1-4 リンゴと死霊術
リンゴと少し珍妙な奴が出てきます。
町の中は、明るかった。太陽の光で、というわけではなく、雰囲気が、である。
敷石が詰められた、整備された道路に人や馬車が行きかう。建物は整然と並んでおり、屋根はあたたかな赤色で統一されている。少し歩けば市場があって、そこでは沢山の人々が買い物に勤しんでいた。
「うわー、すごい!ここが町か!凄いなあ!こんなに人がいるの、あたし初めて見たよ!」
ソニアはテンションが上がって、はしゃぎながらあちらこちらへと視線を移していく。
「田んぼとか畑がないんだねえ」
「当たり前だ、ぼけ」
ジェスの容赦ないツッコミも今は気にならない。道路沿いに出された露店の、一軒。そこに並べられている大量のアクセサリーに目は奪われる。そのまま露店の物を手に取ろうとして、ジェスの襟首を掴んで引き寄せられ、更に睨まれた。
「貴様、クエストが先だろう、クエストが」
「もう、真面目だなあ、ジェスは!」
ぷっくりと頬を膨らませて抗議しても効果は無かったので、取り敢えずジェスに従って、ポシェットに入れておいた手紙の宛先を探す。
「それにしても、なんだか魔族がいるかもしれないっていうのが信じられないほど、賑やかだね!もっと陰鬱な雰囲気だと思っていたのに。もしかしてジェスの予測は外れてる?」
「外れていないはずだ。門番の兵士も口にした話だろう。ただ、魔族が出るくらいで大騒ぎすることでもない。魔族の襲撃くらい、このくらいの規模の町になれば日常茶飯事だ。まあ、町中で殺人事件が起きる程度でな。おそらく貴様が考えているだろう、町が丸ごと吹き飛ぶ、という事態はここ数十年起きていない」
「え、そ、そうなの……。なんだ、よかった」
ていうか、日常茶飯事なのか、魔族の襲撃。
「けど、誰か死んじゃうかもしれないんでしょ?」
「このままだったらな。だからこそ、国の騎士団が来るんだよ。奴らはまあまあ実力があるからな。魔族の一人や二人なら、束になってかかれば倒せる」
「その物言い草、まるでジェス、その騎士さんたちより強いみたいだね」
にやにやと笑いながら、そんなわけないか、とソニアは呟いた。
この国―――ヴェルト大陸を治める唯一の国、ヴェルト国。世界最大の王国としての名にふさわしく、騎士団に所属する人間は皆、優秀だという噂は、ソニアが住んでいた村にもよく流れてきていた。
曰く、長く人々を苦しめた邪悪な龍を倒したとか。
曰く、永く人々を苦しめた呪いを討ち果たしたとか。
そんな、英雄譚を持つ名声高き騎士団と比較して、
「強いぞ」
あっさりと、ジェスはなんとでもない様子で、表情一つ動かさずに答えたのだから、素直に驚いた。
「え、騎士団より強いって……冗談?」
「なぜ冗談を言わなけりゃならん。俺はあいつらよりも強い。魔族の一人や二人ならば、今の状態でも抑えきれる自信があるからな」
どういう意味なのか。
今の状態でも、というのは。
他の状態があるのだろうか。
というか、この男の自信はどこから湧いてきているのかさっぱりだ。確かに剣の腕や魔法の知識はあるが、それでもド派手で強力な魔法は一切使わない。地味なものばかりなのに。敵を倒すならば一気に強力な魔法で倒せばいいのに、スライムを倒すのに、魔法をかけた剣で切り刻む、などという遠回しな方法をとっている。
その時点で、ジェスに対するソニアの魔法の評価は決まっていた。
器用貧乏なタイプ。
この一言に尽きる。
「何をそんな疑わし気な目で見ているんだ、貴様は」
ジェスは呆れた様子で息を吐いて、
「どうせ“地味な魔法を使っているくせに、どこが騎士団よりも強いんだ?”とか思っているんだろう?」
ぎくりと肩を震わせた図星のソニアに、更に深い息を吐いた。
「あのなあ、俺が地味な魔法を使うのは―――」
「―――泥棒!」
弾かれたように、ジェスは素早く反応して声のした方を向いた。数秒遅れて、何事かをソニアもそちらを見る。
