その4
チェスターは自室のベッドに腰掛けて腕組みをしていた。その姿勢をとってからしばらくの時が経っている。
あれ以来、ミモザと二人で話す機会がほとんどない。どう控えめに考えても避けられている。嫌だったのだろうかとも思うが、自分を見るときの彼女の態度からはひた隠しにしようとしている好意が感じられ、嫌われているとも思えない。やっとお友達から昇格して付き合えると思ったのに、まだ二人で外出もできていない。いったいこれはどういうことだろう。
(やっぱりがっつき過ぎてるって思われたのかなあ)
自分の行いを振り返ればそう思われても無理はない。だからせめて挽回の機会が欲しいのに、ミモザは巧妙に彼を避けていて、どうしても二人きりで話をすることができない。無理に二人きりになろうとすれば余計に警戒されるだろう。それくらいはチェスターにも分かる。しかし、このままずるずると時が過ぎるのは困る。チェスターは口が堅そうで、相談相手になってくれそうな相手を何人か思い浮かべて、一人適任者を思いついた。女心は、女性に聞くに限る。
チェスターの叔父の家はローズ家よりもだいぶ大きく住み込みの女中も四人揃っている。昔から叔父の家に頻繁に出入りしていたチェスターは女中達とも仲が良い。個性豊かで愛情深い女性達は、チェスターを我が子や自分の兄弟のように可愛がってくれる。親しくて口が堅いという条件は彼女たちなら間違いない。中でもチェスターが今こそ頼りになると見込んだのが、華やかな恋愛遍歴を誇るミランダだ。年はチェスターより十歳も上くらいだが、今も未婚で言い寄る男を品定めしているとかいないとか。女心を聞くのにうってつけの人物だ。
さすがに仕事中の彼女の時間を割かせるわけにはいかないので、空き時間を教えてもらって外で落ちあうことにした。
細身の体に小さな顔。細かく波打つこげ茶色の髪を一つに括った横顔は年相応のしっとりとした色気を感じさせる。待ち合わせたカフェに遅れて到着したチェスターは自分を待っているミランダを通り過ぎる男達の多くがちらちらと見ている様子に気がついた。いつもならここでほんの少しの優越感と遊び心が芽生えるところだが、今日はそんな余裕がない。遅れたことを詫びながら席に着くと、ミランダはにっこり微笑んだ。
「大丈夫。私も今さっき来たところですよ。」
それから、軽く身を乗り出して「それで?」と聞いてくる。
「坊ちゃんから、外で会いたいだなんて珍しいわ。家で話せないようなご相談なんでしょう?」
どちらの家で話しても、家人に聞かれれば間違いなく怒られる話があるのでミランダの言葉は正しい。チェスターは神妙に頷いた。
「ミモザのことなんだけど。」
たった一言答えただけで、ミランダは目を猫のように細めてにんまりと笑った。どうやら彼の想いはお見通しだったようだ。
「何かあったんですね?」
ここは恥ずかしいとか四の五の言っている場合ではない。チェスターは膝の上で手を握った。チェスターはアンナがクッキーを焼きにやってきた日のことを話した。アンナはミランダが働いている家に世話になっているので、彼女も事情は良く分かっている。自身の記憶も身寄りもなく、それどころか洗濯の仕方や料理も覚えがないというアンナにミランダ達もあれこれと教えている最中だ。チェスターにとってアンナは急にやってきた従姉妹であり、どこか放っておけない、助けてやりたくなるような無垢な娘である。しかし、それ以上に彼女は恋愛ごとに疎い彼の兄の心を掴んでくれるかもしれない貴重な人物だったのだ。兄の先行きを密かに心配しているチェスターにしてみれば、それこそが最も重要なことだ。上手くすれば義姉になるかもしれないから仲良くしておくに越したことはない。家に招いたのは、兄との仲を取り持ってやろうという思いが大きかった。自分がどうこうとはこれっぽっちも思っていなかったのだ。そのせいか、アンナを招くことを大事だとは思っていなかった。だからこそ、今やローズ家の台所の主であるミモザに話をしておくのを忘れたのだ。ミモザが台所に入ってきそうになって初めてはっとした。
