その7
夕食をすっかり食べ終わると、ミモザは片付けを買って出た。
「いいよ、明日やるからおいておきなよ。」
「駄目よ。明日には男爵様もテッドも帰ってくるのに朝から台所がぐちゃぐちゃなんて良くないわ。チェットは疲れているんだから先に休んでて。帰る前には声をかけるから。」
チェスターは不満そうにしていたが、ミモザがてきぱきとエプロンをつけ始めるのをみて諦めたようだった。
「じゃあさ。悪いけど片付け終わったらお茶持って来てくれる?部屋にいるから。」
「はーい。」
ミモザは冷えた台所に入っても心も体もまだぽかぽかしていると思いながら手早く片付けを始めた。いつもより散らかった様子にチェスターが大急ぎで用意してくれたことがわかる。いつからこんなことを考えていたのだろう。色々と考えていると片付けはあっという間だ。
最後にお茶を入れる。彼の部屋に行ったら、何か言われるだろうか。今日の夕食の意味を聞いても良いだろうか。そう考えると途端に胸が高鳴る。
いつもより丁寧に時間をかけて紅茶を用意する。仕上げに少しだけブランデーを注ごうとして手が震えているのに気づいてミモザは小さく笑った。
「馬鹿ね。」
そんなに震えて。何かあると決まったわけでもないのに。
自分を笑いながらも、手の震えはおさまらずにいつもより多くお酒を注いでしまった。さすがにこれをやり直すと遅くなりすぎる。チェスターが寝てしまうかもしれない。
トレーの上にお茶を用意し、台所の明かりを全て落とすとミモザは大きく深呼吸してチェスターの部屋へ向かった。
「チェット」
声をかけると、中から扉が開く。使用人が主人に戸を開けさせることなど本来はあってはならないことだが、二階はワゴンを押して来られないし、トレーに何かを載せたままノックをすると良くこぼす。二本の腕ではどうしようもないことなので、二階の住人であるチェスターもセオドアもミモザのために扉を開けることを当たり前に思っている。
「ああ、いい匂い。ありがとう。」
いつもの笑顔でチェスターは鼻をひくつかせながら、手で部屋の中を示した。招き入れられたミモザはお茶の乗ったトレーを寝台の横の机に下ろす。さて、これからどうしたらいいのだろうと迷いながらミモザが振り返ると、チェットと目が合った。
先ほどまでの笑顔はとうに引っ込んでおり、無言のまま自分をじっと見つめる彼に引き込まれるように見つめ返す。この顔を数日前に見たことがある。納戸に引っ張り込まれた時もこんな表情をしていた。あの続きを求められるのだろうかと半ば期待する自分を彼に悟られないように必死に押さえ込んだ。
「ミモザ。」
チェスターは彼女に手が届く距離まで歩み寄って声をかけた。そして今回は触れてよいかと問うことはせずに、彼女をぎゅうと抱き寄せた。もうすっかり寝支度の整っているチェスターの寝間着からはミモザのかぎ慣れた石鹸の匂いと少しだけチェスターの匂いがする。ミモザは自分のエプロンは洗い物ではねた水で濡れたままだろうと思いついた。
「チェット、エプロン濡れてるから、チェットの体が冷めちゃうわ。」
首を少し逸らしてミモザが小さな声でそういうと、チェットは小さく笑った。
「それは、ちょうど良かった」
チェスターは言いながらミモザから離れた。ミモザはエプロンのことを言った手前、外そうかと紐に手をかけたが、これを外せば抱きしめてくるチェスターを止める方便がなくなる。中途半端に手を止めて振り返るとチェスターは自分の机に寄りかかっていた。いつも通り、とは言わないまでも先ほどよりはずいぶん穏やかな表情を浮かべている。
チェスターはエプロンのことには触れずに口を開いた。
「ずっと話したいと思ってたんだけど、遅くなってごめん。」
「ううん。こっちこそ。」
逃げ回っていたのはむしろこちらの方だ。ミモザが首を振ると、そこで一度会話が途切れてしまう。俯いたミモザに向かって、改めてチェスターが話しかける。
「一番に言っておかないといけないことを、この間は言いそびれてたから。あのね、ミモザ。僕は君が好きだよ。」