人々がせわしなく足を動かし、混み合っているために少し歩きにくくなっている商店街の大きな道。大きな大人たちの間をすり抜けるようにして、ソニアたちの方へ駆けてくる子供の姿が見えた。みずほらしい恰好をして、帽子を深く被り、顔は見えない。その腕の中には、真っ赤なリンゴが零れ落ちそうな程に抱えられていた。
子供は小さな身長を利用して、状況を完全に把握しきれていない大人たちの間を馬鹿にするように笑って、走って来て―――その横を通り過ぎて行った。
「待て、待ちやがれ!」
そして、そんな子供を必死に追いかけているが、人混みが邪魔でうまく身動きが取れない男が一人。エプロンを付けた、大柄な男だ。商売人であることは見ればすぐにわかった。
「この、コソ泥が!」
そこで、やっとソニアは状況を理解できて、はっとして振り返り、走り去る子供の後姿をしっかりと捉えた。
「泥棒⁉そりゃいかん!」
状況を飲み込んでからのソニアの行動は早かった。逃げる子供を猛ダッシュで追い始める。森で育った足腰は伊達ではなく、みるみる内に子供との距離は縮まっていく。
「それ、捕まえ……た!」
伸ばした手が、子供の服の襟をしっかりと掴んだ。子供がぐぇ、と蛙が潰れされたときのような声を出す。首が締まったのだ。それに構わず、そのままソニアは子供を引き寄せた。
「こら、観念しなさい!」
ここでやっと、どういう顔立ちの子供なのか、ソニアはしっかりと把握した。短い茶髪に緑色の瞳を持った、十歳前後の男の子だ。
「な、ンだよ、ねーちゃん!死んじゃうだろ!」
咳き込みながら訴えかけてくる子供に、ソニアは鼻を鳴らして答える。
「大丈夫ダイジョウブ。君の体はそんなに軟じゃないよ!」
「根拠ない自信を他人に押し付けないでよ……うわ!」
ソニアの手から子供の襟首を奪った、大きな手があった。
先ほど子供を追いかけていた大柄な男の店主だった。鬼の如き物凄い形相で左手に掴んだ子供を睨んでいる。
「おいコラ坊主、覚悟はできているんだろうな……?」
「へん」
子供は鼻を鳴らしてそっぽを向けば、店主はぎりり、と歯ぎしりをして、それでもため息を吐いた。
「たく、おい、親御さんはどこだ?ガキの落とし前は親がきちんとつけなきゃいかんだろう」
「……」
それでも子供は鼻を鳴らして、そっぽを向いたままだ。
困った様子で頭を掻く店主の傍に立っていた、野次馬の女性のうちの一人が、店主に向かって言った。
「あの……その子の母親ね、今、重い病気で―――。そ、その、許してやってくれないかい?稼ぎ手の父親はこの一年、何の音沙汰もなかったんでさ。苦労しているんだけれど、決して悪いご家庭ではないわ。カイル君も、盗ったリンゴの分はきっちりと働いて、おじさんに返しなさい、ね?」
「……ん?カイル?」
子供の名前に反応して、ジェスは眉間に僅かに皺を寄せていたが、ソニアはどうしてジェスがそのような反応をしたのかさっぱり分からず、首を傾げた。
「そうそう、物は盗んじゃいけないんだよ。お姉ちゃんたちも手伝うからさ、リンゴの分、しっかりと働こう」
「は?」
「お姉ちゃんたち?」
ソニアはカイルと呼ばれた子供に純粋に同情して、お金を稼ぐ約束を取り付ける。すると、カイルはぎょっとした表情を作ってソニアを見るし、ジェスの顔が大いに歪んだ。働きたくないらしい。
「えー、いいじゃん、そのくらい。働こうよ、ジェス!」
「俺もかよ!いや、そんなことよりも貴様、行動と言葉が一貫していないぞ!クエストは引き受けたくない、この町には長時間留まりたくないって駄々捏ねていたくせに、なんでいきなりガキのけつを拭うために働こう、と言い始めるんだ!」
「え、だって人助けはいいことでしょう?」
ジェスが一体何に抗議してきているのか、本気で分からなくてソニアは首を傾げた。
確かに、ギルドのクエストは引き受けたくなかった。そんな時間があったら、さっさと首都を目指したかったからだ。