「誤解されるかもって思って慌ててミモザを連れ出して、鉢合わせは避けたんだけど。思えば星祭りの準備はいつもミモザと二人でやっていた訳だし、これはまずかったなと思ったんだ。僕としては今年こそはって計画していることがあるから本当にうっかりしたっていうか。」
チェスターの話は途中から要領を得なくなる。頭を抱え出してしまった彼にミランダは容赦しなかった。
「チェット坊ちゃん。ちょっとお話が分からなくなってきたわ。分かるように話して下さる?」
優しい口調で促されてチェスターは呻きながらもう一度事情を整理する。
「えーと、僕としては今年はミモザに星祭りの特別なお菓子を用意するつもりなんだよ。だから毎年の一緒にしていたクッキー作りのことをちょっと疎かにしていたというか。そこに来てアンナと兄さんの様子も気になる感じだし、あ、ちょうどいいや、クッキー作りをアンナに手伝ってもらえば過保護な叔父さんの目を離れて二人を会わせてあげられるなって。短絡的に考えちゃったんだよね。そんなこと、ミモザには一つも言ってなかったから、そりゃあミモザからは毎年の恒例を急に無視されて、しかもそれを他の女の子とやってるように見えるじゃない。それに、その日のその場で気がついて。慌てちゃったんだよね。」
「それは、ずいぶんなうっかりでしたわね。」
ミランダの言葉にチェスターは「そうなんだよ」と情けない声を上げる。
「でも、ミモザを連れ出して事情を説明したんだ。星祭りの件はまだ伏せてだけど。そしたら口では分かった風なことをいうんだけど。」
言いながらチェスターはへらっと思い出し笑いを浮かべた。
「でも言いながら、嫉妬してるのが丸分かりで。可愛くて。嬉しくなっちゃって。それで思いあまってちょっと手が出ちゃったんだけど。」
ほんのり頬を染めて告白するチェスターにミランダはとうとう真顔を放棄して呆れた表情になる。言いたいことは色々とあったが、これだけは話し途中でも聞いておこうと口を挟んだ。
「念のために聞いておきますけど、手を出したって本当にちょっとって言えるくらいのことですか?」
「う、うん。キスして抱きしめたくらいだよ。ちょっと、だよねえ?」
ミランダはミモザのことを思い出した。親戚同士の家で働く女中同士、何かとやりとりがありミモザは年の離れた妹のような存在でもある。異性に免疫のないミモザにとって、それは本当に「ちょっと」で済まされる出来事か。もしかして初めてのことだったのではないだろうか。だとするとミモザにすればかなりの大事件だったはずだ。ミランダは曖昧に頷きながら、まずは続きをと更に先を促す。
チェスターはその後、ミモザに数日避けられていると言う。ミランダは心の中だけで、それは当たり前だと思いながらも黙って頷く。
「でも、嫌だとか、怖いとかっていう感じじゃないし。」
言い訳がましく言いながらチェスターは不安そうな表情になる。
「でも、ずっと避けられてるんだ。もうどうしたらいいのか分からなくなっちゃってさ。嫌だったのかとも考えたけど、でも、どうしてもそういう風に見えないんだよ。」
ひとしきり話し終えて、どう思うとばかりに自分をみつめて小首を傾げてくるチェスターを見てミランダはふうと一つため息をついた。
(それにしたって誰の目から見ても、ずっと前から相思相愛なのにどうしてすれ違うのかしら。これが若さ?若さなのね?)
