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家の周りの草が、美羽の背丈を越えるほどに伸びてきた。草を刈ることをしないので、外で仕事をしていると美羽は、草に囲まれて方向すら見失う。一度戻れなくなり沢に落ちたことがあって以来、美羽の仕事はもっぱら室内でアクセサリーを作ることになった。アクセサリーの材料は、狼に姿を変えたシュウが、一晩かけて仕入れてくる。
一人で家にいることに不安はあったが、狼の姿をとったシュウが一晩かかる場所。ついて行く自信のない美羽は、黙って待つしかなかった。
その夜も、美羽は一人で待っていた。戸締りなどない家、不安を隠せずに部屋の隅に座り込む。今夜は、空に月はいない。
気がついたら、美羽は闇の中にいた。自分の指先すら見えないような闇の中。誰もいない。月も星も、空にいない。怖い。一人は、怖い。不意に、病院でみた母の顔が脳裏に浮かぶ。一人になってしまったのだと、突き付けられた。置いていかないで、一人にしないで。必死に叫びたかったが、言葉は出てこなかった。ただ、涙だけがとめどなく頬を伝う。見えない両手で顔を覆って声にならない声で何度も叫ぶ。
「ごめんね、美羽。」
暖かい腕に抱きとられる感覚に顔を上げれば、母がそこにいる。ふれた腕は暖かく、小さな頃に抱かれたそのままの腕。美羽は母が消えないように、必死でしがみついた。
「ごめんね、美羽。一人にして、ごめんね」
声が聞こえたと思ったら、暖かかった腕はかき消えてしまった。
暖かかった腕と一緒に、闇も消えた。
空気は澄み、水が流れる音が聞こえる。アップルティーの香りが部屋一杯に広がっている。
ああ、シュウの家だ。でも、窓の外の木々は白い帽子をかぶり、背の高い草は跡形もなく消えて、真っ白な世界が広がっている。キッチンでは、髪の長い女性がゆったりと紅茶を入れている。
「はじめまして、美羽さん」
紅茶を手に振り返ったのは、シュウの母。なぜわかるのか、と不思議に思うこともなかった。
シュウの母は、美羽に良く見えるように、ゆっくりと紅茶を入れる。恐怖は微塵もなかったが、さっきと同じように声が出ない。
「シュウを、お願いね」
笑った顔、優しげな灰色の瞳は、シュウとよく似ている。
「おい!おい!大丈夫か?」
目をあけると色を無くしたシュウの顔。いつの間に帰ってきたのだろう。
「お帰り、なさい」
今度は、声が出た。シュウが音を立てて息をついた。
「寝ていたのか……」
いつの間にか、床で眠ってしまったらしい。体中が痛い。シュウの手を借りて、ゆっくりと起き上がる。支えてくれる手が、ひどく冷たい。
「ごめんね、心配かけて」
「ああ」
いつもより少し不機嫌な顔で、朝食の支度をしてくれる。
「紅茶、私が入れるよ」
「ああ」
一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに場所を譲ってくれた。夢の中で女性がしていたのを真似て、リンゴを切って湯通し、紅茶をいれた。カップを手渡すと、シュウが目を丸くしている。
「母さんと、良く似ている。味も」
「昨夜、教えてもらったの」
昨日見た夢の話をすると、真剣に聞いてくれた。
「アンタが寝ていた場所、な。母さんが、倒れた場所なんだ」
それで、あんなに驚いていたのか。美羽は、もう一度謝った。
「アンタが還る方法、可能性が、見つかった」
アップルティーを呑み終えたシュウが呟いた。
「アンタが来たのは、霧の深い満月の夜。少なくともこっちはそうだった。過去に、この世界に迷い込んだものは、みんな満月の夜に深い霧と共にきている。そして、還る時も満月の夜。深い霧と共に居なくなっている。この世界から、隣の世界に行ってしまった者も同じ。だから、アンタの場合も満月の夜、霧が出たら還れる、かもしれない」
「満月の、夜」
「そう。もし、満月の夜に霧が出たら、霧の中にいれば、還れる、かもしれない」
還る、この世界でシュウの庇護を離れて、母のいない自分の世界に。
友人は待っていてくれるだろう。憧れだった高校だって、合格した。いつかハンドメイドのお店をやりたいね、と笑った母、二人の夢。第一、自分が帰らなければ、母のお墓はどうなるのだろう。
でも、還っても、一人だ。誰も居ない家で、毎日、一人。
言葉にできない思いが、頬を伝う。
「アンタが還りたいと思うなら、なにも言わずに還っても構わない。この世界にいるのなら、アンタは俺の妹だ。ここにいればいい」
鋭く、真直ぐな視線が美羽を射抜く。シュウは、美羽の覚悟が決まれば、それを受け入れてくれる。
覚悟もないまま、季節は巡る。
満月の夜が来るたびに、決断の時が来ることに怯えていた。
市場に行ったときに、シュウは暖かい服を買ってくれた。
「すぐに還る予定は、無いんだろう?」
そう言って、外套や帽子まで買ってくれた。美羽が作るアクサリーは好評だが、服を買ってもらうような金額にはならない。大丈夫なのかと聞けば笑われた。
「大丈夫だから、気にするな」
不思議な事は他にもある。シュウは、市場に行くときはいつも同じ外衣を身につける。真夏の空のような色に、太陽の色の糸で刺繍が施された衣で、よく似合ってはいる。だが、家にいる時は、もっと落ち着いた色で布地も刺繍の糸すらも全く異なる高級感のある衣を身につけている。
どこで買ってくるのか、家にはいつも市場では見かけないような缶に入った紅茶が置いてある。家は粗末だが、置かれてある家具はすべて、一目でわかるほど良質な物ばかり。
そしてシュウは、どうしてかそれを隠している。