確かに、この町に長時間留まりたくない。魔族などが潜んだこの町に長時間いたら、いくつ命があっても足りないに決まっている。それ以上に、この町に留まったところで自分が何をできるわけでもないのだし。
けれど、今、自分にできることは、あるのだ。手を伸ばして掴んで捕まえた子供の、手助けだ。両親が難儀にしているともなれば、やる気は倍増だ。
人助けをするだけなのに、なぜここまでジェスが顔を歪めて、珍妙そうに自分を見ているのか、ソニアは理解が全くできなかった。
「と、いうことでお手伝いだ!おじさん、どのくらい手伝えば、この子が盗んだリンゴの分になる?」
「ん?あ、ああ、そうだな、坊主が盗んだのは、三つだから、うちの屋台に並んでいるリンゴを百個ほど売れれば、許してやるぜ」
ソニアの突拍子のない思い付きの発言に呆然としていた店主だったが、気を取り直した様子でさっさと話を進めていく。
「……俺は手伝わねえぞ」
「ボクも」
「はいだめ、二人とも手伝う、手伝う!というか、君は盗んだ張本人なのだから、手伝わなきゃだめでしょうが!」
「うええ……」
背中を押して逃げ場を無くしつつ、ソニアはさっさと店主の屋台へと向かっていく。
どっさりと。
紙袋の中に入った大量のリンゴを持って、ソニアはご満悦だった。
「いやあ、まさかお礼としてこんなにリンゴを貰えるなんて思わなかったなあ!」
「なあなあ、本当にそのリンゴ、全部僕がもらっちゃっていいの?」
ソニアの隣に並んで歩いて、カイルは嬉しそうに尋ねれば、
「勿論。あたしたちは旅をする身。リンゴは好きだけど、持ち歩けないからさ」
「サンキュー、姉ちゃん!」
いつの間にやら打ち解けたカイルとソニアは、にこにこにこ、と笑いながら暗くなりつつある道をゆったりと歩いていた。
屋台でリンゴを売る手伝いをしたソニアたちは、当初のノルマ以上の集客力を発揮した。そのお礼にと、カイルが盗んだ三つに足して、十個もリンゴをもらってしまった。勿論、ソニアたちは旅をしている身なので、生ものは持ち歩けない。なので、全部カイルに渡す気だ。
「それにしても」
「な」
ソニアとカイルは振り返る。そこには疲れ切ってこれまで以上に不機嫌そうなジェスが、眉間にとんでもない皺を寄せて歩いている。
「まさかあの兄ちゃん目当てで、沢山の女の人たちが来るとは思わなかったな。イケメンって便利だよな」
「だよねえ。なんだか女の人ばかりじゃなかったような気がしたけど……」
思い出すのは、店頭に仏頂面で立ったジェスという人物そのものの集客効果である。さすがに女性はイケメンに目がなく、どっとなだれ込むように屋台にやって来たわけだが―――その中に紛れて、女性とは言い難い人間たちもちらほらとおり、ジェスはそちらの対応に追われていた。というか、殴り飛ばしていたのだが、それもなんのその、寧ろ相手を大喜びにさせる結果となってしまい、こいつらはもう手を付けられない、と悲鳴を上げていた。
「ま、それはそれとして、助かったよ、姉ちゃんたち!お陰で母さんにリンゴをあげられるからな!」
カイルは本当に嬉しそうに笑った。最初はむっすりとしていた男の子で、気難しいのか、と思っていたが、存外話しやすく、こうして慣れてみれば、しっかりとしている子だということが分かった。
「それにしても盗んでまで、なんでリンゴが欲しかったの?」
「そりゃ、リンゴは栄養満点、命の果物って呼ばれているって聞いたからな。なんでも病気を立ちどころに治しちまう効能があるらしい」
「え、リンゴにそんな効能が!」
「馬鹿。そんな効能のあるリンゴがそこら中にあってたまるか。それは“アトランティーダ”のリンゴだけだ」
「ん?」
疲れた様子ながら、ジェスはソニアたちの会話に割って入って来た。
「“あとらんてぃーだ”って?」
