その8
朝、手探りで寝台の中を探ったチェスターは冷え切ったシーツの感触に眉を寄せてゆっくりと目を開いた。当然、そこには誰もおらず見回しても部屋の中には自分ひとりだ。かろうじていつもよりだいぶ寝乱れた寝台の様子が、昨夜のことは夢ではなかったと伝えている。
「ちぇ。」
小さく舌打ちしてチェスターは体を起こした。起きなかった自分も悪いが、せめて帰る前に声くらいかけてくれたっていいではないか。初めて二人で共に迎える朝だったのに。チェスターは低く唸りながら、往生際悪く部屋の中を歩き回った。何かメモか手紙か、ミモザが残してくれいないかと探すものの何も増えているものは無い。寝台まで戻ってきて、もう一度飛び込むように倒れこむと、視界の端に淡い栗色が映った。慌てて目を開けてシーツを探るとリボンだった。ミモザの髪に似合うだろうと、昔にチェスターが買ってやったものだ。気に入ってくれたのか、よく使っていた。たしか、昨日もつけていたように思う。
チェスターはリボンをぎゅっと握りこむとしばらくそのまま横たわっていたが、廊下を通り過ぎる兄の足音に慌てて立ち上がった。いつの間に家に帰って来ていたのだろう。ずいぶんと寝坊してしまったようだ。着替える前にと冷めて苦味の増した紅茶を飲みながら、それでも丁寧に入れてくれたんだなと思う。味は変わってしまったがそのくらいはまだ分かった。紅茶を飲み干しながら、これをもってきたときのミモザの様子を思い出す。いつもどおりに振舞いながら、このトレーを下ろした後にどうしたらいいのか、困ったように自分を見た。彼女の問うような、請うような瞳に沸き立つような欲情を覚えた。先日のことで学習済みだったはずなのに、それを遥かに超える衝動に駆られてつい抱きしめてしまった。なんとか途中から、我を取り戻して先日の二の舞を演じないで済んだのは良かったが、結局最後までは我慢できなかった。
(あんな真っ赤な顔でずっと好きだったなんて言われたらさあ。)
自分に言い訳してチェスターは一人口を尖らせる。小さくて可愛い彼女が愛おしくて堪らなかったのだ。油断すると何度でも脳裏に甦ってくるミモザの瞳をなんとか頭の隅に追いやって、身支度を整えて階下に下りた。そこでようやく今朝はミモザにお休みを出していて、朝食の用意もないのだと気がつく。昨夜の当番をかなり強引に同僚に代わってもらったので今日はこのまま一日仕事だ。ミモザの朝食で元気を出したかったと思いながら、台所で寂しく自分の食事を用意して無理やりに飲み下す。
「行ってくるね。」
大きな声をかけると、見送りに顔を出した兄が制服についたままだったパン屑を無言で払ってくれた。いい年をしてさすがに恥ずかしくて小さくありがとうというと、兄はあきれ顔で彼の頭を見た。
「寝ぐせはもう諦めるしかないだろうな。」
言われて初めて寝ぐせに思い至ったが、もう髪を洗っている暇はない。うう、と唸りながらチェスターはもう一度「いってきます」と言って飛び出して行った。走りながらも足取りは軽く、その日一日同僚に胡乱な目で見られ続けるほどにチェスターは終始上機嫌だった。
翌日からはいつも通りにミモザの朝食で朝を迎える。
「おはよう。」
「おはようございます。」
当たり前のいつもの挨拶を、なんだか物足りなく感じる自分の強欲さに驚き、それすら少し愉快に感じながらチェスターは既に席についていた父と兄にも挨拶をして着席した。口数の少ない父と兄はチェスターが話す一日の出来事にときどき相槌を打ちながら聞いている。いつも通りの朝食だ。
「今朝は良く眠れたか、チェット。」
会話の中に不意に挟まれた父の言葉にチェスターは急に何を言うのだろうと不思議に思う。目の下にクマでもできているだろうか。帰りが夜更けすぎになったので寝たりないといえば、寝たりないけれど夜番のある日はいつもこんなものだ。
「え?うん。ぐっすり。」
そう返すと、父は「そうか」と頷いた。
「よく休めたのは良いが、寝癖がとれていないな。出かける前に直して行けよ。」
「え?うそ。」
慌てて手を後頭部にやると、たしかにぴよんと立ち上がった髪の毛が手のひらに当たった。昨日よりはましだろうが、これでも十分目立つだろう。部屋の隅でミモザがクスクスと小さく笑う声がして、チェットは振り返ってちらっと睨み付けた。
「お前、ミモザに当たるなよ。」
兄に呆れたように諌められて「当たってないよ」と言い返す。もう一回兄と父の目を盗んでミモザの顔を見ようとしたが、彼女は違う方を向いておりもう目は合わなかった。
ミモザは朝食の片づけをしながら、どうしようと心の中で繰り返した。朝、おはようございますと言うまでは平気だったのだ。全然平気で、今までどおりに振舞えると思っていたのに、寝癖を笑ったミモザをチェットがちょっと睨んだあの目を見たら急に駄目になってしまった。これまで何百回も繰り返したようなやりとりなのに、今朝のチェットと来たら見たことも無いような甘い目で自分を見るのだ。あんな顔をされたのでは、平静を保っていられない。男爵やセオドアに知られてしまう。いつかは話さなければならないにしても昨日の今日では、いくらなんでも恥ずかしいではないか。
(あの人はどうしてあんなに暢気に浮かれていられるのかしら。)
今朝のチェスターは、明らかにご機嫌だった。男爵もセオドアも口には出さなかったがきっと分かったはずだ。機嫌がいいときのチェスターはすぐ分かる。その様子を思い出して腹を立てようと思ったのに、自分の口元がほころぶのを感じてミモザは心の中でだけ頭を抱えた。自分も相当に重症だ。
実際のところは、ミモザの悩みはまるで杞憂であり、何も案じなくても察しのいい男爵には殆どすべてがお見通しだし、あまり恋愛の機微に敏くない兄のセオドアですら長年二人の曖昧な関係が続いていることには気が付いている。昨日今日のチェスターの浮かれっぷりは、そろそろ進展があったかと様子を見ているところなのだ。
「チェスター。何か決まったら早めに報告しなさい。あの子が可哀相だよ。」
台所で悶絶しているミモザを見かけた男爵が見かねて声をかけると、チェスターはきょとんとした顔をしたが、すぐに台所へ飛んで行った。あきれ顔で息子を見送った男爵は、朝食後これまた何かもの思いに沈んでいる長兄を見やって、星祭りの季節は恋の季節だったな、などと思いながら自室に引きあげて行った。
「ミモザ。また泣いてるの?」
台所に飛び込んできたチェスターにミモザは驚いて振り返る。その瞳に涙はない。
「チェット、どうしたの?」
「ううん。」
チェスターは心の中で父親に驚かせないでくれと文句を言いながら首を振る。
「出掛ける前に挨拶にきただけ。」
そう言ってチェスターはふわっと唇を寄せると「いってくるね」と踵を返す。ミモザは「いってらっしゃい」と背中に声をかけながら、幼い頃に見た男爵と奥方のようだと胸いっぱいに湧き上がる幸せを抱きしめた。
これにて終了です。
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