神は、風神と雷神を遣わし賜うた
『ーーー中々に、面白い場所であった。またいずれ会おうぞ、人間よ』
6度目の召喚術を使った後、金虎は満足げにそう言い、消えて行った。
あれを召喚するには、この身体の内にある、“マナ”という力をゴッソリと使わねばならん。
それが少なくなると、体力も大幅に削り取られる。
そして、今やわしの中のマナは、空になっておった。
マナとは不思議なもので、あまりに少なくなると、吐き気や頭痛すらして、死が顔を覗かせ始める。
修行を始めた当初は、何度それで倒れたかは知れない。
だがわしは、倒れながらも剣を振り、回復すればまたあれを召喚し続けた。
……鍛錬の中、半死人となりつつも、剣を振る事を繰り返している内に、ぼんやりと見えてきた物があった。
死にかけた我が身が、肉体からの命令を受け取るのを止め、言うならば“魂”に従い肉を操り始める。
それは、1歩踏み間違えれば、容易く死へと転がり落ちてゆく、生と死の狭間の境地。
時が止まって見えるほどの研ぎ澄まされた感覚の中では、留まっているだけで、己の命が削れていくのを感じる。
……だが、それで無ければ、あやつと対等に戦うことなど出来なかった。
わしはその境地に身を浸しながら、天の邪鬼の声を聞いた。
「ーーーほお、お前も到達していたのか。この“死境”に」
死境。
なるほど、この感覚をそう呼ぶのか。
わしは瞬くように、打たれる爪撃を躱しながら言った。
「その物言い、その強さ。おぬしも死の縁を歩いていると言うことか」
天の邪鬼が笑った。
「ああ、だが死を恐ろしく感じる事はない。…いや、感じる事こそが無駄だと悟った。逃げようにも、生死をかけた闘いなのだ。ならば、ただ、踏み外さぬよう、歩くだけ」
わしは天の邪鬼に、同意を示した。
「まったくもって。では根比べでもしようか。どちらが上手く、綱を渡れるかどうかを」
ーーーもう、空っぽだった。
刀が折れぬよう、マナで刀身を強化する事すら出来ぬ程に。
このような状態では、奴の爪にひとたび刃が掠っただけで、ただの鉄の刀は瞬時に砕け散るだろう。
わしに残された手段といえば、その爪を避け、牙を避け、剣筋を見極め、……斬る。
只、それだけだ。
わしと天の邪鬼は、無言で地を蹴り、駆け出した。
わしらの闘いに、気合などの声は発しない。
……無駄なのだ。
静かな闘いの中で、打ち合い、ぶつかりあう音だけが、轟音となり空気を揺らす。
打ち込み、受け、舞い上がる水飛沫や、砂の一粒さえ見極め、最善の軌道を読む。
決して踏み出してはいけない線の内側で、読み間違えたり、1つでも見落とせば死ぬ世界を、生きる。
それが、わしとあやつの生き様なのだ。
マナが切れ、金虎との別れを済ませてから、もうどれ程の刻が過ぎたのだろうか。
何度か、辺りが暗くなっていたような気もする。
わしは砂を蹴り、飛ぶように踏み込んだ。
天の邪鬼は爪を構え、砂上を滑るようにこちらに向かい駆けてくる。
あやつとはぜ合うその瞬間、……突然に、わしの足が消えた。
足を失くしたわしは、着地が出来ず、砂面にぶつかり、その勢いのまま、20間(約30㍍)程、砂塵を高く巻き上げながら波打ち際を滑った。
砂上を滑りながら、わしは悟った。
ーーーわしの足が、死んだ。 そして、負けた。
僅かに、爪の先程だけ、わしは縁を越えてしまったのだ。
天の邪鬼が、砂にまみれ倒れるわしに、ゆらりと歩み寄る。
わしは静かに言った。
「ーーーわしの、負けだ」
大の字に仰向けた身体から、無意味に生える己の足は、最早ピクリとも動かない。
わしは笑い、心の底から晴れやかな気分で、天の邪鬼に言った。
「わしを殺せ、天の邪鬼。ーーーまことに、天晴だっ」
天の邪鬼の爪が、わしの喉に伸びる。
わしは、満足し目を綴じた。
「ーーー死ぬ前に、一時の幻夢でも見ないか?」
「!?」
死を覚悟しておったわしの身が、突然乱暴に引き起こされた。
そして、目の前に見たものに、わしは目を疑った。
