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茄子の花  作者: 隅田 ササ
小学校
3/7

ガラスが割れた音





秋良から、父の会社が危ないと聞いた日から、一週間が経とうとしていた。


芳美も孝夫も、華那子に直接話すことはなかったが、日に日に窶れていく芳美を見てただ事ではないことを華那子はようやく理解し始めた。





「家に帰りたくない」



三年の教室まで迎に来た秋良に向かって、華那子は小さな声で言った。どうして?優しい声色で華那子の顔を覗き込みながら秋良は訊いた。



「だって、静かだから。」



顔をあげた華那子が、秋良を真っ直ぐ見つめて寂しそうに呟いた。机に視線を落とした華那子は、ランドセルを抱き締めながら続けた。


前は家に帰ると母が笑顔で、おかえり、と迎えてくれたのに、今は話しかけるまで自分が帰ってきた事に気付いてくれない。と

それがたまらなく寂しいんだと華那子は秋良に伝えた。


それだけじゃない。大好きなお菓子も食べられなくなった。夕飯の時間に笑顔が消えた。学校であった出来事を聞いてくれる人はもう居ない。


前の家族と比べると、とても寂しくなる。あんな静かな家には帰りたくない。



「大丈夫だよ。俺が居るよ。学校であった話も俺が聞いてあげるから。ね、帰ろう」



きっとお母さん待ってるよ。秋良はそう付け足すと、華那子の手を差し出した。華那子は渋々ランドセルを背負うと差し出された秋良の手を握った。






「ただいま」やっぱり何も返ってこない。奥に芳美はいるはずなのに。ガックリと首を折る華那子の手を優しく握ってやる事しか出来ない秋良は、悔しさに唇を少しだけ噛んだ。



「ピアノ弾いて遊ぼうか」



秋良の提案に華那子の顔は一瞬で笑顔を取り戻した。華那子はピアノを弾くのが好きだった

ホッと胸をなでおろした秋良は、ピアノのある部屋のドアを開けて固まった



「お兄ちゃんどうしたの?」後ろで不思議そうな顔をする華那子を見て、秋良は咄嗟に部屋のドアを閉めた



「ピアノはまた今度にしよう」華那子は眉間に皺を寄せながら不服そうな顔をした。嫌だ!ピアノ弾く!ピアノで遊ぶんだ!言うことをきかない華那子は、秋良を押し退けピアノの部屋のドアを開けた


何秒か前の秋良と同じように、華那子も固まってしまった。



8畳程のピアノを置くためだけに作られた部屋にぎっしりと存在していたグランドピアノは無くなっていた。



「なんで?」不安そうな声で取り乱す華那子。お金を工面するために売られたのだと、秋良は直ぐにわかった。グランドピアノは華那子にとって宝物同然だった。パニックになり泣き出した華那子をなんとか泣きやませようと努力をしてみたが、華那子の悲痛な泣き声は空っぽの部屋に響き続けた。




華那子の泣き声に気が付いた芳美が、ドアから顔を覗かせた。お母さん!!気付いた華那子は芳美の胸に飛び込んだ


「ピアノがない!ピアノがないの」



泣きながら訴える我が子を、芳美は胸が引き裂かれる思いで抱き締めた。何度も力なく、ごめんね―と、謝り続けた。泣き喚く華那子の耳には届いていなかったが、少し離れた場所でそんな親子の姿を、秋良はただ呆然と眺めていた。


得体の知れない恐怖が近づいて来ている感覚だった。なくなってしまうかもしれない。今までの当たり前の幸せが。小学生ながらに、秋良はそんなことを思っていた。




ピアノが家から消えたのをきっかけに、家からは色んなものがお金へと姿を変えていった。


芳美のブランドバック、孝夫の高級車。家の中はどんどん空っぽになっていった

華那子の心には寂しさばかりが募っていった。



「お金なんて、大嫌い」



秋良の部屋で漫画を読んでいた華那子が、独り言のように呟いた。秋良は驚き、思わず勉強する手を止めた。


秋良の心配は膨らむばかりだった。まだ小学校三年生の女の子が、お金に対して恨みを持ってしまうなんて。



「お母さんは私にお金のことを、大事なもの。って言った。間違いないと思う。私の大事なものはお金に変わったもんね」



華那子のいう大事なもの。とは、ピアノのことだろうか。秋良は家からなくなった家具を思いだす



「お金は、大事なものを奪っていくよ。」



孝夫の会社と、芳美の精神はもうギリギリだった。崖っぷちに立たされているような常に青ざめた顔の両親を見ているのは辛かった。


華那子と秋良が寝てから始まる夫婦喧嘩はついに、子供達の前だろうが構わず行われるようになった。



「もう我慢できない!離婚よ!離婚してちょうだいお願いだから―」芳美が泣きながら、孝夫に頼み込んだ。その姿をボーッと見ていた華那子の手を、秋良は何も言わずに握った。




孝夫が離婚に応じたのは、会社が倒産してから2週間ほど経ってからだった。孝夫も芳美も、以前とは信じられないほど痩せこけてしまった。


孝夫は何度も芳美に考え直してくれと頼んだが、芳美の返事はNOの一点張りだった。



芳美は幼少期、とても貧乏な経験をしてきた。

もう二度とあんな生活には戻りたくない。お金持ちだから結婚を決めたのに。そう吐き捨てるように浴びせられた言葉に、孝夫は涙を流しながら離婚届にサインをした。



「愛してなかったのか?」孝夫の声が、静かすぎる部屋に響きわたった。


芳美は何も答えずに荷物を纏める手を止めなかった




「必要なものだけ纏めなさい。」




芳美にそう言われた華那子は、自分の部屋で必要なものを選んでいた。大好きだったぬいぐるみは、全部持っていくことを許されなかった。お気に入りの洋服も全部は持っていけない。


必要なものだけ。ここにあるものは全部必要なものだよ。選ぶことなんかしたくない。華那子は泣きながら、連れていけないぬいぐるみに、ごめんね、と謝った。




必要最低限の荷物を纏め、芳美に手を引かれ駅に向かって歩き出した。どこに行くの?その問い掛けに芳美は前を向いたまま、ダンマリを決め込んだ。


振り返ると孝夫が家の前で立ち尽くしていた。孝夫の目からは涙がボロボロと溢れている。華那子は思わず足を止めて、芳美の手を引っ張る。


「何をしてるの?行くわよ。」芳美は、一度も振り返ることをしなかった。


華那子は孝夫が見えなくなるまでずっと後ろを向きながら歩いた。父の泣き顔など初めて見たから衝撃を隠せなかった。



「お父さんは一緒に行かないの?」



芳美に訊いたが、変わらずダンマリを決め込む芳美の代わりに秋良がギュッと目を閉じた。



そんな秋良を見て、何故だか、もうお父さんには会えないんだな。と思った。最後は会話もさせてもらえなかった。ここまで育ててくれた感謝すら伝えられずに父と離れ離れになった



乗り込んだ電車。車窓から見える景色は慣れ親しんだ土地から一瞬で遠のいていった。

これから何処に行くんだろう。華那子の心には不安しかなかった。



次第に景色はビルが多くなり、初めて降り立ったこの地が、華那子には灰色に見えた。

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