「この世のあらゆる命が集まる、地上唯一の聖域と呼ばれる場所の名前だ。“アトランティーダ”は死んだ命が集まる場所だから、その命を果物に宿らせて死にかけた人間に与えることで、その人物の生命力を元に戻すことができる。かつてとある王子が“アトランティーダ”に生えていたリンゴを持ち帰り、病気に苦しんでいた自らの恋人に与えたところ、生命力が戻ったことから、リンゴは病気を治す力がある、という話が広がったんだ」
相変わらず、よく物を知っている。そしてすらすらとよく喋る。
「だからといって“アトランティーダ”に行こうなどとは思うな。生命力を戻すリンゴを求めて数多くの人間がそこに向かって、戻って来た人間など数えるほどしかいないからな」
「な、なんで?戻ってこなかった人は……死んじゃったの?」
「違う。戻りたくなくなったんだ。あの地を管理している精霊の王は、人に幸福感を与えて堕落させる精霊だ。“アトランティーダ”に足を踏み入れた人間の殆どは、その幸福感に満たされて、戻りたくなくなるんだ。戻った奴は本当に強靭な意志と想いを持った者だけだった、という、それだけの話だよ」
「じゃあ、このリンゴに病気を治す力はないのか……」
ジェスの話を今まで黙って聞いていたカイルが、がっかりした様子で、肩を落とす。彼にとって、盗みまで働いて手に入れたかったリンゴが、ただの果物であり、母親の病気を治せるものではない、という事実は、残酷な話だろう。
「ちょっと、落ち込んじゃったじゃないか!」
肘でジェスの腰を突っつけば、彼は整った顔を歪めて反論する。
「俺は単純にそいつの勘違いを解いてやっただけだ。寧ろありがたく思え。これでリンゴを母親にあげたのに、病気は治らないと絶望せずに済んだのだからな」
「……」
更に落ち込むカイル。更に肘でジェスの腰をつつくソニア。ジェスはとても面倒そうに思いついたままの言葉を吐き出した。
「だからといって、リンゴが病気にいいのは変わりないだろう」
「だからといって、治るわけでもないじゃないか」
ソニアの言葉に、ジェスはため息を吐いた。それから、僅かに顔を青くしているカイルをじっと見つめること、数秒。
「―――まあ、病状によっては薬を作ってやるよ」
「え?」
「薬作れんの⁉」
カイルもソニアも、驚きの声を上げた。
薬を作るには専門知識を大量に頭の中に叩き込み、尚且つ高価な薬の素を幾つも購入しなくてはならない。頭が馬鹿であったら作れない。財力が無くては作れない。そんな代物をあっさりと作ると言ってのけた、ジェスの頭が信じられない。
「あ、けど無駄に知識だけは持っているか、君」
「無駄とはなんだ、無駄とは」
とても不服そうにジェスは舌打ちをして、ただし、と付け加えた。
「金はとるぞ」
「うわ、金の亡者」
「金欲しさに危険な遺跡に潜り込んだお前が言うか」
言った傍から、ツッコミを入れられた。まあ、否定はしない。ソニアはお金が大好きだ。
「薬の材料だってタダじゃないんだ。善意だけで人助けばかりしていたら、絶対に人生を駄目にするからな。とるものはきちんととる」
「けど、ボク、薬を買えるほどのお金は持っていないよ」
そりゃ、リンゴを買うお金すら困っていたのだから、当然の答えだろう。カイルの返答に、ジェスは当然のように返す。
「だから、自分で金を稼げるようになってからでいい。十年でも、二十年あとでも、別に困らないからな。ただ、しっかりきっちり、薬の分働いて金を返せっていうだけの話だ」
「……兄ちゃん、中々いい奴だな」
「……」
現状タダで薬を作ってもらえる、という喜びに目をきらきらと輝かせてセイルが言えば、ジェスは急に黙りこくった。どうしたのか、と思えば顔をそっぽに向けて、「何を馬鹿なことを」と呟いている。
どう考えても照れ隠しだ。
「おやおやまあまあ、クールぶっているジェス君は、人に褒められることに慣れていないのですかな?」
肘で何度もつんつんとジェスをつついていびれば、ジェスはソニアに聞こえるように大きな音の舌打ちをする。
