追憶
そんなある日のこと。
「うわぁぁああん」と、女の子の泣き声が聞こえた。
ムッとする空気が纏わりつく熱い夏の日だった。学校からの帰り道、ランドセルが汗で背中に張り付くのを不快に思っていたら急に聞こえてきたのだ。
雑木林の脇で僕は足を止めて、何事かと辺りを見回した。
雲が翳り始めた住宅地はしんと静まり返っていたから、女の子の泣き声がよく響いていた。
お腹の底から「もう本当に嫌です!」と訴えている泣き声――というよりも叫び。
救い求める人がいるなら助けなくては、と義憤に駆られた僕はランドセルを放り投げ、声のする方に踏み出していった。
路地の角を曲がると、見慣れたシルエットが目に飛び込んだ。
隣の家で飼われているゴールデンレトリバーのマックスだった。マックスは脱走の才能があり、家を抜け出しては町内を闊歩する経歴を持つ。
そのマックスが尻尾をフリフリさせ、腰を抜かして泣き叫ぶ女の子の頬をペロペロ舐めていた。
「わあぁぁあん、おかあさぁあん、食べられちゃうよぉ」
体を強張らせた女の子はいやいやをしながら迫るマックスを押し返そうとしているが、結局は力負けして頬を涎まみれにされていた。
「おい、マックス」
僕に気づいたマックスがこれ以上ないほどに困り果てた顔を向ける。体は大きいが温厚な性格なのだ。きっと驚かせてしまった女の子に敵意がないことを証明していたつもりなのだろう。
僕はマックスの肩を叩いて、目配せした。マックスはがっくりと項垂れ、クゥーンと漏らして去って行った。
「大丈夫?」
「えっえっ、ううぅ」
小さな嗚咽をこぼす女の子に手を差し出した。
眉までかかった髪をかき分け、その子は僕の目を見た。
鳶色の瞳に涙を溜めた弱弱しい顔つき。ほっそりとした体と、雪のように白い肌。風になびく髪と純白のワンピースが黄昏時の中で色濃く映った。
女の子は片方の手で涙を拭い、もう片方の手で僕の手を取り立ち上がった。
そして食い入るように見つめていた僕へ、渾身のビンタを見舞ったのだ。
「へぶっ!」
僕は思わずしりもちをつく。首がもげるかと思った。
「バカ! 気付いてたならもっと早く助けなさいよ!」
これが僕達の出会いだった。月町ユキを知ったのは、『恩を仇で返す』を体感した日でもあった。
僕はヒリヒリと痛む頬をさすりながら歩く。その後を女の子がついてくる。
「どこ行くのよ?」
「丘の上にある公園。いつもの日課があるの」
「ふーん」
女の子は興味なさそうに言う。
「丘の上じゃなきゃダメなの?」
「うん」
「公園なら近くにもあるのになぁ」
ウェッジサンダルの踵を気にしながら退屈そうに言った。
そうまでしてついてくる理由がわからない。その前にビンタをされたことも納得がいかない。ただ、何か言うと角が立ちそうなので僕は黙って歩いていた。
「あたし月町ユキ、あんたは?」
「僕?」
「他に誰がいんのよ」
「片桐蔵雅」
「そっか・・・・・・ねえ蔵雅、あんたをボディーガードにしてあげる。あたし今日引っ越してきたばかりでこの街のことよくわかんないのよね。だからあんたが案内しなさい、あたしのことも護ること、いいわね?」
「え? 勝手に決めないでよ。僕にだってやることがあるし、あの張り手があればボディーガードなんて必要ないでしょ」
ユキがはたと足を止める。
ワンピースの裾を掴んで、うぅぅと泣きそうな目で僕を睨む。
「うん! 君のこと護る! それにさ、ちょうど誰かに街を案内してあげたい気分だったんだ!」
ユキは指先で目を擦り、腰に手を当ててむふーと満足そうに微笑んだ。
「わかればいいのよ。ほら、さっさと歩く」
「でも、明日からにしない? 今日は一人で帰ってよ」
「いいから歩きなさい!」
「・・・・・・はい」
気まずい。どうしてこの子は僕から離れてくれないんだろう。
