神は、空に呼びかけ賜うた
聖域から遠く離れた場所で、アヌビスとティーガテイは意味もなく歩いていた。
この二人はもう、この世界を一体何十周したんだろう。
アヌビスが暗い面持ちで言った。
「……匂いは、有りませんね。随分上手く隠されている」
「そっかー……。あーん、もう! どこ行っちゃったのよっ!? マスタァー!!」
叫ぶティーガテイに、アヌビスも肩をすくめる。
「しかし、こうも手がかりがないとは……」
その時、明るい少女の声が二人にかけられた。
「あっ、天使様だっ! お姉見て! 天使様!!」
「コラコラ、カーリー。指を指すんじゃないよ」
そこには大きなマントを羽織った、二人の人間。一人は、とても小さな少女だった。
この世界にはもう魔物も聖獣も溢れかえり始めているのだが、流石に天使長クラスは、まず聖域から出ることはないので、珍しいと言えば珍しい。
ティーガテイは、ゼロスの愛する創造物達に、気楽に手を振り応えた。
それに気を良くしたのか、少女カーリーは物怖じせず、ティーガテイとアヌビスに駆け寄ってきた。
「わぁーー、超ラッキー! 本物の天使様だぁーー! ティーガテイ様でしょ!? ……と、隣の方は誰?」
ーーー……なぜ少女が、その天使の名を知っていたのか?
ティーガテイは、人懐っこく笑う、その少女の歪に気付かず、優しく微笑みながら答えた。
「アヌビスと言うのよ。ついこの間、ゼロス神様よりこの世に創り出された神なの」
「え!? 新しい神様!?」
少女は大仰に驚き、困った様に姉の方に振り返った。
「パールお姉! 新しい神様だって、どうしよう?」
パールはカーリーの問に、少し考えて言った。
「……そうだな、とりあえず話をしてみようか」
カーリーは頷いた。
ティーガテイは、ゼロスの教えに則り、至上の微笑みを浮かべながら尋ねる。
「どうしたの? 何か困った事でもあるのかしら」
「困ってないけど、お願いがあるの。素敵なものをあげるから、私達と来て!」
「……? 素敵なもの?」
意味を飲み込めず、首を傾げるティーガテイに、パールが小さな小瓶を渡してきた。
アヌビスはそれに首を傾げ、ティーガテイは目を見開く。
小瓶の中には、小さなグレイッシュパープルに輝く砂粒が、一粒だけ入っていた。
ティーガテイは瓶に飛びつき、呼びかける。
「……マスター!?」
そして、瓶を握ったまま大天使モードに切り替わった。
ティーガテイは四対の翼を大きく広げ、金色の光を放つマナが、その身から噴き出させる。
「ーーー……お前達、なぜこれを持っている? 何処で手に入れた!? 答えろっ!!」
普段はミーハーであろうと、ティーガテイは大天使の一人。その威圧に、アヌビスは思わずたじろいだ。
カーリーも、怯えるよう尻込みしながら、パールに視線を送る。
パールはカーリーに、大丈夫とでも言うように笑いかけ、そっとカーリーの頭を撫でると、ティーガテイの前に進み出た。
「これを何処で手にいれたかは、問題じゃない。貴方がそれを欲しいかどうかだ」
「何を言ってる!? 欲しいに決まっている!」
「そうか。ではどうぞ。……但し、その蓋を開ければ、その中の砂は貴方から離れて行くぞ」
「……? そんな事は当たり前だ。私には私の、マスターにはマスターの役目があるのだから」
ティーガテイの言葉に、パールは小さな声でボソリと言う。
「その瓶の中に閉じ込めておけば、ずっと貴方の物なのにな……」
ティーガテイの目が、怒りに染まった。
「っふざけるな。私を馬鹿にしているのか? それに、私には神より賜った探索の使命もある!」
パールは両腕を大きく広げ、ティーガテイに微笑んだ。
「貴方の神とはなんだ? 自身を創り出したからと言って、盲目的に従う事はないだろ。貴方はもう“個”の意思がある。もう自由なんだよ」
パールを見つめるティーガテイが震えた。
「美しい天使よ。神が必要なのか? ……なら、私がお前の神だ。私をよく見ろ。……そうだろう?」
パールの言葉にティーガテイの様子が、明らかにおかしくなっていく。
まるでなにかを恐れるように、全身を震えさせていた。
「う、嘘だ……」
「ゼロスに従おうと、万物の愛をただ向けられるだけ。全てを愛しているということは、全てを愛してないことと何ら変わらない。……私なら、貴方を特別にしてあげられる。ティーガテイ」
瓶の中の砂粒が、激しく明滅する。
パールは、天使を優しく抱きしめた。
「ティーガテイ。望みを叶えてやろう。ーーー……だから、私と来い」
ティーガテイの体から力が抜け、パールにしなだれかかった。
アヌビスは、その光景に後ずさる。
パールは、ティーガテイを抱き締めながら、アヌビスに声を掛ける。
「貴方は、一体何の神だ?」
「……っ、わ、私はアヌビス! 死者の魂を嗅ぎ分け、衣服の乱れを整える者だっ!」
パールは首を傾げた。
「? よく分からない。ゼロスはまた、妙なものを創ったものだ。使い道もなさそうだし、創られて間もないということならさして力も強く無いだろう。……カーリー、やっていいぞ」
「!?」
パールの言葉に、アヌビスは突然刺すような殺気を感じ、振り向いた。
その目に映ったのは、マントを脱ぎ捨て、高く跳躍するカーリーの姿。
「あっはーーーーっ!!」
そう叫ぶカーリーには、先程の人懐っこい少女の面影は、もはや欠片もなかった。
血に飢え血走った瞳に、大きく開いた口から長く舌を出し、何よりその肩から生える腕は……、
4本。
「!?」
アヌビスは咄嗟に飛び退いた。
直後、カーリーの四本の腕の1つに握られていたナイフが、アヌビスの立っていた場所を突き刺す。
ーーーッドオォォォーーーーーーーン!!!
