1-5 薬と魔力結界
前回、次回の更新まであまり時間はかからないとかいいながら、一か月かかりましたが。
今回は、一話の起承転結で言えば、転となります。
朝が来る。
いつもの朝だ。朝日が部屋に射しこみ、カーテン越しでも太陽の光を感じ取れるくらいの、快晴だ。
「……寝ちゃったのか」
頭をぽりぽりと掻きながら、ソニアはソファから体を起こした。体中が軋んでいるのが分かる。
昨夜、結局カイルの家に泊まることになったソニアは、リビングのソファの上で魔法の勉強をしていたのだが、眠気に押し負けたのである。
「あー……ジェス、カイルのお母さんの病気、治せたのかな?」
大きな欠伸をしながら、ソニアは伸びあがって、おもむろに自らの掌を見る。
そこには、珍妙な文様が。黒い墨で書かれた、魔法陣のようなものが。描いた覚えのないものが、描かれていた。
「……なにこれ」
小さく呟いたが、頭の中に浮かんだ疑問はすぐに吹き飛んだ。
古い扉が開いて、入って来たのが、カイルと―――眠りっぱなしの母親だったからだ。
「後はこの薬を三日間、朝昼晩に飲めば、完治するから、しっかりと飲むこと」
そう言って差し出されたのは、袋に詰められた、粉薬だ。
「苦いだろうが、我慢して飲めよ。あ、勿論食後だからな」
「ありがとう、ございます」
受け取ったのは、カイルの母親である。顔色はまだ完全に回復しきっておらず、体もやせ細っている。それでもその瞳には生命力が宿っており、これ以上ひどくならないことを、暗に示していた。
ジェスが看病をした翌日、カイルの母親はすっきりとした表情で目を覚ましていた。そのことにカイルは大喜びで、ジェスに抱き着いて何度も礼を言ったが、一方のジェスはといえば、顔色は真っ青で疲れ切った様子だった。それでも、
「因みに料金の話だが―――」
「料金の話、早すぎない?病状も何も話していないのに!」
ソニアはつっこみを入れざる得ない。
昨日。ジェスの治療は深夜まで及び、カイルとソニアは先に眠った。そして今朝、起きたらカイルの母親は起き上がっていた。普段のような胡乱げな表情ではなく、自分がなぜ回復したのか、全く理解できていない表情を作って。
大喜びで母親に飛びつくカイルをジェスは引き留め、カイルの家の食卓にある椅子に全員座わらせた。その後の会話は、現状の通り。薬の説明と、料金の説明だけだ。
「前にお母さんにお医者さんに連れていかれた時は、しっかりとどんな病気だったのか、丁寧に説明してくれたよ!薬だってどんな病状を抑えるものなのかを教えてくれたし!」
「うるせえ。俺は医者ではないからな。そんな馬鹿丁寧に説明をする義務などない」
「まあ、まあ」
睨むソニア、そっぽを向いて不機嫌そうに眉根を寄せるジェス、その両者の間に入って諫めるように声を上げたのは、言うまでもなくカイルの母親である。
彼女は改めたようにジェスの顔をまっすぐに見つめて、頭を深く下げた。
「本当に、ありがとうございました。心の底から、感謝いたします」
「……ふん」
ジェスはそっぽを向いたまま、口をへの字に曲げて唸るだけだ。そんな彼に、
「そこは素直に感謝の言葉を受け取るべきだと思うよ、ジェス。本当に照れ屋だね」
ソニアが言えば睨まれた。
「料金は坊主がきっちりしっかり、何十年かかっても支払ってくれるそうだからな。これが請求書。しっかりと払えよ」
そう言ってジェスは母親の隣に座っているカイルに、一枚の紙を渡す。その金額を見たカイルは信じられないと言いたげな表情を作って、ジェスを見た。
「このくらいなら返せそうだけれど……こんなに安くていいの?」
「え、何、何?幾ら?」
ソニアが横から請求書を覗き見て、その金額にぎょっとした声を上げた。
「嘘!5000ゼル!薬ってこんなに安いの?」
