約束
「よろしくねぇ、キール」
おれは何度も“たぬき”ではないと言い続け、イヴはやっとそれには触れず、キールの頭を撫で始めた。
「キヒッ」
キールもおれを通して、イヴが敵じゃない事が分かった様で、嬉しそうな声を上げて撫でられていた。
「ぷよぷよしてるねぇ」
「キヒッ」
まあスライムだから。
「おお、押したらどこまでも沈んでいく。どうなってるの?」
「キッ……キキッ」
……まぁスライムだから。
「すごぉーい! 見てみてクロ! ギュって握ったらポコッてなった! ほらっプルンプルンの雪だるまゼリーだよっ! 何これぇおもしろーい!」
「キ……キ……」
……まぁ……。
「―――スライムだけどやめてあげて? キールが困ってる」
「……」
真顔でおれがイヴにそう言うと、イヴはちょっと俯いて無言でキールから手を離してくれた。
おれは若干身体を固くして震えているキールを撫でながら、イヴに言う。
「ねえイヴ。もう帰ろうよ。おれ、なんかお腹減っちゃった」
だけどイヴは頬を膨らませ、あからさまにおれから顔を逸らした。
「……帰らない。食いしん坊のクロだけ帰ればいい」
「いやだよ。イヴは父ちゃんがおればっかり構ってるから、そんなに怒ってるんでしょ。おれの身体が弱くてごめん……。でも、父ちゃんはいつもイヴの事を考えてるよ。だから帰ろう。父ちゃんは悪くな……」
「っ知らない!!」
おれの話を遮って、イヴは突然の大声で怒鳴った。
「……っ」
だけどその大声に一番驚いていたのは、イヴ自身。
イヴは慌てて取り繕う様に、隣に居たマリーに声を掛けた。
「そ、それよりマリーちゃんすっごい、すっごい強いんだねぇ!」
「えへへー、まぁ普通だよ!」
……あれが普通なんだろうか?
とはいえおれはおれと同じくらいの子供なんて、イヴとマリー、後エルくらいしか知らない。―――……やっぱりおれ……弱過ぎるんだ。身体も力も……何もかも……。そりゃあ父ちゃんにも心配されるよ……うん。
おれはその二人の女の子の会話を聞きながら、徐々に自分の自信や存在意義という物が削れていくのを感じた。
「……キヒ?」
おれが落ち込んでいると、それを察したキールが不思議そうに身体を擦り付けてくる。
おれは『何でもない』と強がって笑いながら、心配性のキールを撫でた。
そんな中、マリーがイヴににこにこと笑いながら尋ねる。
「じゃあイヴちゃん。私が勝ったから、約束通り一つだけお願いしていい?」
「いいよー、なぁに?」
イヴも楽しそうにそう頷いた。
……やっぱりイヴは帰らないつもりなんだろうか?
おれが不安に思いながらその様子を見ていると、マリーはイヴの手をぎゅっと握りこう言った。
「じゃあね、マリーをもっと強くしてよ。さっきの戦い方で何処が悪かったか、どうすればもっと良くなるか教えて? お願いイヴちゃん!」
「……え……」
イヴの表情が固まった。
そしてしどろもどろにマリーに言う。
「そ、そんなの無理だよ。だってイヴが負けたんだよ? どうしたらいいか分かってたら負けてなんかないよ」
「じゃあ今すぐ強くなって!」
マリーは困惑するイヴに、更に詰め寄った。
とうとうイヴが困ったように後ずさった時、マリーはイタズラが成功したように笑って、握ったイヴの手を離した。
「……なんてね! ほんとはね、マリーは別に強くなりたくなんてないの」
「え?」
更に困惑したイヴに、マリーは今度は笑わず、少し目を細めて言った。
「だけどイヴちゃんは、同じことをシアンさんに言ってたんだよ。困らなかった?」
「……」
一瞬、イヴの肩がピクリと震えた。
「誰でもね、得意な事と苦手な事はあるんだよ。マリーだって、作文だけはいくら頑張っても上手に書けないし……」
マリーはそう言いながら、何を思い出したのかズゥン……と音が聞こえそうな程に、一瞬落ち込んで見せた。