「あ、あそこが家だよ」
カイルはそう呟いて、徐々に足早になっていく。家には病気の母親が一人、セイルの帰りを待っている。早く帰って、安心させたいのだろう。
周辺は若干古びた家が並ぶ住宅街。仄かな明かりだけが辺りをわずかに照らし出す、少し寂しい場所だった。
ここら辺は、下級層というらしい。お金をあまり持っておらず、高い買い物ができない人たちが身を寄せ合って住む場所。先ほどジェスから聞いた話だが、更にひどいところなど沢山あるらしく、家を持っているだけまだマシだとのこと。
まだ見ぬ、更にひどい光景を想像できず、ソニアはただ、今は目の前で嬉しそうに家に向かって駆けていくカイルの後姿を、微笑ましい気分で見つめていた。
「……ん?」
と、ジェスは怪訝そうに眉根を寄せた。
「どうしたの?」
「……気配がする」
「は?何の?どこから?」
ソニアはさっぱり分からず、辺りをきょろきょろと見渡した。
ジェスは深い海の色をした瞳を細めて、カイルの背中、明確には彼が向かう先を睨んだ。
「―――中」
呟いて、足元に魔力を集中させて―――突如として走り出す。
丁度扉を開いていたセイルの横を風のように通り過ぎて、狭く暗く、軋む廊下を通り抜ける。弾むように駆け抜けた先、比較的大きな一室に辿り着く前には、ジェスは腰の剣の柄に手をかけていた。
その先に居たのは―――黒い影のような化け物だ。丁度その傍には、顔色が悪い女性がベッドの上に横たわっていた。その姿をしっかりと確認したジェスは、一切の迷いなく、剣を引き抜いて、黒い化け物に向かって大きく振り切った。
黒い化け物は怯えたように震えて、急いで背後へ飛び退った。窓枠にとまり、まるで猫が威嚇するように体中の煙のようなものを逆立てた。
威嚇しているのだ。今しがた、何の躊躇もなく攻撃してきた未知なる敵に対して。
「な、なにあれ!」
「お母さん!」
やっとジェスの元に辿り着いたソニアは素っ頓狂な声を上げて、カイルは急いで自分の母親の元へ駆けつけて、母親の生存を確認した。
「何⁉何そいつ!」
「ちょっと黙っていろ!」
騒ぐソニアに一喝したジェスの声は鋭く、ソニアは思わず声を呑み込んで、改めてしっかりとその化け物を見た。
魔獣―――というには、あまりに獣の領域から外れた存在だった。体中は黒い煙のようなものに覆われ、それは時折本体から千切れては、大気に溶けて消えていく。唸っているのでどこかに発声器官があるのかもしれないが、まるで生き物の姿を似せた影のようなその存在に、果たして生物としての基本的な臓器があるのかすら怪しい。今、少し強い風が開いた窓から流れ込んでくる都度に、体のカタチそのものが揺れ動き、絶えず変化しているのだから、より一層、それを生き物という定義に当てはめてよいのか、迷うところだ。
そんな珍妙な敵に対して、ジェスは冷静に剣を構え直した。その瞳は、いつになく真剣だ。
敵の体が突如、震えたかと思えば、体中の煙が膨れ上がった。煙幕。瞬時に辺りは真っ黒な煙に覆われて、自分の手すら見えない状態となってしまう。
何をする気なのか。
思わず身構えたソニアの視界は、しかし、突如として開ける。
いや、切り裂かれたのだ。
煙を切り裂いたのは、淡く輝く刀身。それを振ったのは、当然だがジェスである。彼の剣先には黒い煙がまとわりつき、それも剣そのものに吸い込まれるようにして消えていく。
ぼとり、と。
何かの重いものが落ちる音が聞こえて足元を見れば、そこには丸い頭部が転がっていた。
「……!」
視線を動かして、それが何なのかをはっきりと把握したソニアは、小さな悲鳴を上げそうになって、しかしジェスに黙っていろ、と言われたことを思い出して息を止めて、悲鳴を飲み込んだ。
先ほどまで窓際まで後退していた化け物が、いつの間にかソニアのすぐそばまでやってきていて、大きな体を広げていた。その状態で、体は固まっていた。頭部は切り落とされていた。そして、床に落ちたのだ。