この世界の唯一のお金の単位、ゼル。昨日売っていたリンゴの金額は一つ5ゼル。人一人につき、一生の平均の稼ぎは200万ゼル。そして、薬の平均金額は5万ゼルと言われているので、5000ゼルという金額の薬が、どんなに安いかがよく分かる。
「薬は1000ゼルだ。残り4000ゼルは手間賃」
「薬安い!手間賃高い!なんで!」
「薬の原料自体は、実は市場でもそこまで高くない。大抵は1000ゼル前後だ。だが、薬はそこに更に、精霊の加護を施すから、その分手間賃がかかる。そしてそこでまず、精霊たちは高額を請求するから、薬に手間賃代が上乗せされる。薬物そのものにも効能はあるが、精霊たちは自然の化身だ。薬物の効能を最大限まで引き出してくれる。更に商人たちの手を何度もわたって病人の元まで届くまでに運輸代や仕入れ代が発生。最終的に医者の利益分を加算すれば、増しに増した薬の金額は、一般の人間の手に届かない金額まで跳ね上がる、という仕組みになっている」
「む、むむ……。説明好きめ。一気に喋られても、あたしは理解できないぞ」
ソニアがふん、と鼻を鳴らした隣、カイルはふむ、と小さく声を出した。
「えと、みんな生活するために自分の儲けを作ろうと、金額を上げていった結果、患者の手に薬が渡りにくくなっている、ということ?」
「そうだ。十歳児の方が理解力が高いな。見習え十四歳」
「え、十四歳……?」
ジェスの言葉に、カイルは信じられない、という表情でソニアを眺めるので、ソニアは頬を膨らませてジェスを睨んだ。いらん情報を教えやがって、この野郎。
「とはいえ、薬の値段が上がる最もたる原因は、金にうるさい精霊たちが原因だがな。奴らは金銀財宝を貯める癖が未だに抜けん。自然そのものが人間に与える加護が年々減っている上、自分たち自身が自然と同様に加護を与えると共に災厄をふりまける存在だとたかを括って、あこぎな事をしているだけだ」
ぼりぼり、と頭を掻きながら、ジェスは眉根を顰めた。
精霊は、先ほどジェスが言った通り、自然の意志がかたちとなったものだ。しかし、自然とは元来、万物に等しく加護と災害を与えるものである。その等しい加護を身に受けて、人間たちはつい百年前まで生きてきた。しかし―――その加護は、徐々に減って来た、と言われている。誰がどう察知したわけではない。ただ、自然のものだからこそ、変化に敏感な人間が、この世界には多数存在している。その誰かが感じ取ったのだ。
自然の加護が、人間に向くことが少なくなった、と。
薬の原料は全て、自然の産物である。当然、薬の原料の効能も悪くなった。そこで、自然そのものの力を扱える、特異な存在、精霊たちに薬の効能を高めてもらうことになったという。
最も、彼らは仕事に相応の対価を求める奴らなので、物価は上昇する傾向にある。
「ん?そうなると、ジェスはその薬をどうやって手に入れたの?妙に安いけれど、精霊に効能を高めて貰わなきゃ、一夜で病気が治るほどの薬は手に入れられないでしょ?そうなると、お金は余分にかかるんじゃないの?」
ソニアの尤もたる疑問に、ジェスは、口元を皮肉そうに歪ませながら、答える。
「裏ルートがあるんだよ。まあ、貴様のような阿呆には間違っても教えてやらんがな」
なんだよそれ、意地悪な。
ソニアは頬を膨らませて、鼻息荒く、そっぽを向いた。
食料の調達が終わったソニアたちは、カイルと共に、町の出口―――城門へと向かっていた。
「しかし、本当に姉ちゃんと兄ちゃんには感謝だな!お母さんの病気は治ったし、盗みした時には庇ってもらったし!」
「そういえば、お金がないみたいだけど、これから大丈夫?ちゃんと暮らしていけるの?」
今更ながら、カイルが盗みを働いた事実を思い出したソニアは、カイル一家が無一文ではないのか、という不安に駆られて尋ねた。すると、カイルは鼻を鳴らして答える。
