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「温泉?」
「はい。私の家には、地面から湧き出るお湯があります。そのお湯を使って、いつでもお風呂に入れるようになっているのですよ。勿論、通常の水を沸かして入れる風呂もありますが、いつでも湧き出ているため、好きな時に入ることが出来るのです」
私の説明に、瞳をきらきら輝かせて食い入るように聞き入るマリー様。思わず抱きしめそうになる自分との戦いに勝利できたのは奇跡に近いほど、無邪気なお姿でした。
他にも、妻として何をしなければならないのか、何が出来るのかも伝え、私の元へ来ていただけたら、どれだけ喜ぶかも告げて、マリー様が私のところへ来てくださるよう、願いました。
マリー様は、三人の話を聞いて、少し考えてみる、と部屋へ戻っていかれました。
どのような結果になるのか、どきどきと考えているとき、自分のマリー様への求婚を思い出し、顔が蒼白になりました。
私がマリー様を愛していることは、皆に知れ渡っておりました。それゆえ、私はマリー様に条件ばかりを言うことに必死になり、愛を告げるのを忘れていたのです。
私がいくら緊張していたからといって、花の一つも用意せず、愛を囁くことすらしない求婚。そんなものをマリー様が選んでくださることがあるでしょうか? 殿下やケイリー殿という、立派な求婚者がいるという状況で。
結婚した際の条件のみしか告げられない求婚など、一考にも値しないものと切り捨てられる様が浮かんだ私は、その場に頽れ、頭を抱えました。
どうすれば良いのでしょう。マリー様が、考えると仰って戻られてから、結構な時間が過ぎています。
今更、付け足しの様に愛を語りに行っても、マリー様を惑わせてしまうだけでしょうか? しかし、例えそうだとしても。お心が決まったマリー様を煩わせる結果となってしまっても、今のまま、諦めることは出来ませんでした。
みっともなく取り縋って、マリー様の優しいお心に付け込むこととなっても、マリー様と共にありたい。そんな浅ましい願いが胸を占めます。
マリー様のことを考えていない、自分勝手な願い。神に言われたこととは反する想い。それでも、いたい。共にいられないこと以外、マリー様が望んだことは全て叶えるから。何でもするから傍にいさせてほしい。
私は、きっと顔を上げると、マリー様に話をするため、扉を開きました。
「うわっと。……フランツさん、お出かけだった?」
開いた扉の目の前に、目的の人物がおりました。丁度ノックするところだったのか、握り拳を上げていたマリー様は、急に開いた扉に驚かれたようでした。
「い、いえ。マリー様こそ、私にご用ですか?」
慌てて首を振る私を、少し怪訝そうに見られたマリー様を部屋へとご案内し、テーブルを挟んで、向かい合って座ります。マリー様のご用件は、十中八九、求婚へのお断りでしょう。そう思っていたのですが。
「えっと、色々と考えた結果、フランツさんのところにお世話になろうかな、と」
「え?」
都合の良い幻聴が聞こえた気がして、思わず声を上げた私に、マリー様がちょこんとお辞儀をされ、私に仰いました。
「これから、よろしくお願いします」
これは、現実の出来事なのでしょうか? 私は、頭が真っ白になり、マリー様が怪訝そうに目の前で手を振るまで、固まり続けていたようです。
「……フランツさん?」
おーい、返事してー、再起動ボタンどこー? と、頭に伸びてくる手を両手で掴み、信じられない気持ちのまま、問いかけます。
「私を選んでくださったのですか? 本当に?」
「はい、お願いします」
「よろしいのですか?」
「そうでなければ来ないでしょ。他に二件も魅力的なお誘いがあったんだから」
くすくす笑いながら言うマリー様。そのお姿が段々歪んでいき、マリー様が慌ててこちらに回ってこられました。
「って、うわっ! ふ、フランツさん、何で泣いてるの!?」