二人の間で好きだという言葉は何度も交わされてきた。子供の頃から、気負いなく。けれど今ここで言う好きは、きっとこれまでの好きとは違う。ミモザが顔を上げると、チェスターはしっかりと彼女の目を捕えた。
「抱きしめたり、それ以上のことをしたのも、好きだからどうにも我慢できなくなってしてしまったことで。本当は先にちゃんとこれを言って、ミモザの気持ちを聞くべきだったのに順番がめちゃくちゃになってごめん。なんだかずっと一緒にいて、もう、伝わってるって思い込んでた。」
チェスターの言葉はミモザの耳に飛び込んで、でも中々頭の中に届かずミモザはじっと彼を見上げていた。ミモザが言葉の意味を理解して、それが心に届くまで、チェスターは黙って彼女の返事を待っていた。
「好き?」
チェットの言葉がぽつりとミモザの口から零れ落ちる。
「うん。ずっと好きだったんだ。」
チェスターは照れくさそうに笑う。柔らかな笑顔はもうすっかりミモザが知っているいつもの彼だ。ミモザはしばらく言葉を失い、唇を小さく震わせてチェスターを見つめていた。このまま、喜びのまま、私も好きだと告げてしまいたい。しかし、ミモザもあの日以来、彼とどう向き合っていけばよいのか考えて来た。
「でも、チェットは騎士だし。万が一の場合男爵様になるかもしれないし。食堂の娘じゃつり合わないわ。留守を守ってもらえるようにしっかりしたおうちのお嫁さんをもらわなきゃいけないでしょ。それに私は女中で、本当は雇い主とそういう関係になるのはあってはならないことだし。」
ミモザがしどろもどもになりながらも、ずっと彼女の中にあったチェスターと付き合えない理由を述べ終えると、チェスターは口をへの字に曲げた。
「爵位は、世襲じゃないって知ってるでしょう?兄さんはとにかく僕は男爵になることはないよ。王都詰めの仕事でそんな功績をあげる機会はないし、無い方がいいんだ。王都がそれだけ平和だってことだからね。」
ミモザはどれくらいの功績をあげれば男爵になれるのかを知らない。軽く有り得ないと言われてしまって拍子抜けした。
「だって、男爵様は。」
チェスターの父親は一代男爵ではないかと問いかけると、チェスターは笑った。
「父さんは、特別。あの人は、家ではにこにこしているだけだけど、すっごく頭がいいんだって。僕には無理だね。」
「そ、そうなの?」
「僕も騎士になってから初めて聞いたけど、そうなんだって。」
男爵は家では仕事の話をしない。ミモザが目をぱちぱちと瞬かせた。
「騎士だから食堂の娘さんと付き合っちゃいけないなんてことないだろう?農家の娘と結婚した人も、肉屋の娘と結婚した人もいるよ。それでも気になるっていうなら。身分が問題だっていうなら家も出るし、騎士も辞めるよ。騎士に憧れてもいたし、今は警邏の仕事も楽しいよ。でも、それはミモザと比べるようなものじゃないんだ。僕はきっと食堂でも働ける。父さんも兄さんも反対しないと思う。反対されても、聞かない。そのくらいミモザが大事だ。雇い主とか女中とかも関係ない。僕にとってミモザは女中じゃなくて、ずっと幼馴染の大事な友達で、大事な女の子だよ。大好きなんだ。」
そう言ってチェスターは一度言葉を切った。
「僕は選んだ。後は、君が決めて。」
こうやって私の最後の守りまで取り去ってしまう貴方はずるい。ミモザはそう思う。許されない関係だ。身分が違う。彼の伴侶に相応しくない。そう思って自分の想いに蓋をしてきた。そうでなければ自分の想いを胸に留めておくことができないから。それと同時に彼のもとに飛び込む勇気がないことの言い訳にもしてきたのだ。もし、上手く行かなければミモザは思い出で一杯の家を離れて、新しい家に働きに出なければならない。チェスターはもちろん敬愛する男爵とも、兄のようなセオドアとも別れて。ずっと狭い世界で生きて来たミモザにとって、それはとても勇気のいることだ。けれどチェスターは臆病なミモザの怖れをみな本当はないものなのだと言ってすべて取り去ってしまった。
ミモザは揺れる心のまま口を開いた。
「チェットが望むのなら、私はずっと貴方の傍にいるし、チェットが望むのなら、私は貴方の友人に戻ることも、去ることだって。」