だけどすぐに顔を上げ、また笑いながら話す。
「まぁでも、イヴちゃんなら時間を掛ければ、強さはいつかマリーを超えるよ。だけどその時はきっとマリーね“負けて悔しい”とは思わない。―――……だって『強くなっておきなさい』って言われるからこうしてるけど、マリーは別に強くなりたくないから」
イヴは不思議そうに首を傾げながら、マリーに詰め寄った。
「マリーちゃん強くなりたくないの? なんで? じゃあ何でこんなに強いの?」
「うん。マリーはね、マスターの為に強くなるし、お勉強もしてるの。あ、マスターっていうのはね、マリーの一番大切な人だよ」
おれは嬉しそうに話すマリーの言葉に、じっと耳を傾けていた。
「いっぱいマスターのお手伝いをしてあげたくて、マリーは勉強をする。言われたことはちゃんとやるし、言われてないこともいっぱい勉強する。そうやって色々出来るようになって、沢山、沢山のお手伝いが出来たらね、マスターに“隙間の時間”が出来るの。そしたらね、その時間で一緒に紅茶を飲む。それがマリーの一番やりたい事」
マリーは嬉しそうにそう言ったあと、一瞬何か強い思いを込めた、険しい表情をした。
「……その為には、マリーは何だってするの。―――だから強くなることや勉強することは、マリーにとってはそれに繋げる為のただの手段でしかない。別にマリーのやりたい事じゃないの」
マリーはそう言って、ふっと申し訳なさそうに笑った。
そしてイヴに似た、得意げな笑顔で付け加えた。
「マリーはね、その為に頑張ってる。だけどマスターが色々頑張ってるのは、別に私とのんびりする為じゃないって事を私は知ってる。だからたまには私も『そんなこといいじゃない!』ってお腹がムカムカする時だってあるけど、何にも言わないんだよ!」
おれは少しその言葉に驚いた。
……こんな、いつも笑ってそうなマリーでも怒るんだ。……ていうか、父ちゃんの事が大好きなイヴも、今回は怒ってる。
そしてその時、じっとマリーの話を聞いていたイヴがポツリと言った。
「……シアンは、……何がしたいんだろ? そう言えば私、全然知らないや」
おれは慌てて声を上げた。
「それならおれ聞いたことある!」
「え?」
イヴとマリーがおれを見る。
おれは言い間違えないように気をつけながら、おれが前に見聞きした事を一生懸命話した。
「父ちゃん言ってたんだよ。おれがお腹空きすぎて布団にうずくまってる時、おれに頑張れ頑張れって言いながらこう言ってたの。『―――イヴには笑ってて欲しいのに、寂しい思いをさせてる事が辛い』って」
「!?」
イヴが驚いた様に息を呑んだのが分かった。
おれは続ける。
「おれもイヴに寂しい思いをさせてるのが悲しくてね、父ちゃんに言ったんだ。『おれの事はいいからイヴの所に行ってあげて』って。だけど父ちゃん『ここでクロを放って行くような奴が、イヴの近くにいちゃ駄目だ』って言って行かなかったの」
「……」
イヴは固まったように動かない。動かないで、おれの話を聞いている。
「だから父ちゃんのしたい事って、イヴと一緒に居たいんだよ。今だけじゃなくてずっとって事だよ。そして、イヴを幸せにしたいんだって、おれは思う」
「……ふぅ」
イヴが嬉しそうに溜息を吐いた。
おれも嬉しくなって、更にいくつかの証拠をあげていく。
「父ちゃんは確かに、強くなるのは上手じゃないかも知れない。だけどね、他は何でも出来るよ。それにイヴの好きなものならなんだって知ってる。ご飯も服も、玩具や色も……ね?」
「……」
もうイヴの表情は、にまにまと溢れる喜びで歪んでいる。
そこにマリーがとどめを刺した。
「イヴちゃんのお父さん、優しいね」
「―――……っうん! でもね、お父さんって言っちゃ駄目なの。シアンって言わなきゃだめなんだよっ」