あぐらをかき座る鬼が、酒の瓢箪を突き出していたのだ。
「飲め」
わしは、それを受け取った。
◆
その味は、血の味しかしなかった。
だが臓腑に流し込めば、それは灼熱の如き、甘美な熱を残しながら、落ちていく。
わしが酒を天の邪鬼に戻せば、天の邪鬼もそれをあおる。
その様子を見ながら、わしは天の邪鬼に聞いた。
「のう、“マオウ”とやらは、いつ来るのだろうか。ゼロス神に、この島を守ると約束したのだが、この体では、到底まともに闘えるものでは無いな」
瓢箪から口を離し、天の邪鬼は言う。
「それなら心配すんな。俺が、魔王だ」
わしは笑った。
「そうか、それは良かった。……わしは、己を鍛えながら、お主が“マオウ”であれば良いのに、と思っておったのだから」
「ーーー……お前のお陰で、俺は、魔王になれたのだ。お前が、俺を魔王足らしめたのだっ」
そう言う鬼の目に、涙が見えた気がした。……おそらく酔ってでもいるのだろう。
わしは気づかぬふりをして、天の邪鬼に言った。
「ーーーそうか。しかし、そうであれば“マオウ”とは、なんと強き者なのであろうかな。これ程の強き者を、“ユウシャ”とやらは、いつも相手にしておるのだろう? ……全く、頭が上がらんわ」
わしが笑うと、天の邪鬼はまた酒を突き出したきた。
わしはまたそれを飲む。
「お前は、まことの勇者であった。そう、俺は思うぞ」
「ははは、慰めはよせ。現にわしはマオウに負けたではないか」
そう笑ったあと、わしは俯き、地を見つめた。
ーーー……そう、わしは負けたのだ。
ーーー……ああ、勝ちたかったなあ。
ふと、天の邪鬼が思い出したように言った。
「伸芳よ。あの時お前は、俺を嫌うてはないと言ったな?」
「ああ」
わしは、その悔しさを飲み干す様に酒を煽りながら、それに答えた。
そしてまた、天の邪鬼に視線を戻した時、わしの体が驚愕に固まった。
あの、腹の立つ笑みや、残酷な笑みしか見せなかった天の邪鬼が、まるで童のような笑顔を見せていたのだから。
「俺も、お前のことが嫌いではない。いや、お前に逢えたことに、心から感謝をしている」
ーーー……。
わしは、その曇の無い笑顔に、思わず言葉を失った。
呆気にとられながら、無言で見つめるわしに、天の邪鬼はポツリと言った。
「ーーー……まあ、全部嘘なのだがな」
そう付け足す天の邪鬼に、わしは声を立てて笑った。
そして瓢箪を返しながら、わしは言う。
「お主も、相変わらずだの。天の邪鬼」
「……」
天の邪鬼は目を綴じ、満足げに微笑んだまま、それを受け取ろうとはしなかった。
「……天の邪鬼?」
わしは、差し出した瓢箪を引っ込め、ひとり、またそれを飲んだ。
ーーーそうか。 お前は、とうに縁の外へ踏み出していたのだな。
わしは、一口それを飲み干し、瓢箪を天に掲げた。
ーーーかたじけぬ。 いい夢であった。
◆
こうして、神獣達や宇宙怪獣達すら巻き込んだ、伸芳と天の邪鬼の物語は幕を下ろした。
その後、伸芳も、天の邪鬼との戦いの傷痕により、僅か5日でその命を散らした。
ただ伸芳はその5日の内に、1つの遺言を残した。
“一人の、武神を讃え、祀って欲しい”、と。
村人達は、伸芳の最後の願いを叶え、かつて鬼達がアジトにしていた山に、“天洞山”と名前をつけ、その洞窟に祠を建て、“武神の羽織”を祀った。
だがいつしか、その山には鬼が住みつき始め、中でも強力な鬼というのが、“風鬼”と、“雷鬼”だった。
その鬼達は、勇者ですら歯が立たぬ程の、桁外れた力を持っていたが、何故か、“武神の羽織”には指一本触れず、寧ろ、いずれ再び訪れる新たな武神の為、それを守っている風ですらあったという。
ーーーこの物語は、真相を知る聞き手によっては、“神々の戯れが起こした茶番劇”と、罵る者も居るんだろう。
だけど、この物語の中には、間違いなく熱い漢達の、魂の息吹があった。
俺は、そう思うんだ。
ここで、伸芳のお話は区切りとなります。




