神は、黄昏を見つめ賜うた 〜全への帰還①〜
ーーー“全”の中に於いて、“個”は無力だ。
しかし“個”無しに、“全”は有り得ないーーー
雪が舞い散る中、灰色の雲の下をひたすらに飛び続けたルシファーは、聖域を見渡せる上空で、その光景に目を見開いた。
「……何だこれ……」
かつて聖域の周りには、穏やかなハーティの草原が広がっていた。
小さな森や丘の間には澄んだ川が流れ、聖域からほど近い場所を住処にする魔物は物静かで、人々は放牧などをしながら穏やかに生活していた。
だが強大な力同士のぶつかり合いは、大地を抉り、木々を打倒した。
あちこちから黒煙や、有毒な煙が立ち昇り、まるで空はそれらを必死に消し止め、浄めようとするかのように、雪を降らせる。
だが熱い紅蓮の炎はそれを許さず、人間や魔物達を生きたまま焼き尽くす。
自然の秩序は放たれる魔法によって歪められ、氷と灼熱の熱波がせめぎ合う。
魔物は神より与えられた己の能力を、命すら削りながら奮い、人間達は、神より与えられた魔法と、神より授けられた魔石を砕きながら迎え撃つ。
そして際立って力を振るう者達の手には、神の創りし神具が握り込まれている。
そして聖域の結界の内側からも、小さくではあるが、争いの狼煙が上がっていた。
そこかしこで、聖域で眠りについていたSS級の魔物達が本気で戦っているのだ。その凄まじさと言えば、これ迄の勇者と魔王の決戦すら霞んでしまう。
それを見下ろすルシファーが恐怖に顔を強張らせた。
精霊王との戦いで消耗した、今のルシファーの小さな力など、焼け石に水にもならない。
そもそも、本来の力があったとしても、そこいらで戦っている幾千の魔物や人間達数体で、ルシファーと十分互角に張り合える力があるのだから。
「くそっ……」
ーーー弱い自分に、何が出来る?
手が震え、心は挫けそうになる。
行ったところで、待ってるのは間違いなく“死”だ。
理性も本能も、目の前の光景に赴くのを止めさせようと、様々な言い訳を探す。
ーーー弱いからしょうがない。さっきの戦いでもう、力は残ってないから。無駄死にだ。役に立たない。誰にも必要とされて無い。オレなんか……。
しかし何か良さそうな理由を見つける度に、それが下らない陳腐なものに思えてくる。
言い訳を見つける度に、脳裏にちらつく少女の姿。
何かを耐えるように、寂しげに笑う愛しい者の笑顔。
“ーーー守ってね? この世界を。そしたらまた、逢えるから”
ルシファーは黒煙の立ち昇る戦場を見つめた。
ーーー……逢いたい。
ーーーこのままなんて嫌だ。
ーーーアイツ等との約束だってある!
……戦いたくなどない。自分の意思はそこには無い。
それでもルシファーは、雪の降りしきる戦場へ向かって飛び出した。
◆◆
「ふーーーっっ」
踏み荒らされた平原で、ルドルフが大きな息を吐いた。
その前には、最早虫の息となったフラッフが意識も無く横たわっている。
フラッフを無言で見下ろすルドルフに、背後から声が掛けられた。
「終わったか?」
みっつの首を持つ、地獄の番犬ケルベロスだった。
3つ頭のうちの1つには、血まみれの、事切れた少女が咥えられている。
ルドルフは踵を返し、頷いた。
「……ああ。俺達も聖域に向かうぞ」
「もうひと暴れだな」
ルドルフが歩けば、魔獣の群れは、獣王を先頭に動き出した。
ルドルフが、小さく呟く。
「……ありがとよ」
魔獣達は耳がとても良い。
その小さな呟きは、誰一人聞き漏らすことなく群れに知れ渡る。
獣達は何も言わず、只笑った。
そして今、たった一匹の孤高の獣は初めて、自分を王と呼ぶ多くの仲間の存在を、はっきりと認めたのだった。
◇
聖域から程近い天空では、悪魔と天使が刃を交えていた。
彼等の攻撃の余波で、雪雲が吹き飛ぶ事はなかった。何故なら、彼等の攻撃は余波すら生み出させない、精密なレーザービームのような物。
大振りな技など無駄は出さない。当たれば散る、一撃必殺の技ばかりであった。
ルシファーとの契約により力を増したデーモン達は、一対一で天使たちと渡り合い、願いによる底上げの出来ないインキュバスとサキュバス達は、兄弟姉妹の鍛え上げられた連携で、ティーガテイを抑え込んでいた。
アスモデウスの放った魔法を避け、身体をのけぞらせたティーガテイに、サキュバス達が追い討ちとばかりに同時に魔法弾を打ち込む。
その背後から三男のセーレが、バランスの崩れたティーガテイに白刃のロングソードを振るう。
一閃を躱し、ティーガテイが高く飛び上がった先に、2メートルを越す爪を構えたベリアルが居た。
サキュバスやインキュバスは、元々美しい姿をしているが、時に相手の要望に合わせ、その姿を自在に変える。
その延長で、手首から先の皮膚を全て爪へと変化させたベリアルが、咆哮と共に爪を振り抜いた。
「オオオォオォォォォォッ!!」
「っ」
ティーガテイはそれすらも躱しながら、槍を突き出した。
僅かに、皮一枚分だけ、互いの刃は互いに届いた。
ベリアルの滑やかな顔の頬が、吹き飛ぶ。肉が抉れ、並びの良い歯と頭蓋の一部が顕になり、次の瞬間そこから青い血が噴き出した。
ベリアルの爪は、ティーガテイの胸部の衣服を切り裂いたが、僅かに本体までは届かない。
「……チッ……」
ベリアルが悔しげに舌打ちをした時、ティーガテイの、胸元から、ポロリと何かが零れ落ちた。
ティーガテイが、驚きに妙な声を上げる。
「あ」
それは、小さな硝子の欠片のような物。
2つに切り裂かれた、小瓶だった。
驚きのあまり、体を硬直させたティーガテイから逃げるように小瓶は落下し、その小瓶の中から灰色がかった紫色の光を放つ、砂粒が零れ落ちた。
砂粒が一度大きく瞬き、それを覆う様に人の姿が作り上げられていく。
ティーガテイや、サキュバス、それにインキュバスが見守る中、それは、一人の聖者になった。
聖者は小さくホッと息をつくと、確認するように辺りに目をやり、そのまま固まった。
「……あ」
天使長達と悪魔長達が、激闘を繰り広げるその中心、ティーガテイとサキュバス達、そしてインキュバスに無言で注目されているのだから。
長い沈黙の後、やっと我に返ったマスターは、ポーカーフェイスで微笑むと短く言った。
「ーーー……じゃあ、僕はこれで」
そしてマスターは自由落下に身を任せ、一目散に逃げる。
だが、天使長相手にただの聖者が逃げ切れるはずも無い。
続いて我に返ったティーガテイが、叫びながらその後を追う。
「マスター、ダメっ! 行かせないっ!」
「うわぁぁぁぁーーっ!! 来るなっ!! 僕に構わず続きをどぉぞっっ!!」
半泣きで叫びながら逃げるマスターに、ティーガテイは手を伸ばした。