そう頷いたイヴは、満面の笑みだった。
マリーは釣られて笑いながら、深く頷いた。
「そうなんだ。イヴちゃんってマリーと似てるね。マリーもね、パパって呼びたい人が居るの。だけど呼ばしてくれないんだ。……ちょっと寂しいよね。でも我慢して、困らせないように頑張るんだよね。出来るようになった事、もっと見て欲しいんだよね。見せてあげて笑って欲しいんだよね。もっと一緒に居たいんだよね……分かるよ」
イヴが寂しそうなマリーを覗き込む。
「……マリーちゃんも?」
「そうだよ。誰にも言っちゃいけないって言われた。今のもバレたら多分怒られる。……だけどね、ここは誰も見えないし、何も聴こえないマリーの秘密基地なの。約束破っても、もし二人が黙っててくれれば、マリーは“いいこ”でいられるの」
そしてマリーは口元に人差し指を充てながら、いたずらを企む“悪いこ”の顔でおれ達に訊いてきた。
「マリーは絶対言わないよ。二人も内緒にしてくれる?」
……あ、このパターン前にもあった。確かジョーイさんとお布団でクッキーを食べたときと同じだ。
おれとイヴは一瞬顔を見合わせ、そして言った。
「言わないよ」
「おれも言わない」
―――だって、きっとこれは悪い事じゃない。
それに今度こそ、絶対内緒にし通すんだ。
それからイヴとマリーは楽しそうに自慢話を始めた。
勿論“お父さん”と“パパ”の話だ。
おれは時折相槌を打ちながら、二人の話を聞いていた
「―――イヴのお父さんのお魚料理は美味しいんだよ! 前にお魚のパイを一緒に作ったの」
「そうなんだ。マリーのパパはねぇ、紅茶を煎れるのが上手なの。あとお花を育てるのが好きで、マリーも一緒にお世話をしたりするんだよ」
「へぇ、マリーちゃんのパパってお花屋さんなの? お洒落だねぇ」
話は尽きない上、二人は何度も繰り返し同じ話をする。
本当に、イヴは父ちゃんのことが好きなんだ……。ま、おれもだけど。
◆
長い間話した後、イヴはポツリと言った。
「―――なんだか会いたくなってきた。私もう帰りたい」
「そっか。じゃ、送るね」
イヴの呟きに、マリーは直ぐに立ち上がって頷いた。
だけどイヴは首を振る。
「待ってマリーちゃん。でも私まだ“お願い事”叶えてないよ!」
「……え? あ、さっきの『勝ったら』っていうやつ? あぁ、あれはいいよ。ここじゃマリーに出来ない事は何も無いし」
「それじゃ困る!」
……あ、でた。いつものゴリ押し。
マリーは少し困ったようにイヴに尋ねる。
「……うーん……ならさっき『内緒にしてて』って言ったのは?」
「あれは私達だけじゃなくマリーちゃんも言わないんだから、私へのお願い事にはならないよ」
「うーん……」
本気で悩み困るマリーにイヴは上から目線で迫る。
「なにか欲しいものはないの?」
暫く悩んで、マリーはポツリと小さな声で言った。
「……友達」
「「!」」
おれとイヴが驚いてマリーを見ていると、マリーは慌てて手を振って否定した。
「あっ、やっぱりいいの! パパにも【外】に干渉しちゃだめって言われてて……っ、その、だからっ」
イヴがニンマリと笑った。
「いいよ! バレなかったら大丈夫! 私とクロは、マリーちゃんの友達だよ!」
確認を取る事なくおれも含めるイヴ。まぁ、異論は無い。
「ご、ごめんね。友達なんて、試合で勝ってなってもらうものじゃないのに……」
「いいよ! 楽しかったもん。またやろう!」
イヴがそう言って笑うと、やっとマリーもホッとしたように笑い返した。
「ありがとう。イヴちゃん大好き」
「私もだよ! じゃあ私達はもう帰るけど、離れてても友達だからね。いい? ずっと友達だよ」
おれも隣で頷けば、マリーは心から嬉しそうに笑っていた。




