神は巨人とネ申々の国を創り賜うた④
※お忘れの方の為の注釈です。
これは、ゼロスによる空想の物語であり、本編で実際に起こっている物語ではありません。
ジャックは走りながら、思わず口元を緩めた。
あと1つの金の竪琴さえ手に入れ、このオリュンポスを去れば、全てがうまく行く。
父の無念は晴らせずとも、今を生きる者の心の安寧は守られる。
そしてユミルが自分の世界を侵すことはなくなり、母と、オーディンが自分を出迎えてくれる。
そうだ。僕はもっと働こう。そしていつか2頭の牛を買うんだ。雄牛と雌牛。そうすれば雌牛は子を産み、もっとみんな裕福に暮らしても行ける。
みんなの笑顔を、僕は……、
ジャックは、完全に浮かれていた。
油断していた。
ユミルが、勇者さえ打倒したという事実を、すっかり忘れていたのだ。
◇◇
ユミルが恐ろしい声でため息をつく。
「全くなんて日だ。金貨に続き、雌鶏まで失くすとはな。まぁまだコイツがある」
ユミルはそう言うと、金の竪琴を机に置いた。
「こいつの使い方は簡単だ。こいつの奏でる曲を一曲終いまで聴くだけでいい。ーーー……ただ、起きたままで聞いてなきゃならんのが難点だな。なんせ芸術なんぞ興味の無い俺には、眠くて敵わんのだから」
ユミルは頬杖を付き、面倒臭そうに金の竪琴を指で小突いた。
「おい。何か曲を奏でろ。聴いてやる」
ユミルが心底嫌そうにそう言うと、不思議な事に金の竪琴は、弾きもしないのに。それは美しい音色を奏で始めた。
思わずジャックも惚れ惚れと聞き惚れてしまうその美しい音色に、ユミルは直ぐにまた眠りに落ちた。
ジャックは、竈から抜け出し、机をよじ登り、その美しい音を奏でる金の竪琴の前に立った。
「え……」
その竪琴を見て、ジャックは思わず言葉に詰まった。
だって、金の竪琴に彫刻された美しい女が、自ら黄金の手を伸ばし、弦を弾いていたのだから。
「ーーー……あなたはだあれ?」
「! し、喋れるのか?」
「あら、竪琴が喋れないだなんて、誰が決めたの? 失礼しちゃう」
曲を弾きながら、竪琴はジャックにふんと鼻を鳴らした。
「あ、えっと。ごめん。その、僕はジャック。君を持っていきたいんだけど、良いかな?」
ジャックは戸惑いながら、竪琴に聞いてみる。
すると竪琴は、目を見開き怒り出した。
「いいわけ無いでしょ!? 私のご主人様はこのユミル様だけなの。ユミル様に音色を奏でることが、私の喜び、ここに在る意味! その方が私に奏でろと仰ったのよ。私はたとえ弦が切れても、弾き続けるわ」
「そ、それは困る。それに寝てしまってるじゃないか。ユミルは芸術に興味がないと言っていた。君ほどの素晴らしい芸術家なら、君を認め、望む者は大勢いる。どうか僕と来てくれ」
食い下がり、金の竪琴を掴み上げようとするジャックに、金の竪琴は悲鳴のような不協和音を上げ、叫んだ。
「ご主人様!! 泥棒です!! ここに泥棒がおります!」
「なっ!? ヤメ、やめてくれ!! ユミルはいま酒を飲んでいる! いくら叫んだって起きはしない!!」
ジャックが慌てて竪琴の口を塞ごうとしたその時、背筋の凍る声が響いた。
「誰が起きないだって?」
ーーー……ユミル。
ジャックが振り向いたそこに、ニヤリと笑う恐ろしい巨人が居た。
ーーー酒を飲んだはずじゃ? アレの中には、奥さんが薬を仕込んでくれていた。早々起きるはずが無い……。
ーーー酒、 飲んだか?
ジャックは、目の前が絶望で揺れた。
ーーー飲んで、いない。あいつは、金の竪琴の音色で眠っただけだ……。
「はっはぁーーー!! おかしいと思ったんだ!! そうたて続けに転移装置が無くなるなんて、なぁっ!!!」
ユミルはそう言いながら、手を振り上げ、小虫を叩き潰すがごとく、その手でテーブルを叩いた。金の竪琴を諸共に。
ーーーードォーーーーーーーーーオォン!!!