考えていて、ふいに閃いた。
「もしかしてマックスが怖いの?」
ユキが急所を突かれたように青ざめた。
「あはははは、ユキって怖がり? あんな人懐っこい犬を怖がる人なんていないよ。あはははは」
ユキの心を言い当てて得意げになっていた僕は迫る足音に気づかなかった。
二回目のビンタは顎の関節が外れる勢いだった。
雑居ビルと真新しい家屋の並んだ路地を抜け、僕たちは丘の上の公園を目指して歩き続けた。蒸し暑さに淀んだ空気の中に街の雑踏がたゆたっていたが、次第にそれも遠のいていった。
汗ばんで疲弊した体に夕焼け色の涼しい風が抜ける。気持ちがいいけど、ビンタの後遺症で頭がクラクラした。
ようやく公園に着いた時には、もう陽が沈む準備をしていた。
夕闇の色が濃くなると、ここに来た意味がなくなる。
「なによこの公園、なんにもないじゃない」
ユキは首を傾げて言った。
丘の公園はベンチがあるだけで、遊具は設置されていない。
「遊ぶために来たわけじゃないから」
「え? じゃあどうして」
「星を見るためだよ」
僕はベンチに腰かけ、空を見上げて言った。
「まだ星を見るには早すぎない?」
ユキも僕の隣に座って言う。
「昔の飛行機乗りはこうやって目を鍛えたんだ。だから僕も――」
そこまで言いかけて気づく。僕は自分の夢を誰かに話すのが嫌だった。
以前、友達に夢を話したとき、ゲラゲラと笑われたことがある。見下されたような笑いが僕の自尊心にグサっと突き刺さった。ああ、思い出したくもない。
ユキはキョトンとして僕の言葉を待っている。
「なによ?」
「いや・・・・・・ええと。パイロットになりたいなあ、なんてね」
できるだけ言葉を軽くしてみた。僕は笑われることを恐れていたけど、ユキの反応は予想と違った。
「そっか。いいね、素敵なことだと思う」
ユキは空を見上げて言った。
僕は思わず彼女を見た。足をプラプラさせて上機嫌と言った様子だった。ユキを介して流れてきた風は、甘い匂いがした。
「笑わないの?」
「どうしてよ、笑うとこあった?」
ユキが不思議そうな顔で言った。
「あたしのお父さん、機械が人を幸せにするって信じてずっと研究してる。誰かを笑顔にするのが夢なんだって言ってね。そういうの、あたしもいいなって思う。誰かが夢を持ってると、笑顔になれるもの」
彼女が柔らかく言って微笑むと、僕も心が弾む。
目眩がするくらいの高鳴りを覚えた。僕を理解してくれる人がいてくれたことが嬉しかった。
「僕の父さん自衛隊の戦闘機乗りなんだよ、あの空を誰よりも速く飛べるエースなんだ」
「うそ! すごい!」
あんまり目を輝かせるから、僕の気持ちもつい舞い上がってしまうのだ。
「パイロットは空の素晴らしさを伝えるためになるものだって父さんが言ってた。いつか僕も」
「素敵じゃない」
「ありがとう、ユキに言ってよかったよ。でも、誰にも言わないでね」
「ふふ、誰かに人の夢を言いふらす趣味はないわ」
僕とユキは空を見ていた。
藍色の空に星の光が点々と浮かび始め、街の灯が雲を鮮やかに染めていた。
「えへへ」
「なに?」
「あたしの目に狂いはなかったわ。あんたをボディーガードにして正解」
「そうかなあ」
「そうよ。夢を持ってる人って好き」
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸に生まれた疼きがゆっくりと体に染み渡っていった。胸の高まりは抑えが利かず、顔が真っ赤になった。
「いつか乗せてね」
「え?」
「飛行機」
「うん」
僕はボーっとしてしまっていて、無意識に頷いた。胸の奥にツキンと甘い痛みが走り、妙に気恥ずかしくなって彼女を見られずにいた。この感情をどう沈めればいいのかわからなくて、空ばかり見ていた。