ある春の日の朝
―――シアン達がキールを家族として迎え入れ、三年の歳月が経った。
季節は春。
イヴとクロは八歳になり、その面持ちから幼稚さはすっかり抜け、少年少女と呼ぶにふさわしい姿に成長していた。
あの日生まれたフェンリルは、クロにラーガと名付けられ、ハウスの者達にはスノーウルフの亜種と言う事で紹介されていた。
……実際、色は兎も角“双頭の狼”と言う事で、完全に別種であるだろう事に住民達は気付いていたようだが、これまでシアンが築き上げてきた信頼関係により、彼等は「そういう事もあるさ」と笑いながら、思いの外すんなりと受け入れた。
その他にこの3年で変わったことと言えば、ジルがノルマンに帰り、代わりにロロノアの後輩として、ジェムと言う若い学者がやって来た事くらいだろうか。
そう。この三年は、取筆すべきことのない穏やかな日々が、ゆっくりと流れていたのだった。
◆
いつも通りの朝。
窓から差し込んだ光が壁に映る様な明朝に、彼等のハウスからは既に賑やかな声が上がっていた。
「おーい、誰かぁ! 皿持ってきてくれ。薄いやつな!」
「持ってきてるよ、父さん」
平たい4枚の大皿を既に抱えていたクロが、シアンの声に即答した。
「サンキューな! そこ置いといてくれ」
「うん。他になにか手伝うことある?」
「じゃ、焼けたホットサンド切って盛り付けておいてくれるか?」
「うん、いいよ」
クロは素直に答えると、包丁を取り出し、危なげのない手付きでホットサンドを切っていく。
3年の月日は、クロに器用さと聡明さを与えていた。
その時、二人の背後から元気な声が上がる。
「シアン! 見て! ミルクの準備しておいたよっ!」
胸を張って得意げにテーブルを指差すイヴだった。
また、テーブルの上にはミルクの入ったカップが3つ用意されている。……その周りには溢したミルクを雑にふき取った跡が付いているが、それはご愛嬌だ。
シアンとクロはそんなイヴを微笑ましげに振り返り、頷いた。
「ありがとうな、凄い助かるよ」
「ありがとうイヴ。俺、ミルクって大好きなんだ」
二人に感謝され、イヴは鼻高々だ。
そして高々ついでに、イヴはクロに指摘を入れる。
「フフン、クロはいつまで経ってもミルクが好きだものね。多めに入れておいたよ! ……だけどミルクくらいならいいけど、クロもそろそろ大きくなってきたんだから“シアン”って呼んだら? “父ちゃん”を“父さん”に呼び方を変えるくらいなら“シアン”にしなさいよ」
クロはキョトンとして、ホットサンドをキレイに盛り付けた皿を運びながら答える。
「父ちゃんは流石に子供っぽかったけど、今更そうは変えれないよ。違和感あり過ぎる」
「駄目よ。変えなさい!」
「なんで?」
「……っ、……だって……クロばっかりずるいもん」
頬を膨らませながら、心底悔しげにそういったイヴを見て、シアンは口元を押さえて蹲った。
クロとイヴはいつもの事だと、最早気にも止めない。
「だったらイヴも“父さん”て呼んだら? 父さんは別に怒らないと思うよ?」
「―――ックロのバカッ! 今更恥ずかし過ぎて出来るわけ無いでしょ!?」
「ゴフッ」
とうとうシアンは蒸せこんだ。
クロは振り返り、苦しげに蒸せこむシアンを冷めた目でじっと見つめ、落ち着いた声で言った。
「父さん、この後イヴはガラム大叔父さんの所に稽古に行くんだから早くしてよ。ロゼの分は出来てる?」
「あ、うん、今出来たよ。フルーツサンド……」
淡々としたクロの口調に、心なし灰化したシアンがすっと小さなサンドイッチの乗ったトレーを差し出した。
クロは頷き、部屋の片隅に腰を下ろしていたラーガに声を掛けた。
「ラーガ、ロゼとキールを起こしてきてくれる?」
「ワフ!」
ラーガは一度そう吠えると、尻尾を振りながら部屋を出て行く。
シアンはそんなラーガの後ろ姿と、当たり前にラーガに雑用を頼むクロをチラチラとみやりながら、少し青褪めていた。
