水贄
『秋彼岸ホラー短編企画』参加作です。
長い髪の毛が足に絡みついた。
シャンプーを洗い流していた私は、手に持つシャワーの向きを変えた。その髪の毛を落とそうとして、そして気づく。
曇りに包まれ、その隙間から辛うじて見える鏡に映った私の髪は、短い。ついでに言えば先に風呂に入った父も母も髪は短く、足に絡みつくほどの長い髪の毛がここに存在するはずがなかった。
私は薄気味悪い物を感じながらその髪の毛を流した。気付けばリンスもボディソープもなあなあのまま浴室から脱出ていた。
この家に引っ越してきてからおかしなことがよく起こる。
私の住む喜宇ニュータウンはF市の郊外にある。かつて周辺地域で有名な池があったという土地を某不動産屋が買い取り、新興住宅地として売り出したのだ。
私にはわからないが土地と建物の値段が他よりも手頃なようで、一軒家を欲しがっていた両親は販売開始前から購入すると言っていた。池を埋め立てて出来た土地だというから私は地面の液状化などを心配したが、両親は不動産屋の最新技術使用という謳い文句に煽られていて、聞く耳を持っていなかった。
そして家も建て終わったつい先日、私たち家族は引っ越してきた。
それまで父が務める会社の古い社宅に住んでいた私はその綺麗さに驚き、素直に喜んだ。部活が忙しかったため建築中は見に来ていなかったし、家でも自分の意見が通らないことに意地を張り、新しい家の話題をすることはなかった。
しかしこの新しい家を見て、私は自分の意見などなくしてしまった。随分と気に入ってしまったのだ。綺麗な外観、広い室内。周りには自然も多く、今までとは違う世界。
それまで住んでいた市とは同じで通う中学校の転校とかはないが、それでも新しい環境での生活はわくわくとして仕方がなかった。
だが、その幻想もすぐに壊れてしまった。
引っ越してから三日目の夜、私は新しい自分の部屋の家具の配置に熱が入り、随分と遅くまで起きていた。
六月という、祝日による連休もない月に引っ越しをした。その為明日も学校があり、さすがにもう寝なくてはいけない、そう思った私はトイレに行ってからベッドに入ろうとした。
今年は雨の量が少なく、梅雨は未だに訪れない。温暖化の影響か、すでに真夏の暑さになって蒸した廊下を進み、私はトイレに入った。
その際、トイレの小窓から道路脇に立つ街灯が目に入った。ただそれくらいなら特におかしな所はない。
しかしその私が見つけた街灯の光は点滅していた。それも一本だけ。その一本はまるで何年も前から使われていて、今まさにその寿命を終えようとしているかのようだった。
そんなことはありえない。ここは新しく出来た住宅街だ。例え業者が手抜き作業をしていたとしても、わざわざ一本の街灯だけ古い物を使うだろうか。
私はその不可解な光景に魅入っていた。
ふと、私はその街灯の光の中に女の人がいることに気が付いた。長髪で烏の羽が濡れたような黒色。それとは対照的に服と肌は真っ白であった。
「っ……」
私は無意識のうちに後ずさった。あれは見てはいけない。そんな気がした。
早く出て寝てしまおうと、意識をあれに集中させないようにしながら用を足す。
それを済ませた私は早く部屋に戻ればいいのに、考えとは逆の矛盾した行動をしてしまった。トイレを出る前、最後にもう一度あの街灯を見てしまったのだ。
何故そんなことをしてしまったのか、多分それは確認だ。騒ぐ心を落ち着かせるため、「あれはただの見間違い、寝ぼけていただけだ」と確認するために。もしくは考えの抑制から生まれたあれの正体を知りたいという好奇心か。
「ひっ」
目が合った、アレと。
アレは私を見ていた。私が再び自分のことを見ると知っていたかのようにじぃぃっと私の家を、私を見ていた。
アレは私を見つけると顔を崩した。左右に引き攣った口に細められた目。得体のわからない物を感じ、私は走って部屋へと逃げ戻った。アレの表情が“笑い”だと気付いたのは、外が明るくなってきてからだった。
濡れた髪のままタオルケットを被りベッドに入っていた私は、あの夜のことを思い返し、しまったと思った。
アレの顔が脳裏に焼き付いて離れない。何か欲しい物を見つけたような笑み。私が気付いてはいけなかったモノ。
あれ以来、街灯の下にアレはいない。本当に見間違いだったのか、それとも別の場所へ移動したのか。私は前者を願っていたが、それは今日、足に長い髪の毛が絡みついたことで叶わなかった。
あの髪の毛はアレの物だ。
それに最近見られている、そう感じるようになった。自室でもリビングでも浴室でも、よくナニカの視線を感じる。あの時のように見られている。
私が見つかったせいでアレは私の家の中へとやって来たのだ。