「お母さんの具合がよくなったなら、この町の山向こうにある、もう少し大きな街に出稼ぎに出るよ。前はそこの貴族の家に奉公に出ていたんだけど、お母さんの具合が悪くなったから、休みを貰ったんだ。けど、いろんな医者にお母さんの病気を見せるうちに金もどんどんなくなっちゃって……。結局、盗みに出るしかなくなったんだよ」
「貴族に出稼ぎ……」
ソニアの脳裏に過ったのは、高飛車で身勝手な貴族の男に虐め倒されるカイルの姿だった。実際、ソニアの住んでいた村の近くにいた貴族も、権力をかさにきた碌な奴ではなかったため、カイルの身の上が心配になる。
「ねえ、その貴族に殴られたり虐められていたりしてない?」
「え?」
カイルはきょとんとして首を傾げてから、ああ、と納得したように唸って頷いた。
「していないよ。寧ろとてもいい人だよ。ちょーっと性格に問題はあるかもしれないけれど、地元の人たちにもとても好かれていてさ。お母さんの具合が良くなったら、また働きにきなさい、って言ってくれるし」
「お給金はちゃんとした金額を貰っているの?タダ働き同然なんじゃないの?」
「―――あれ、なんだ?」
カイルのことが心配で心配でたまらなくて、質問攻めにしていると、カイルが不思議そうな声を上げて前方を指さした。つられて前を見ればそこは城門があって、そこには沢山の人たちが集まっていた。大きな鞄を背負った人、荷馬車から察するに、旅の人か町を出る人か。
どちらにせよ、中々の人数が集まっている。
「皆さん、どうか落ち着いて、宿屋かお家にお戻りください!」
「おい、ふざけるな!なんで町から出ちゃいけないんだ!」
「そうよそうよ、これから大事な荷物を運ばなきゃいけないというのに!」
兵士が必死に叫べば、通行止めをくらっている商人と思しき人間たちも負けじと反撃をするばかり。会話は成り立たず、停滞状態だ。
「……何があったんだろう……?」
ソニアの疑問に、ジェスは「さあな」と呟いて、
「―――まあ、いい。この町がどのようになろうが、俺の知ったことではない。いざとなれば勝手に城門を飛び越えて出て行くだけだ。……さて」
ジェスは珍妙な事を言ってから、突然ソニアの頭を軽くつついた。
「な、なにをするんだよ、いきなり!」
「本当の貴様の頭の中は空っぽなんだな。町を出る前に、やることがあるだろう、やることが」
「やること?」
本気で何のことなのか分からず首を傾げるソニアに、ジェスはいよいよ呆れた様子で仰々しくため息をついて、ソニアの鼻先に人差し指を突き付ける。
「手紙を届ける仕事!」
「あ、ああ……」
すっぽりと自身の仕事を忘れていたソニアは、間抜けた声を出して手を打った。
「え、えと、どこに手紙を仕舞ったっけ……」
ジェスのこめかみが引きつったように見えたのは、決して気のせいではない。
「自分の仕事についてくらい、覚えておけ、阿呆」
そしてポケットから手紙を一枚、取り出した。白い封筒に赤い封がされた、ありふれた手紙だった。
「けど、今から宛先の人を探すの?」
「質問する前に、きちんとその宛先を見ろ」
促されて手紙の裏を見る。そこには几帳面な文字でこう綴られていた。
『セリナ・クロックネス
カイル・クロックネス』
「……カイル……」
目の前に立っている少年を見る。成程、彼が宛先だったのか。
「いやあ、なんかすっごい偶然だね!幸先いいよ、この仕事!」
「宛先すら覚えていない奴に仕事をさせることに、俺は不安しか感じないがな」
ジェスの嫌味を聞き流し、ソニアは差出人の欄も確認した。
『ベイル・クロックネス』
苗字から察するに、成程どうやら親子か兄弟か。身内の手紙だったらしい。
ソニアは楽に仕事が済ませられることにニコニコと笑顔を作って、カイルに手紙を差し出した。
「はい、キミ宛の手紙だよ」
「オレ……?」
カイルは差し出された手紙を受け取って、差出人を見た途端―――緑色の瞳に怒りの炎が灯ったのが、ソニアでも分かった。手紙を両手で抓んだかと思えば、カイルは真っ二つに手紙を破り捨てた。