ラーガは今、中型成犬程の大きさとなっている。
本来のラーガはもっともっと大きいのだが、ラーガが入っていた卵の殻が孵化と共に変形し、今は左後ろ足首にリングとなって装着され、そのリングがその身に秘めた色々な物を抑え込ませていた。
間もなくラーガは、頭に寝ぼけてだるそうなロゼを乗せ、口にダレるキールを咥えて戻ってきた。
「ふぁ……なに、朝御飯はフルーツサンド? 僕、フルーツサンドにはちょっと煩いからね」
隠す事なく大欠伸をしたロゼは、ラーガの頭の上からチラリとテーブルを見て、そんな事を言っていた。
因みにこのロゼ、そんな辛口批評をすると事前に警告しておきながら、未だかつて大絶賛以外の評価をした事がない。
そしてシアンはいつも、その美味しそうにサンドイッチを頬張るロゼに、癒され続けていた。
やがてみんなが席につき、クロがキールを膝に乗せたところでシアン達は声を揃え言った。
「「「「いただきます」」」」
そこにあるのは、何ら特別なことなんて無い食事風景。
キールとラーガは、クロとマナを共有という形で食事をする為、食事の準備はされてないが、その様子を楽しそうに眺めている。
それにふと気付いたクロは、そんなキールとラーガはの頭を撫で、笑いかけた。
「イヴを見送ったら、禊の鈴を鳴らしてあげるからちょっと待っててね」
「キヒッ!」
「ワフ!」
ラーガはブンブンとと尻尾を振った。
禊の鈴は、朝昼夕方夜の4回、まだ生まれていないたまご達とラーガ、そしてキールに向けて鳴らされる。
クロの奏でるその澄んだ音は、キールとラーガは勿論、野生の獣達すら魅了した。
ふとシアンが、ホットサンドを食べるイヴに声を掛けた。
「今日は叔父さんとの訓練は何をするんだ?」
「今日? マナ操作の練習だよ。先生に手伝ってもらうの。お昼ごはんは作ってくれるって言ってるけど、食べてすぐ帰ってくるね」
「そうなのか。分かった。―――マナ操作って、新しい魔法でも教えてもらってるのか?」
シアンが感心したように尋ねると、イヴは首を横に振った。
「ううん、魔法ならもう自分で作れる。言ったでしょ? 【マナ操作】だよ。前までは龍脈術で身体強化に特化してたけど、最近マナを操る範囲を“自分”の中だけじゃなく周囲の大地や空中にも向けるようにしたの。まだ半径5百メートルくらいしか出来ないけど、自我を持たないマナ保有物がその中にあれば、それらの保有マナを私のものとして使えるんだよ。先生には、操作に失敗した時、周りの地形を壊しちゃわないように、見張ってもらってるの」
「―――そうなんだ。壊さないって大事だよな。頑張ってるなぁ。……その、楽しいか?」
「うん!」
「そりゃ良かった……」
イヴの元気な返事に、シアンは様々な言葉を飲み込み、ただ頷いた。
イヴはこの三年の内に、スキル【龍脈術】のレベル覚醒をさせていた。
この術の考案者も「へぇ。……あの術、周囲の地形も自分の一部として操れるんだ。土地によってはプラス万単位でマナ補正が掛けられるんだ。と言うかスキルのレベル覚醒とかあるんだ……知らなかったよ」と、感心していた。
イヴは、八歳でスキルレベルを覚醒させたという偉業がどれ程凄い事なのかを一切気にも止めず、またホットサンドに噛りついて笑う。
「このベーコン美味しいね。また作ってね」
「おう、じゃイヴが頑張ってる間に、また燻しとくか」
「父さん、俺も燻すのやりたい。教えてよ」
「いいぞ。じゃ、訓練がてら一緒に豚狩りにいくか」
イヴは少し羨ましそうにシアンとクロを見ていたが、間もなくガラムがイヴを迎えに来たので、残りのホットサンドを口に詰め込み、出かけていった。
シアンとクロ、そしてロゼはそんなイヴが見えなくなるまで手を振る。
それが彼等のいつも通りの日常。―――穏やかな日々だった。
だけどその日の夕方、一通の手紙がシアンの元に届けられる事となる。
そしてそれは、そんな日々に終わりを告げ、新たな旅立ちを促す報せとなるのであった。