小説じみた発想、普段なら朝になって恥ずかしい笑いごとになる考えである。しかし私はその考えを否定することは出来なかった。
そしてその考えが確定したのは、梅雨のないままなった夏休みでのことだた。
その日、部活から帰ってきた私は一人で留守番をしていた。両親は共働き、帰ってくる時間も近頃は二十時を回り始めている。
シャワーで汗を流していた私の足に、いつものように長い髪の毛が絡む。ナニカに見られている気もする。だがそれにはもう慣れた。
浴室から出た私は自室に戻り、机の上に夏休みの宿題を開いた。宿題は早めに終わらせ、夏休みの後半は精一杯遊ぶことが目標だった。
異変を感じたのは十八時を過ぎた頃だ。
とん、とん、と歩く音がした。それは一歩ずつゆっくりと階段を降りてていた。
両親が仕事を終え帰ってくるにはまだ早すぎる。それに玄関を開けたり、下っているというならその前に階段を上がってくる音だったり、そういう音は一切していなかった。
二階の窓は空いているし、泥棒かもしれない。その時はそう思えるほど私は正常だった。
私は携帯電話と室内で見つけた武器になりそうな物を持って、そっと部屋を出た。携帯電話は泥棒の姿を確認次第、すぐに警察へとかけられるように番号を入力しておいた。
階段は私の部屋のすぐ前にある。上から三分の一下りた所に踊り場があり九十度右に回転して、さらに下に続いている造りだ。
物音はすでに踊り場は超えている。私は踊り場の壁に隠れるようにしながらそこまで降り、下を覗いた。私が見たのは黒い影が階段を下まで降り切り、二階から死角になる所へ消えるところだった。
この家に自分以外の人間がいることを確認した。早く通報しよう。そう思い私は携帯電話の通話ボタンを押そうとした。
ぐちゃり。一階の廊下で水っぽい肉を踏むような音がした。
ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。それの歩みは早くなる。
ぐちゃ。それはどこかで止まった。
見てはいけない。そう思うのに私は下を覗いた。
「っ!?」
女がいた。異様に膨らんだ白い肌に黒い髪がへばり付いている。表情は読めない。それだけが幸運だったのかもしてない。
「いや……」
アレを見ていた時間は数時間のようにも瞬きのようにも感じられた。空気を吐くように出された自分の声により、私は動くことを許された。
下でアレの動く音がした。私は足をもつれさせながら五段にも満たない坂を上る。だん、だん、だんとアレが私を追いかけてくる。
あと一段であった。右足が何かを踏みつけ、滑り落ちた。冷たいそれは水だろう。アレが歩いて行った跡だ。階段に打ち付けた膝が痛い。でもあと一段。それを這い上ろうとした私の足首を、手が掴んだ。
それは手だったのか。それは水のように冷たく、液体とは違う重さがある。
音にもならない声を上げ、私は足を無茶苦茶に振った。その勢いでずるりと緩んだ手から抜け出し、私は階段から遠い両親の部屋へと逃げ込んだ。
「はぁっはぁっ……」
閉めた扉に張り付いて感覚を集中させた。アレが追いかけてくる気配はない。でももうさすがに外を見ることは出来ず、その場に座り込んだ。
何度か深呼吸を繰り返し、少しずつ落ち着いてきた。同時に尖っていた感覚が収まり、強張っていた身体が重く沈んだ。
アレに掴まれたところが冷たい。億劫にその部分を見れば濡れている。酷く匂う。腐った水と白っぽい泥のような物がそこにはついていた。その匂いだろう。
吐き気がするそれを近くに畳んで置いてあったタオルで拭き取る。汚れを異常なまでに落としていた私はいつの間にか眠っていた。
「ちょっとどうしたのあんた? こんなところで寝ちゃって」
「……お母さん?」
仕事から帰って来たらしい母に起こされた。時間は二十時近い。眠りから覚醒した私はさっきの体験を思い出し、母へと泣きついた。もう限界だった。
母は私の様子の急な変化に驚きながら、要領を得ない私の話を聞いていた。私はこの家を出たい。アレはこの家に棲んでいる。元の家でもどこでもいいから、他の家に行きたかった。
「何言ってんのよ。そんなことあるはずないでしょ。きっと疲れよ。変な時期に引っ越したから緊張が長引いてたりしてて。少し肩の力を抜いた方がいいわ」
だが母は全く私の話を信じようとしてくれない。私はちゃんと証拠を示そうと握っていたタオルを母に差し出した。
「これがどうしたの?」
なのに何もない。あの水も泥も強烈な匂いも何も残っていない。
「一階は!? 階段は!? 何もなかったのッ!?」
私が叫ぶように言っても母の答えは変わらない。
「何もないわよ。さあご飯の用意をするから手伝ってちょうだい。…………大丈夫よ。何かあってもお母さんが守ってあげるから」
