変化
芳美が帰ってきたのは19時を少し過ぎてからだった。空腹も限界。待ちくたびれた華那子は鍵の開く音を聞いて玄関へと飛び出した。
まるで主人の帰りを待ち侘びた犬のように、ドアの向こうの芳美の笑顔を期待した。
しかし、開いたドアの向こうの芳美は、絶望のような、それでいて怒りも隠しきれない、なんとも複雑な表情をしていた。
その後ろに続く秋良は、目を真っ赤に充血させ、瞼を腫らしている。最後に玄関に入ってきたのは孝夫。
学校で何かあったのだろうか。泣いている秋良を見て華那子は、怪我でもしたんじゃないか。と秋良の体をよく見てみたが特に怪我はしていないようだった。
なら何故、兄はこんなに泣いているのか。両親はこんなに怒っているのか。疑問に思うと同時に、自分だけが仲間はずれにされているような感覚に陥った。
何も連絡もなくこんな時間まで一人で留守番をさせられたんだ。華那子の顔から笑顔は消え、玄関に佇む三人を少しだけ睨みつけた。
そんな華那子の気など知れず、孝夫は溜息をつきながら座り込み靴を脱ぐと、低い声でいった
「秋良。飯は抜きだ。部屋に行け。」
驚いた。孝夫のその言葉にも驚いたが、秋良は素直に2階の自分の部屋へ向かったのにも驚いた。
お腹がすいてないの?そんな事しか考えられなかった。
秋良が消えていった2階を見つめながら、芳美も溜息をついた。芳美の手にはコンビニ袋がぶら下がっていた。
「ただいま。こんな時間まで一人にして悪かったわね。大丈夫だった?」
秋良のことが気になったが、華那子は、芳美が心配してくれた事が嬉しくて、笑顔を作り芳美に駆け寄る。
「遅くなったから今日はお弁当でいいね。好きなお弁当選んでいいよ。」
芳美が広げたコンビニ袋の中には弁当が三つ入っていた。最初から兄の分は買わなかったんだ。最初から兄には夜飯を食べさせないつもりだったんだ。そう思うと何だか兄に対して申し訳ないようにも思えた
電子レンジで温めた弁当を食べながら、華那子は両親に訊いた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
その問い掛けに、二人は顔を見合った後、口を開いたのは孝夫の方だった。
「秋良は、友達のものを盗んだんだ。だから、先生にもお父さんたちにも怒られたんだよ」
「盗んだって何を?」間髪入れずにそう訊くと、今度は芳美がいった。
「とても大事なもの。」
とても大事なもの――華那子は弁当を頬張りながら色んなものを想像した。大事なもの。大事なもの。
盗みたくなる程の大事なもの。
兄は一体、何が欲しかったんだろう
「ご馳走様。」
孝夫は弁当を半分以上、残していた。
「もうご馳走様?」不思議そうな顔をする華那子を優しく見つめたあと、孝夫は弁当を流しのゴミ箱へと捨てた。バサバサ…やけにその音が脳に響いた気がした。
ふと見えてしまった孝夫の横顔は、今まで見た事の無い辛そうなものだった。
そんな父の表情に戸惑った華那子は、見なかったことにして再び、大事なもの。について考えた。
弁当を全て平らげる頃になっても、結局分からなかった。華那子は、自分の家がお金持ちだと、子供ながらに理解していたからだ
欲しいものは言えば買ってもらえた。夏休みは必ず海外に旅行に行った。小学校の入学祝いには、立派なグランドピアノを貰った。
芳美はいつも小奇麗な格好をしていて、その殆どの服がブランドのものだった。
孝夫は自慢の高級車をいつもピカピカに磨くのが好きだった。趣味はゴルフ。
玄関にはゴルフ道具がずらりと並んでいる。
孝夫は、社長だ。
だからこんなにも良い暮らしが出来る。家も大きくて広い。使ってない部屋だってある。庭も立派だ
友達が来れば誰もが華那子を羨んだ。