「あの野郎!今更手紙なんて寄越しやがって!」
怒鳴りながら、何度も何度も手紙を破いて、粉々になった手紙だった破片を地面にぶちまけて、それでも物足りないと言わんばかりに何度も何度も踏みつけた。
「畜生、畜生……!あの野郎……!」
そして、何度も同じ言葉を繰り返して、突然目からぼろぼろと涙を零し始める。嗚咽が僅かに口から洩れて、それに気づいて恥ずかしいとでも思ったのか、町の中へと駆け出してしまった。
「なんだ、あいつ……っておい、何をしている」
特に何の感慨も受けていないのか、ジェスはいつも通りの平坦な表情のまま、カイルが去った方向を眺めてから、ソニアに視線を移して不思議そうに声をかけた。ソニアが、地面に散らばった引き千切られた手紙をかき集めて、掌に包み込んでいたからだ。
「何って、カイルを追うんだよ。この手紙の差出人と何があったかは知らないけれど、このままじゃ駄目だよ」
「もう追う必要はないだろう。手紙は渡した。仕事は達成だ。さっさとここから出るぞ」
「違うよ。何かを伝えたいから手紙を書くんでしょ。手紙を出したんでしょ。なら、読まなきゃ意味がないじゃん」
言うが否や、ソニアはカイルが走り去った方向へ駆け出してしまう。
あまりに突然で唐突で、ジェスが止める隙もなかった。
「……不真面目なんだか、真面目なんだか分からんな、あいつ。……いや、そういう血の呪いか……」
そう呟いて、面倒そうに城門へと視線を戻す。
城門は、相変わらずの喧騒だ。
商人と思しき小太りの男が、町を出るために兵士に食って掛かっていた。
「そもそもなぜ突然、出ることを禁止したんだ!どんなに魔族が潜んでいる可能性があろうと、商人や旅人の行動は制限しないのが、基本のはずだ!」
「ですが、ここへ向かっている騎士団より、誰一人として町から出すな、という連絡がきたのです。ご存知の通り、この町には魔族が潜んでいる可能性があるので、それを刺激しないための対抗策かと―――」
「なんだ、その対抗策は。馬鹿げているにもほどがあるぞ」
そう指摘したのは、ジェスだった。
「魔族を刺激しない最も効果的な方法は、人間が普段通りに生活をすることだ。奴らは人間の日常の変化に伴う感情の変動を感知し、感情が変動する際に発生するエネルギーを自らの魔力に変換する技術を持っている。だからこそ、町から人間を避難させることは、魔族対策のマニュアルで禁止されているんだ。奴らに力を与えないためにな。知っているだろう、そんな常識」
「し、しかし、我々が来るまでは、誰一人として町から出すな、という連絡が……」
困ったように兵士は首を横に何度も振った。どうやら、命令と常識の板挟みになって、どちらが最良の選択か、決めあぐねているらしい。
「一体どこの馬鹿騎士だ、そいつは」
苛立ったようにジェスが吐き捨てれば、兵士はどこまでも困った様子で顔を曇らせた。
「それが……去る大貴族の御曹司でして……」
「貴族は二割が賢く、八割が馬鹿だ。その御曹司は間違いなく馬鹿の領域だな。大方、初任務で張り切りすぎて、間違った判断を下してしまったのだろう。騎士団の中には、血筋で小隊の隊長を決めることも多くある。一々そんな新米に合わせる奴らも奴らだ。
そしてそんなバカげた言葉に付き合う謂れが、俺たち旅人や商人には一切ない。さっさと城門を開けろ。文句を言って来たら俺たちのせいにでもすればいい」
そうだそうだ、兄ちゃんの言う通りだ、という声が飛んでくる。旅をする者たちにとって、人と人の繋がりと、自由は何よりも大事なものである。その二つの事柄を侵害されるのを嫌うのが、この世界の旅する者たちが最も嫌うところでもある。その場でジェスの味方は大勢居て、兵士の味方は誰一人としていなかった。
「し、しかし……」
「俺たちが責を負うとまで言っているんだ。さっさと城門を開けろ。この事態を収束させなければ、何が起こるか分からない―――」