私があまりにも不安げな顔をしていたのか、母は最後にそう付け足した。幼子にするような慰めの言葉は、それでも今の私には心強かった。
その日、母は浴槽で溺れた。酒に酔ってでも、寝ぼけてでもない。
意識不明の母は救急車で市内の病院に運ばれて行った。付添いは帰宅してきた父が優先された。私が行きたかった。この家から出たかった。しかし父も救急隊員も私は家にいるようにと命令した。
アレの存在。母の安否。眠れない。眠りたい。早く朝になって欲しい。一人だけの家でひたすらにそれを願った。
明け方、病院にいる父から携帯電話に連絡が入った。母の目は覚めた。命に別状はなかった。
「だが」と父は続けた。
『起きた途端暴れ出してな。早くお前を家から出せ、と言っているんだ。随分と切羽詰った様子だし、取り敢えずタクシーで迎えに行くから準備をしといてくれ』
母の無事に安堵していた私は一気に背筋が寒くなった。母はアレに溺れさせられた。何故? 私を守ると言ったから。アレは私を狙っていた。だから邪魔をする母を排除しようとした。
ありえない話だ。しかし実際に起こっている。
「お父さん、迎えなら入り口のコンビニまででいいよ。そこで待ってるから」
もう家にはいたくない。だから家で待っていろと言う父の言葉を遮り、大きな道から住宅街へと入る交差点にあるコンビニで待っていると伝えた。母の様子を見ていたせいか、父は反対することなく私の意見を認めた。
『……わかった。近くとはいえまだ外は暗いから気をつけ――』
父の声が突然雑音の中に消えた。
「もしもし、お父さん? お父さんッ!?」
私の携帯電話は正常だ。病院の電波が悪いのか、それとも、
『――――』
ざぁざぁという雑音に交じって声がした。父の声だと思い必死になって耳を傾ける。
『――――ニガサナイ』
それは若い女の声だった。高くも低くも、怒りも悲しみも恨みも、色々な女の声が重なって、響いた。
思わず携帯電話を投げ捨てた。それでもまだ聞こえてくる。声は電話からだけではない。家中から木霊する声が私の耳に届いた。
「いや、いやいやいやいやっ」
声から逃げるように部屋を家を出た。ルームウェアのまま、何も持たず、靴も履かずに逃げる。声は外までも追いかけてくる。
夏だというのに暗い明け方の空に声が充満する。その闇の中を私はただ、明るい、アレが来れない所に向かって走った。
走るのは得意だった。学年でも上位に入る速さで、持久力にも自信がある。それなのに全く進めない。まるでプールの中を走っているかのように、空気が重たく纏わりつき、息継ぎも上手く出来ない。
苦しかった。それでも走った。アレに掴まるよりも呼吸困難で死ぬ方がまだましだと思えた。
目の前に痛いほどまぶしい光が見えた。例のコンビニだ。あそこまで逃げ切れば、私はもう逃げなくて済む。
ずっと追いかけて来た声が不意に止んだ。コンビニまで五十メートルもない。
逃げ切った、その勘違いは私の足を拘束した。
片足がもう一方の足に当たり、私はバランスを崩して倒れた。しかし固いアスファルトに激突する寸前、私は冷たい腕に抱きとめられた。
ツカマエタア
響く不協和音の声。
そして私は水の中へと引きずり込まれた。
先日F市で行方不明となっていた女子中学生が昨日午後、同市の貯水池で見つかり保護された。衰弱しているが目立った外傷などはなく、命に別状はないという。保護された当初かなりの錯乱が見られたが今は落ち着き、警察が行方不明になった原因について詳しく調べている。この事件は少女が父親との電話中に発生したということで誘拐として調べられていたが情報は集まらず、結果は芳しくなかった。少女の証言が今後の捜査の鍵となるだろう(M新聞地方欄抜粋)
追記一。
上記の文は保護された少女から聞いた話を研究利用としてまとめた物である。心理面で大きな負担になったため一部推測で書いた場所もあるが、誇大に脚色していないことをここに誓う。
追記二。
この件は雨乞いの贄に関すると考えられる。
この地方では雨乞いのため、池に住まう龍神へと贄を捧げる儀式が昭和初期まで続いていたという。池とは住宅街として埋め立てられた喜宇池に当たる。その儀式の贄の多くが少女と同年代の若い娘であった。
龍神は埋め立ての際ほかの地へ再度祀られたが、贄の娘たちはどうなったか定かではない。
贄の娘たちの魂が共鳴し合い、また雨が少ないという自分たちが犠牲になった“雨乞い”に適した気候となったため、このような事態を引き起こしたとは大いに考えられる。
追記三。
なお、少女は面会の数日後、入院先近くの川に落ちて亡くなった。その川は喜宇池からの支流に当たる。
これにより雨乞いは完成したのか、秋雨は長く続いた。
ここで少女の冥福を祈り、文の結びとする。
ホラーって難しいです。
少しでも怖くなっていただけたら嬉しいです。