その5
チェスターが物ごころついた頃、家には父と母、兄と女中だったミモザの母とミモザがいた。遊び相手はたいてい兄とミモザで庭を駆け回ったり家の中でかくれんぼをしたり、本当の家族のように三人で遊んでいた。夜になるとミモザだけ家に帰らなければいけないのが理解できなくて、もっと遊ぶと駄々をこねたことも一度や二度ではない。
段々大きくなると騎士の父に憧れて剣術の真似毎を始めた兄弟と母達の仕事の真似毎を始めたミモザは以前ほどべったり一緒には過ごさなくなった。しかし、チェスターは棒きれを振りまわしたり、馬に乗るのも楽しかったが、昔から料理も好きだった。何度勝負しても四つも年の離れた兄には勝てない。不貞腐れるといつも台所に逃げ込んで、今度は料理を教えてもらった。たいてい兄にこてんぱんにやられてから行くものだから、現れる度にチェスターは半ベソで、ミモザはチェスターを泣き虫だと笑いながら、小さな手で彼の手をとって自分達の領分に迎え入れてくれたのだ。その頃から既にミモザは台所の小さな太陽だった。明るく元気で、一緒にお菓子を作っていれば、先ほどまでの悔しさなど忘れてしまう。そしてけろりと笑顔に戻ってミモザと一緒に兄に出来上がったお菓子をもっていけば、兄は必ず美味しいと褒めてくれた。そうすると何だか兄に勝てたような気がしてすっかりご機嫌になってしまうのだ。
チェスターが十歳になる前に母が病に倒れて、帰らぬ人となった。父親よりも母親に懐いていた幼いチェスターにとって、それは俄かに受け入れられないほど悲しい出来事だった。明るく陽気だった母がいない家は静かで、火が消えたようだった。悲嘆にくれた父が毎朝いるはずのない母親を家中探して回るようになると、チェスターはすっかり情緒不安定になってしばらく一人で眠れなくなり、夜中になると兄の布団に潜り込んでいた。それでも夜は家族が家にいるからまだ良い方で、父が仕事に行ってしまい、兄も騎士になるための見習いとして家を空けている間、チェスターは悲しみをどこへやることもできずに台所の片隅に座りこんでいた。ミモザは母と一緒に毎日やってきては、丸くなっているチェスターに声をかけて話しかけ、笑いかけてくれた。
一度、何か料理を作りながらミモザが彼の母の思い出話をしたことがあって、そのときはまだ思い出したくないとチェスターは癇癪を起してしまった。その時に小さなミモザは目を真っ赤にしながら怒鳴り返してきたのだ。
「誰も思い出してくれなかったら、奥様が寂しいじゃない。かわいそうじゃない。」
その言葉はチェスターの心に深く突き刺さった。悲しみを持てあまして、それに向きあうこともできなくて苦しんでいた彼に、忘れてなかったことにするなと現実を突きつける言葉。泣いては駄目だ、早く元の自分に戻らなければという気持ちと、抑えきれない悲しみの間で苦しんで声にならない悲鳴を上げていた彼を、その言葉は救い出してくれるものだった。その後にミモザの母がとりなすように「思い出して悲しんでもいいんですよ。それだけ愛されていたと言うことなのだから」と添えてくれた通り、今は悲しんでいいのだと許された思いのしたチェスターはやっと自分の悲しみに立ち向かうことができのだから。今ならば、悲しい気持ちを認めずして、それを乗り越えることなどできなかったのだと分かる。
十歳を過ぎるとチェスターも父と兄に倣って、当たり前のように騎士を目指した。騎士になるために訓練を受けている時は、それはまだはっきり分からなかった。チェスターが十五歳で入隊した時にすでに兄は十九歳。まだ成長途中の二人は年の違いの分だけ体格の違いも歴然としていたし、自分もいつかは兄のようになるのだと無邪気に信じていたのだ。しかし、一年経ち、二年経つと分かってくる。兄には自分にはない天賦の才があった。彼の馬術の優れていることは徐々に広く知られるようになる。剣術は自分と五十歩百歩だが、いつも沈着な兄は勝負度胸が良い。実戦になると実力以上に差がついた。容赦なく突きつけられる現実にまだ若く青い自尊心を抱えたチェスターが傷つかなかったわけがない。けれど、兄を簡単に憎むには、彼らの絆は深すぎた。
再びやり場のない思いを抱えたチェスターのそばに、このときもミモザがいてくれた。彼ら兄弟の一番傍にいて、けれど彼らを比べることなく。そして同時にチェスターの一番の理解者として、一番の味方として彼を励ましてくれた。彼女には騎士同士の力の違いなど知る由もないことだろう。それでも彼女が素直に「すごいね」と言ってくれるだけでチェスターは胸を張っていられた。彼が無理に兄を追うよりも自分なりの力でできることをすれば良いと考えられるようになり、自分の愛想の良さを警邏に活かせると納得して自分の居場所を得ることをできたのは彼女のおかげだ。
悲しみや苦しみに捕らわれそうになるといつでも彼女の笑顔が彼を救ってくれた。ミモザはずっとチェスターの心を照らす太陽だったのだ。このまま行き違ったまま、おかしな関係になってしまうのは嫌だ。
(うん、次はきちんと話をしよう。それしかない。)
ミランダと別れた後、色々と思いを巡らしていたチェスターは自分の想いを再確認した。ミランダと話しながら、隙がないと言いながら自分もまたミモザから逃げていたのだと自覚したチェスターは、今度こそは思いを告げるぞと心に決めた。