どうやら、私は涙を流していたようです。
「え? 何? ど、どうして? わ、私が嫌なら他行くから、泣き止もー?」
ハンカチを差し出しながら、あわあわと宥めようとするマリー様を抱きしめ、私は言葉を搾り出しました。
「いえ、違います。嬉しくて。選んでいただけるとは、思っていなかったので……」
胸に抱きこんだマリー様は、震える背中を優しく叩きながら、仰ってくださいました。
「えっと、私、フランツさんのこと、好きだよ? 旅の間中、私のこと守ってくれたし、何かと気にかけてくれたし、髪とかやってもらえるの助かってたし」
マリー様の思わぬ言葉に、ばっと身体を離し、顔を見つめると、マリー様がにっこりと微笑まれて仰るのです。
「それにほら、格好良いし、手足もすらっと長くて、腰が抜けるような美声は正に、抱かれたい男ナンバーワン! ……だったかな?」
生憎、最後の言葉は小さく呟かれたために聞き取れませんでしたが、その前の時点で、私の顔は真っ赤になっていたことでしょう。
その後も、マリー様は、やれ温かいだの、やれほっとするだの、私のことをこれでもかと言わんばかりに褒めそやしてくださったのです。
私が、天にも昇る心地となったのは当然です。まさか、マリー様が私のことを、ここまで想っていてくださったなんて……。
先程とは一転、感動に打ち震える私に、マリー様が仰いました。
「ところで、フランツさん。私、いつからそちらにごやっかいになれるのかな?」
その言葉に、暫し考えるも、答えは決まっておりました。
「いつでも。出来るようならば、本日からおいでいただきたいくらいですので」
本来は、マリー様を受け入れるための準備、マリー様が城を離れるための準備に一週間ほど、と思っておりました。けれど、先程聞かされたマリー様の想いに、私の心は乱れに乱れ、今すぐマリー様を、私以外が触れることの出来ない場所に閉じ込めてしまいたい気持ちでいっぱいだったのです。
結局、マリー様が荷物を整えると同時に、私はマリー様をさらう様に、家へとお連れしました。
「ところでご主人様」
馬車の中で、マリー様に呼びかけられた言葉に、私は動揺しました。
「どうなさいました、マリー様? そ、そして、その呼び方は……」
マリー様は、これから夫婦となるからには、私を主として敬うべき、という考えのようでした。
私としては、とんでもないことでしたので、何とか阻止しようとしたところ、交換条件として、マリー様を呼び捨てにすることを約束させられました。その代わり、二人きりの際は、マリー様にも私を呼び捨てにしてもらう約束を取り付けることができました。
「フランツ」
マリー様の声が、私を甘く呼ぶ。それだけのことで、頭がくらくらとしてまいります。眼のくらむような幸せに浸りながら、暫く会話を続けていると、マリー様が、キラキラと輝く瞳で、こう聞いてきたのです。
「ねぇ、温泉入ってもいい?」
私は、これ以上ないほどうろたえました。
結婚した男女が新居に入り、女性が風呂に入ると宣言するということは……。
「そ、それは、勿論構いません。ただ、お疲れのようでしたら、後日、いつでも構わないのですよ?」
私は、精一杯、平静を装い、自分の心を落ち着けながら返しました。流石に、長旅で疲れているその日に、蜜月に突入というのは、男である私は構わず ――むしろ望むところである―― とも、女性には、相当の負担となるのではないかと。
けれど、そんな私の必死の自制も気付かず、マリー様は無邪気に仰られたのです。
「ううん、着いたらすぐに入りたい。駄目かなぁ?」
「い、いえ。その。それは、勿論駄目ではありません。歓迎いたします」
私には、それ以外の言葉を言う余裕はありませんでした。
温泉温泉、楽しみ~、と、馬車の中で、存分に煽られた私は、今すぐ襲い掛かりそうな自分の欲望をありったけの理性で押さえつけることに全力を尽くさねばなりませんでした。