大地が割れた。
「馬鹿な!? 人間ではないのか!?」
驚愕に震えるアヌビスを指さし、カーリーは口を尖らせながらパールに抗議した。
「あの神様、めちゃくちゃ速いよ! あれで避けるとかありえない!」
「まあ、腐っても神という事だ。ほら、よそ見してないで早く仕留めろ」
カーリーが再び舞い上がった。
アヌビスは、ゼロスによりパラメーターを速さに全振りされていたので、かろうじてその人間離れした攻撃を避けることは出来た。しかし、反撃の術がない。
カーリーは狂ったように攻撃を仕掛けてくるし、パールに至ってはその実力は未知数。
アヌビスは、必死にこの状況を理解しようと考える。
ーーーなぜ大天使長ティーガテイ様を、あの人間が調伏したのだ?
アヌビスは攻撃を避けながら、背後に意識を移す。
ーーー逃げられるか?
その視線の動きを読まれたのか、カーリーが声を上げた。
「パールお姉! こいつ逃げる気だ!」
「っ」
パールは言った。
「自分でなんとかしろ! 私はティーガテイで手が塞がっている。ーーー……アヌビスとか言ったか? 1つ教えてやろう。カーリーは、少し甘えん坊なだけの、ただの人間だよ。生まれたてとは言え、“神”がただの人間を前に、ゼロスの元に逃げ帰るのか?」
ーーー……そんな安い挑発に乗るものか。
「っ、ふざけろ! あの異形、人間の筈が無いっ!」
「ふふ、人間だよ。その腕は、その子の死んだ父と母の腕。寂しいから、ずっと一緒に居たかったそうだ。繋げ方は“キメラの父”に教えて貰った」
「……っ狂っている」
「ははっ! お前が言うか、犬の頭を持つ神よ!」
笑うパールが、天使の掌から小瓶を取り上げ、それを高く放り投げた。
ーーーマスターを見つけ、連れ帰る。
神から言われたその言葉を思い出し、反射的にアヌビスの体が動いた。
「っ」
だがアヌビスは、本能にも近いその衝動を抑え、身を捻りながら後ろに跳躍する。
そしてそのまま、振り返る事なくひた駆けたのだった。
「あーー……逃げちゃった」
悔しげに地を叩くカーリー。
パールは、アヌビスの去って行った方を見つめ、静かに言った。
「……。バレたな」
「ゴメン、お姉。……怒ってる?」
眉を寄せ、上目遣いでパールを見てくるカーリー。
パールは笑いながら、その頭を撫でた。
「怒ってなんか無い。いいさ。もう殆どの準備は、終わっていたんだから」
カーリーは気持ち良さそうに、その手に身を委ねた。
パールはふと、カーリーを撫でる手の指に挟んだ小瓶の封が、少し緩んでいることに気付いた。
中にはまだ、一粒の砂が弱々しく明滅し続けている。
パールはキュッと蓋を締め直し、顔を上げてカーリーに言った。
「勇者と聖女の所に行こうか」
「うん! ……シヴァお兄は?」
「はは、そうだな。そろそろまた、シヴァにも出てきてもらおうか。最後は皆一緒だ」
パールは、カーリーがマントを拾い上げて羽織る隙に、しっかりと天使を立ち上がらせた。
そして微笑みながら言う。
「じゃあ、行こうか。愛しい私のティーガテイ」
パールの言葉にティーガテイは嬉しそうに微笑み返し、その翼を広げた。
◆◆
静かな聖域を、一人の神が光の如く駆けている。
そして俺の前に辿り着いたとき、木々を揺する大声で叫んだ。
「ーーーっゼロス様!!」
「どうした? アヌビス」
間もなく返ってきた呼びかけに、アヌビスは吠えるように言った。
「大天使ティーガテイ様がっ、堕ちましたっ!!」
「……え?」
ゼロスの表情が固まる。
ーーーそして、ふとゼロスが空に向かって呼びかけた。
「……おいで、僕の愛しい天使達!」
ーーー……リー……ン
風が吹き抜け、俺の葉音だけが響き渡った。
「……え?」
不思議なそうな顔で、ゼロスは再び空に呼びかける。
「……おいでよ。 ウンディーネ、麒麟、フレイヤ、ユニコーン、ブリキッド、精霊王、マリア……。……応えてよ、……イム……」
ーーーだけど、その呼びかけには誰一人として応えることはなかった。