世界を揺るがすがごとく衝撃。
偶然、本当に偶然に、ジャックの命は、そのユミルの指の隙間となった場所にいたお陰で助かった。そう命だけは。
ジャックの左腕はほんの少しだけ、ユミルの掌に掠っていた。
しかしほんの少しかすったその腕は、その重圧と、パワーと、速度。それらによって、肘から下を千切り取られていた。
「……あ」
それ程の距離の衝撃を感じていながら、意識を手放さなかった事は、大手を振って自慢してもいい程だ。
だけどその衝撃で、ジャックの体は痺れ、思考すらままならなかった。
ユミルが叩きつけた手をゆっくりと持ち上げる。その下から顕になるのは、ぐちゃぐちゃに潰れ、あり得ない方向に曲がりひしゃげたジャックの千切り取られた左腕。
「ぅあ……」
それを見た瞬間、突然思いましたかの様に、ジャックの左腕に激痛が走った。脈打つごとに、ボタボタと血が溢れ出す。
悲鳴すらあげられない程の絶望。
ーーーガシャン
テーブルの下で、何かが壊れる音がした。
「ご主人様……、どうし 、て、私まで……」
ユミルに叩き潰され、割れてネジ曲がった金の竪琴だった。
ユミルは耳に指を突っ込みながら、金の竪琴に言う。
「オメェ、役立たずだろ。一曲終いまで聞かねぇといけねーなんてな。オメェの曲なんて、眠すぎて聞き終われるわけねぇだろ」
「ご主人さ……」
「それより、ニンゲンがこんなとこにいるってことは、他にも転移装置があるって事だろ? なぁ、ニンゲンそれを教えろ。その後、食ってやらぁ」
ユミルはジャックに顔を近付け、ニヤリと笑う。
もう、一瞥すら金の竪琴にくれようとしないユミルに、黄金の乙女は一粒の涙をこぼした。
「私は、 ただ、ご主人様に 曲を奏で、安らいで頂きたかった だけなのに……」
黄金の乙女が淡く輝き出した。
その輝きは丸い玉となり、あたりのものを一様に光の粒子に変えていく。
そしてやがてその丸い光の玉に包まれたものと共に、黄金の乙女は、消えた。
「……おい、見たか? ニンゲン。転移装置は壊れると、ああやって周りのもの吸い込みながら消滅するんだ。俺からすりゃ1センチにも満たない範囲だからどってこたねえが、人間にとっちゃ半径10メートルだ。巻き込まれて消えたくねえなら、壊そうなんざ思うなよ?」
なんの罪悪感も無く、面白そうに嗤うユミルに、ジャックは激しい怒りを覚えた。
そして幸運にも、その怒りがジャックの体を呪縛から開放した。
ジャックは鼠のようにテーブルの上を駆け抜け、椅子を飛び移り、床に降り立った。
「あっ、オマエっ逃げるな!」
ユミルは慌てて追うが、ジャックは金の竪琴の消滅と共に出来た壁の穴に飛び込んだ。
「あっ、畜生!」
ユミルの悔しげな声が聞こえた。
穴蔵の中でジャックは右腕の袖を破り、左腕を強く縛って止血処理をした。
血はずいぶん流れ、目が霞むが立ち止まっている暇はない。
最後の転移装置を、壊さねばならないのだから。
◇
ーーー寒い。
ジャックは無くした腕の傷口を押さえながら、身体を引きずるようにしながら、ようやく緑の光の路まで辿り着いた。
転移装置は相変わらず大地から光を伸ばし、ジャックの住まうはるかな大地へと続いている。
その根元に、ジャックはとあるものを見たつけた。
小さな豆粒ほどの魔石が5つ、そのゲートを取り囲むように散らばっていた。
ただ、色はあちらのものとあった色とは違う色をしていた。
おそらく、本来魔石は10粒あったのだ。
向こうに5粒、こちらに5粒、それらが繋がり合い、この光の路を作っていたのだ。
ーーーなら今この魔石を壊せば、ユミルはあちらに行けない。
ジャックは、ポケットの中の小さなナイフを握り、振り上げた。
しかし、その時、ユミルの言っていた言葉が脳裏に蘇った。
ーーー巻き込まれて消えたくねえなら、壊そうなんざ思うなよ
ジャックは目を閉じた。
己の命一つで、あの世界を守れるなら、安いものだ。
片腕一つしかない男が戻ったところで、女たちの稼ぎよりも微々たる程度だ。
それなら、今ここで命を散らす方が、よっぽど価値がある。
「……。」
頭では解っていた。
だけど、ジャックはどうしてもそのナイフを振り降ろすことが出来なかった。
「ーーーオーディン。 君に、もう一度会いたい……」
ジャックはナイフを収めた。そして、光の柱に吸い寄せられるよう、身を投じる。
ーーー君をひと目、見たい。そしたら、僕はきっともう、なんの後悔もなく、この命と引き換えに、転移装置を閉じよう。
だから、最後にもう一度だけ、僕に微笑んでくれる?
ジャックの体が光に溶けるその刹那、ジャックは見た。
遠くからでもその巨体を見落とすはずなど無い。
ジャックの腕から滴り落ちた血痕を追い、ユミルがこちらに迫って来ていた。




