料理漫画の師匠のセリフのようになっている。
手際よく作業を終えたクロは手を拭い、そしてキールを抱き上げると輝く笑顔をシアンに向けて言った。
「うん。イヴがね、前に『俺と父さんどっちも大好き』って言ったんだ。―――今で同じなら、もし俺が父さんより料理が上手になれば、きっと『俺の方が大好き』になるだろうと思って」
「……。…………え?」
それは、父を超えてやるという宣戦布告。またの名を下剋上。
「俺、イヴの一番になりたいんだ!」
無邪気にそう笑ったクロの願いに、シアンは絶句した。
◆◆
――――そして、遠く離れた森の中。
かくいう俺も絶句していた。……いや、もともとそんな喋ってはなかったけれど。
いやだって、クロはその一見微笑ましい“願い”の意味を理解しているのだろうか?
“イヴの一番になる”
それは数千年の時を経て、神々の試練に打ち勝った英雄の持つ、信頼と憧憬を超えようという意味。
そして―――……。
俺は暫し遠くの大陸をじっと見据え、静かに呟いた。
「……いいだろう。―――かかってきなさい、クロ」
と、その時ふと俺の根元から、刺すような鋭い視線を感じた。
静かなる闘志を燃やしていた俺は、敢えてそちらを見ないように努めたんだけど、その視線の主は今日に限って俺に声を掛けてくれた。
「子供相手に何を言ってるんですか?」
……うん。そうだね。
―――その通りだよね。
ラスボス「…………(そよそよそよそよ……)」
マスター「本当に、……クロ君が可哀想だなと思いますよ」