弾かれたように。
ジェスが顔を上げたのは、自身の言葉を吐いていたその時だ。
大気が震え、魔力の波が町の中心部から一気に周囲へ広がっていく気配。
「……遅かったか」
「え?」
兵士が間抜けた声を出した次の時には、魔力の波が襲い掛かって来る。それらはジェスの背後にいた商人たちへ次々と襲い掛かっていく。今の今まで抗議の声を上げていた彼らは、その口を、動きを、全て硬直させる。表情一つ、ぴくりとも動かなくなった。
石のように、彫刻のように。
動かない―――。
「な、なんだ?」
「急に止まったぞ!」
そして、ジェスよりも前方に居た商人たちは次々と戸惑いの声を上げている。
「な、なにが……?」
兵士が慌てて石のようになってしまった商人へ近づこうとして手を伸ばした。矢先、その指先が動かなくなったので、慌てて手を戻した。
「静止の魔法。魔族が人間を狩る時に使う、常套手段の一つだ。この現象を見るのは初めてか?」
ジェス一人、落ち着いた様子で腰の剣を引き抜いていた。
「どうやらこの騒ぎを感じ取ったらしい。若干魔法の構築式が歪だから、穴は幾つもあるだろうが……よっと!」
剣を振えば、その剣先から光が漏れて、その輝きが地面に線を引く。それは丁度、兵士が手を伸ばした際に異常を感じ始めた境界だった。
「今、俺が引いた線より先に出るなよ。俺の魔力結界の領域の外だ。瞬時にお前らの体の時間は凍り付くから」
「な、魔力結界……ということは、キミはまさか、魔法師なのか……?」
「厳密には違うが、そうと認識してもらって構わない。そんな事より、若干まずいことになった。さっさと倒しに行かないと、犠牲者が出るぞ。いや、もう殺し始めているかもしれないな」
「は、はあ……」
兵士は呆けた返事をしたまま、特に動こうとはしない。寧ろ、ジェスに期待の視線を送っている。
「……」
「……」
「……俺は行かんぞ」
「え、何故ですか!」
ジェスの言葉にかなり衝撃を受けたらしく、兵士は驚きの声を上げてジェスの服の裾を掴んだ。
「だって魔法師なのでしょう!ならば、奴らと戦う力もあるのでは?話にも聞いたことがあります。魔力結界を常に張り続けられる人間は、かなり強力な魔法師であると!何せ魔力をずっと外部へ出し続けなければならないのですから、自ずと魔力保有量が多い魔法師になるのでは!」
「ええい、なんでそういうところにばかり詳しいんだ、貴様は!俺は自分のためにしか魔法は使わん!ついでに言えば魔力はそんなに持ち合わせがない!なにせ半分以上、奴に―――」
そこまで言ってから、ジェスはあ、と小さく声を上げた。
脳裏に浮かぶのは、あの小柄で子供っぽくて、ころころと意見が変わる、少女の姿。そして自らの服の袖を捲れば、そこには赤黒く輝く呪いの紋章がある。
「……やべぇ……」
ジェスは頭を抱えた―――が、すぐに振り返り、兵士に手を振った。
「じゃ」
短く告げて、ジェスは突然駆け出した。
「え?ちょ、ちょっと、どこに行くのですか!待ってください!あ、いや、待たなくていいのか……?いやいや、せめて事情だけ説明してから行って下さいよ!」
兵士の静止の声を聴かず、ジェスは時間が止まった町の中へと去って行く。彼を慌てて止めようとした兵士はしかし―――伸ばした手が、ジェスが引いた境界線を越えた瞬間に硬直するのを感じ取って、すぐに手を戻す。
その頃には既に、ジェスの後姿さえ、無くなっていた。
時は少し戻り―――。
「捕まえ、た!」
やはり足が速いソニアは、カイルの腕をがっしりと掴んで自分の元へと引き寄せた。
人々が多く歩く、大通りのど真ん中。そのまま止まったら通行人が迷惑そう睨んできたので、道の端に寄った。
「な、なにを、なにをするんだよ!」
「それはこっちの台詞だよ!なんで手紙を破ったのさ!とても大事なことが書いてあったかもしれないのに!」