だからこそわからなかった。兄は何が欲しかったのだろうか。孝夫にも買い与えることが出来ないものだったのだろうか。
「もう、お風呂に入って寝なさい。」
夕飯の後片付けをしながら芳美が言った。華那子は素直にそれに従い、風呂の中でも大事なものを考えてみた。髪をドライヤーで乾かしている時も。歯を磨いている時も。
気になって仕方がなかった。布団に潜り込み目を閉じても眠気はない。
布団から出て足音をたてないように秋良の部屋へ向かった。そうっと、静かにドアを開けて中を覗き込むと、秋良はまだ起きていた。
勉強机に座りシャーペンを握っている姿を見て、宿題でもしていたのかな。と解釈する
「どうした?おしっこ?」
華那子は首を横に振った。そこに突っ立っている華那子を不思議そうに見つめた秋良の顔色を伺いながら思いきって訊いた
「何を盗んだの?」
秋良はシャーペンを動かす手を止め、勉強机に戻した視線を再び華那子に移した。
「何か欲しいものがあれば、お父さんとお母さんに言えばいいのに。」
秋良は淡々と喋る華那子に、フッと鼻で笑う。
「買えないものだから、盗んだんだよ。」
ますますわからなかった。買えないものとは何なのか。仮にあったとしても何故そんなものが学校なんかにあるのか。
速くその正体を知りたい。顔に出ていたのか、秋良はシャーペンを置くと、クルリと椅子を回して華那子に対して正面を向いた。
「お金だよ。給食費を盗んだんだ。」
拍子抜けしてしまった。お金なんて、どうして盗むの?それこそ孝夫にいえば、お小遣いなんていくらだって貰える。
華那子はそう伝えようと息を吸ったが、芳美が―とても大事なもの。といっていたのを思い出した
「お金が欲しかったの?」
「そうだよ」
秋良は依然として冷静だった。再びシャーペンを手に取った秋良は、勉強机に向き直し宿題の続きを始めた。
どうして他人のお金が欲しかったのか?孝夫からのお小遣いでは駄目だったのか。まだ訊きたいことはあったが、秋良がそれを許さない空気を放っていた。
なんだかモヤモヤが残ったまま、秋良の部屋を出ようと背を向けた時だった。
「…お父さんの会社、危ないみたいだよ」
まだ子供だった華那子には、それが何に繋がるのかまで考えることは出来なかった。
何よりも自分の父親の会社が危ない。など、今まで一度だって想像したことはないのだから。
産まれた瞬間から、金銭的に甘やかされて育てられた華那子を心配していた秋良は、穏やかな口調で続けた。
「倒産しそうなんだ。だからお金が必要だったんだよ。華那子もそろそろ狂った金銭感覚、直しとかないと後で苦労するよ。」
秋良が人の給食費を盗んだ理由は、実に単純なものだった。家の為。ただ、それだけ。
毎晩繰り広げられる夫婦喧嘩の理由を秋良はわかっていた。たった給食費で倒産寸前の会社を抱える家族が助かるなど不可能な話だが、少しでも芳美を楽にしたいという想いから、秋良は体育の時間、誰も居ない教室で友達のランドセルを開けた。
盗むのは簡単だった。悪い事をしている感覚はなかった。だって、家族のためにしてるから。
秋良にとってその行為は、むしろ良いことだった。
秋良からそんな話を聞かされて、華那子はハッと最近のことを思い出した。
ここ最近、戸棚のお菓子がずっとないこと。
夕飯のおかずか少し質素になったこと。
「会社がなくなると、どうなるの?」
そう訊いた時だった。いつもの様に1階から芳美の怒鳴り声が聞こえてきた。ガシャンと何かが割れる音も聞こえた。
不安になり、華那子は秋良を見つめると、大丈夫だよ。そういって秋良は自分の布団に華那子を寝かせた。
その日の喧嘩は特に酷かった。華那子が眠るまで、秋良はずっと、華那子の手を握っていた。