じゅわじゅわと嫌な音を立てながら、化け物の体と頭部にまとわりついていた黒い煙が消えていく。そこから現れたのは、何かの生き物の皮だ。少し吹けば待っていきそうなほど薄いそれが、床にぺたりと張り付いて、僅かに脈動し続ける。
生きている―――。
「死霊術か……やはりな」
見慣れた様子で、ジェスは皮の前に膝をつき、小さく皮に対して一礼する。とても丁寧で、恭しい一礼だった。
それから指を鳴らせば、突如として皮は青白い炎に包まれた。あっという間に皮は焼け溶けていく。ほんの、一瞬の後。再びジェスが指を鳴らせば、炎は現れた時と同様に突然消え去った。そこには焼け跡すら残っておらず、ただ、何事もなかったかのような静寂が室内に訪れた。
「……」
「……」
「……」
「……おい、呼吸しろ、呼吸。死ぬぞ」
「ぶはっ!」
ジェスの言葉に、やっとソニアは肺に溜めていた息を吐き出して、何度も何度も酸素を取り込んだ。
「な、なん、なんなの、あれ!化け物、化け物⁉」
それから今の今まで溜めていた言葉も一気に吐き出せば、ジェスは心底うるさそうに顔を歪めて答えた。
「死霊術だ。まあ、死んだ人間の体の一部に魔法をかけることにより、その肉体の持ち主だった魂を呼び起こし、術者の思い通りに使役する術っていうところか。因みに俺が出した青白い炎は、その死霊術を解除する魔法だ」
「へ、へえ。そんなものがあるんだ……。死んだ人を操るなんて、ひどいことをするなあ」
「な、なんで、ボクの家にそんな奴が来ていたんだ……?」
カイルは心底心配そうに、答えを求めてジェスを見つめる。どうやら、この場で一番頼りがいのある人物はジェスだと完全に理解したらしい。
「ああ、それは……」
ジェスはいつもの調子で答えようとして、それから口を噤んだ。しばらく考えた様子だったが、やがて無言でカイルの母親の顔色を窺った。
「……そんなことより、まずはお袋さんの治療の方が先決だろう?」
そう言って、ジェスはまるで医者がするように、触診から始め、カイルの母親の首筋に触れた。
「食欲は?」
そして、カイルに突如、質問を投げかけた。カイルは思い出すように視線を彷徨わせ、ゆっくり、しっかりと答えた。
「うん。殆どない。たまに起きるくらいだから」
「意識も殆どないのか」
「そうなる。かなり痩せてきていて……」
「起きている時、話はできるのか?」
「ちょっとだけ。けど喋るとかなり疲れるみたいで、すぐに寝てしまうんだ」
「病状自体は、どれほど前から起こっていた?」
「一か月くらい前からかな。段々と眠る時間が増えてきて……」
どうやらしばらくかかりそうだ。二人の邪魔をしないためにも、ソニアは足音すら潜めて、そっと部屋から廊下に出た。
そうして、やはりそっと扉を閉じて、
「あれ?」
ドアノブを静かに戻してから、ふと先ほどの光景を思い出して、ソニアは首を傾げた。
先ほど、ジェスは青白い炎は魔法だ、と言った。
だが、呪文を唱えていなかった。
魔法を発動するには、呪文を必ず唱えなければならないのに。
一体―――どういうことなのだろうか。
暗闇。一つ、灯っているのは青い炎。その傍に人影は一つ。すぐ近くにあるらしい、木組みの簡単な壁に、長髪の人間の影がうっすらと映っていた。
青い炎は一瞬揺らぎ、しかしすぐに戻った。
「……運命を断ち切ったか」
老人のような、しかし若者のような、年齢が読めない、性別すら読めない声が、虚空に広がっていく。
「成程、魔導が衰退した現代も、捨てたものではない、ということか」
少し楽しそうに、少し嬉しそうに。
「我が力の一端を破った褒美はやらねばな」
そう呟いた、声に呼応するかのように。
青い炎の中に、栗色の髪に、空のような真っ青な瞳を持つ少女。ソニア・ストライカーの怪訝そうな顔が、浮かび上がっていた。
伏線は張っています。かなり。
次話までの感覚は短い……はず。