「んなワケあるか!あいつはお母さんを見捨てた最悪な奴だぞ!そんな奴が寄越してくる手紙の内容なんて、どうせまた“金を貸してくれ”に決まっている!そうやってウチは貧乏になっていったんだからな!」
話の内容から察するに。
どうやらやはり、手紙の差出人はカイルの身内であるらしい。というよりも、口ぶりからおそらくは父親またはそれに近しい存在であるのは確かなのだが―――お金を貸した結果、家を貧困へ誘った最悪な人物だということが良く分かる。
いわゆるダメ親父、またはダメ兄貴といったところだろうか。
どちらにせよ、ろくなものではない。
「いやいや、全く!ダメな人だね!人の気も知らないで!」
「そうなんだよ!」
「うちのお父さんもそうなんだよ!魔法の研究だ、とか言って首都に旅に出たまま帰ってこなくてさ!」
「マジか!」
「そうしたらいつの間にか、とっても偉い魔法師になっていてさ」
「え、マジか!すげぇじゃん!」
「けど、十年間連絡を入れなかったものだから、お母さんがおかんむりで、家に戻って来るなって言われて」
「……おぅ」
「首都から届く手紙にも目を通さなくてさ」
「……」
「ついこの間、手紙をこっそりと読んでみたら、“首都に一緒に住もう”って書いてあって、けれどお母さんは全く話を信じてくれなかった。“あの人はまた、調子のいいことしか言っていないんでしょう”って」
「…………」
「けど、やっぱり家族だから……一度は会って話を聞いたほうがいいと思って、お母さんの代わりに旅に出たんだ。お母さんにお父さんに会いたいって言ったら、“会う必要はない。首都なんかには行くな”って言うし」
「……あのー、姉ちゃん?」
「そもそも、お母さんも悪いんだよ。あたしは魔法の才能がないから、魔法なんて勉強するなって。お母さんだって立派な魔法師なのに、教えるのも無駄だとか言ってさ。ひどいにもほどがあるよ。挑戦くらい、したっていいじゃない」
「…………なんちゅーかさ……」
カイルは、独白を続けるソニアの背中を優しくぽんぽんと叩いた。
「姉ちゃんも苦労しているんだな、家族で……」
「ううう……」
なんだかその優しさが身に染みて、唸ったその時だった。
空気が凍ったように感じた。
「え?」
俯いていた顔を上げる。町の中心から自分に向かって、何かがやって来る。それは、まるで津波のようだ。目に見えない波が、自分に向かってくる感覚だ。胸元が熱い。そこは丁度、呪いの証拠である文様が刻まれている箇所だ。
「―――っ!」
その熱さが、凍りかけた脳を溶かして動かした。ソニアは咄嗟に傍にいたカイルを抱き寄せた。
直後。
一瞬、体の中を奇妙な感覚が駆け巡ったが、それは端から焼き尽くされて、消え去っていく。
「ね、姉ちゃん、いきなり何をするんだよ……」
突然抱き寄せられたカイルは戸惑った様子でソニアの腕から逃げて、それからはたと動きを止めた。
「……なんだよ、これ……?」
ソニアも、周囲を見渡した。
凍っている。先ほどまで歩いていた人たち、全ての動きが凍っている。頬はぴくりとも動かず、まるで日常の一瞬を切り取ったかのような。絵画を見ているような。
けれど、本来、一瞬は切り取れないわけで、ましてや現実なわけで。
本来ならば起こり得ない現象を起こす、ただ一つの奇跡の法をソニアは知っている。
「もしかして―――魔法?」
「ご名答、お嬢さん」
声は空から。慌てて見上げれば、そこには悠然と空中に立つ、一人の男が居た。
その姿は、明らかに人間ではなかった。灰色の肌に、二本の禍々しい角を頭に生やしている。どこかの貴族のような風体の癖に、気品の一つも感じない、厭らしい笑みを浮かべた、おそらくは男の、その魔族は。
「ところで、なぜ君たちは我が静止の結界の内で動いているのだ?」
首を傾げて、腰に挿してある剣を引き抜いた。
次回はたっぷりバトル……かな?
一日一ページの努力しようかと……。