そこまで聞いてチェスターは素早くミモザの口を手で塞いだ。あっという間に間合いを詰められて後ろから抱き込むように口を覆われたミモザは、その素早さに驚いた。「厭わないと思っていた」と続いていた言葉はのどの奥で音になる前に消えてしまった。
「聞きたくない。ミモザがいなくなる話なんて、全然聞きたくない。」
背中側、頭の上から降ってくるチェスターの言い様は子供のようだ。しかしミモザの口から手を外し彼女と改めて向かい合ったチェスターの顔は子供の顔ではなかった。真剣そのものの彼の表情にミモザは時ならず見惚れた。
「君が、僕が望むならと言うのなら、僕は望むよ。」
チェスターはごくりと唾をのんでから続けた。
「一生僕の傍にいてくれ。」
ミモザの頭の中にあった彼と添い遂げられない理由は、もう何も意味を成さないものになってしまった。チェスターが身分も何も関係なく自分が一番だと言ってくれる。一生傍にいてくれと言ってくれる。それ以上に何が大切だろう。ミモザは震える声で「はい。」と答えた。
チェスターは「良かった」と顔をくしゃくしゃにして笑う。
「本当は、あれ以来ミモザと話せなくなって、僕が雇い主の息子だからって気を遣って嫌なのに何も言えないでいるんじゃないかって疑って気が気じゃなかったんだ。」
軽い調子で言われた言葉にミモザは慌てた。
「そんなこと。」
自分の勇気の無さが、彼にいらない心配をさせて心を痛めさせた。彼女がチェスターの気持ちが分からないと不安に思うように、彼もまた不安だったのだ。
(まして、私が逃げたから。)
「ごめんね、チェット。心配させて。私も。えっと、私も。」
ミモザは顔を真っ赤にして彼を見上げた。
「ずっと好き、でした。」
言い終わるとミモザはもう勇気を使い尽くして俯いてしまう。
チェスターは「うん」と言いながらもう一度ミモザに近づいてきた。
そのままミモザの背中側で手を動かしてエプロンを外す。するりと二人の間から白いエプロンが引き抜かれるとたった一枚薄い布が減っただけなのに急に二人を隔てるものが減ったような気がする。それからチェスターはミモザの顎に手をかけて彼女の顔を上げさせた。不安げに揺れる瞳を見つめてチェスターは少しだけ微笑んだ。そういう笑い方をすると、男爵やセオドアにとても似ている。優しい男の人の顔だ。
「怖がらないで。」
そういった後、チェスターはもう喋らずに、ミモザにも喋らせず、その唇を奪った。
チェスターの寝顔を見つめて、ミモザは穏やかに微笑んだ。こうしていると、子供の頃と変わらない。骨が太くなって顎や首のラインは見違えるように逞しくなったし、生えかけてきている髭だって昔は無かった。もっと頬はまるまるとして可愛らしかったし、布団からはみ出している手もこんなに大きくなかった。けれどもミモザにとっては、チェスターは今も昔も変わらない。少し泣き虫で優しくて家族思いの少年のままだ。今も、変わらなくそう見えることに深く安堵する。幼いミモザの大事なお友達。ずっと一緒に大きくなってきた。そして今ではどんなミモザのことも知っていて、優しく明るく受け止めてくれる大切な男の人でもある。
(さあ、行かなくちゃ。)
夜が明ける前に家に戻っておかなければ家族が心配する。ミモザはそっと寝台を抜け出して散らばっている衣類を音を立てないように静かに静かに身に着けた。髪を束ねていたリボンだけがどうしても見つからなかった。ベッドの中かもしれないが、それを探したらさすがにチェスターが起きてしまうだろう。あとで掃除に来るときに探せばいいだろうと諦めた。一人で扉を開け閉めするのにトレーはもてないので、結局、手を付けられることの無かった紅茶はそのままにして一度だけ扉の前で振り返った。隣で寝ていた人間がいなくなっても目も覚まさないなんて、それで騎士が務まるのかしら、と安らかに寝息を立てているチェスターを確認してから部屋を出る。使用人が少ないとこういうときに安心だ。まして今日は男爵もセオドアもいないから、誰ともすれ違う心配はない。そうして、少しだるくて重い体を幸せに思いながらミモザは家へと戻っていった。