ミモザとチェスターのいずれにも接していれば幼馴染の二人が年を経るにつれてそれ以上の感情で惹かれあってきたことなど誰にでも分かる。おそらく同じ屋根の下にいるローズ男爵やセオドアにも分かっているだろう。二人は別々に会っても相手の話ばかりするし、一緒のときはいつだって並んで年中お互いの様子を見ているのだ。友達のように振舞っているけれど、同じだけ親しそうにしている他の相手をみたことがない。二人はずっと互いに特別なのだ。やっと一歩踏み出そうとしたのは良いが、どうも最初の一歩を誤ったようだ。人間関係には器用なチェスターが失敗するというのは意外なことだが、ミランダにはそれもほんの少し微笑ましく思えた。きっと相手がミモザだから失敗したのだ。好き過ぎて緊張したのだろう。
「あのね、坊ちゃん。そもそもミモザにきちんと好きだと伝えなかったんですか?言葉にして、分かるように。」
そう問われて、チェスターは実に渋い顔になった。言ったつもりだったのだ。彼としては「好きな子」と言った時点で分かってくれるだろうと思ったのだが、それにしてはその後のミモザの反応は解せない。
「それが、言ったつもりなんだけど。今思うと伝わって無いとしか思えない。だってあの子も僕を好きだと言うならただ答えてくれればいいじゃない。嫌なら嫌だと言えばいいし。ただ避けるだけっていうのは分からないよ。」
項垂れて答えれば、ミランダは「ああ、やっぱり」と深く頷いた。
(お互いに好きなんだから、ちゃんと説明しあえば絶対上手く行くのよ。こんがらがってるのは言葉が足りないんだわ。)
「じゃあ、改めてきちんと自分の気持ちを言葉にして伝えないと。触れれば分かるなんて獣じゃないんですから。」
「け、けもの。」
涼しい顔で辛辣なことをいうミランダにチェスターは涙目になって絶句した。
「そうですよ。そう思われたくないなら、きちんとお話なさることです。逃げられたって話がしたいという隙すらないわけじゃないでしょう。同じ家にいるんですから。男爵やテッド坊ちゃんの目なら気にしなくていいじゃありませんか。もう気がつかれていますよ、どうせ。」
余りにも正論で、ぐうの音も出なかった。チェスターはもう少し優しい助言を求めていたつもりだったのだが、これではただ愚痴を聞いてもらっただけのようだ。なんだかとても格好悪い。
黙ってしまったチェスターに向かってミランダが「いくつか申し上げられるとすれば」と言って少し身を乗り出した。
「ミモザを箱入りにしてきたのはチェット坊ちゃんなんですから御存知でしょうけれど、あの子は男性というものに免疫がないのですから、坊ちゃんのいうちょっとぐらいの出来事が、一大事だった可能性もあるということは踏まえておいていただいた方がいいですわね。たかが、なんて決して軽く見ないこと。」
「箱入り?」
チェスターが問い返すと、ミランダは「そうですよ」と小さい子に言い聞かせるように言う。
「ミモザがなるべく男達の出歩くところに行かなくていいように、買い物はなんだって代わりにしてあげてたでしょう?どうしてものときは一緒に行ったりして他の男のつけいる隙のないようにしていたでしょう。」
ミランダの言葉にチェスターはまた少し頬を染めた。確かに、彼女を遠くに一人で行かせないように、若い男女が集まるような、出会いがありそうな場に行かせないようにしていた覚えがある。始めた頃は、いつまで経っても小さいミモザが人混みで揉まれたら可哀相くらいの感覚だったが、最近は完全に他の男の目に晒さないようにという意思が入っていた。そんなことまで知られているのかと女達の情報網の綿密さが少し怖くなった。
「分かりました。」
素直に頭を垂れれば、ミランダは満足そうに頷く。
「それから、話す機会をもらったとして、こう言えば分かるだろうみたいな甘えも禁物です。はっきり誤解の無いように。」
ミモザは人の言葉の裏を読むのは不得手だ。大人の恋の駆け引きを楽しむような相手ではない。それはチェスターも良く分かっている。今ちょうど深く後悔していたところだ。黙ってもう一度頭を下げて了解の意を示した。
「あと、ミモザにとってチェット坊ちゃんは幼馴染であると同時に雇い主の息子さんです。主も同じ。その立場の違いもお忘れにならないように。」
「立場?」
チェスターは小首をかしげた。
「ミモザは十分に自分の立場を分かっているはずですが、こういうことは立場上、上に立つ側が弁えていることが大事です。それがあの子の返事を決めさせるかもしれないということも心しておいてください。チェット坊ちゃんを受け入れるにしても、断るにしてもです。」
チェスターはミモザを女中というよりも、ずっと幼馴染だと思ってきた。立場の違いと言われても良く分からない。しかし、もし彼女が自分を幼馴染よりも、自分の雇い主と思って見ているのであれば、あの時にこの家は貴方のもので、女中に気を遣う必要はないと言った言葉が強がりではなく本心だとしたら。自分は酷い誤解をして、彼女を無理に襲ったことになってしまうのではないだろうか。そう思うとチェスターは急に不安になった。好意だと感じていた彼女の視線や態度の全てが、自分の勘違いだとすれば。なんと言って詫びれば良いだろう。
青くなってしまったチェスターを見て、暴走気味の若者を窘めたつもりだったミランダはきつく言いすぎたかと少し顔を顰めた。しかし女としてきちんと思いも告げずに強引に唇を奪ったという話しは捨て置けない。まして相手が可愛い妹分ならなおさらだ。
(可哀相だけど、少し反省なさればよろしいわ。)
「とにかく勇気を出して正直にお話しすることですよ。私からの助言はこれにつきますわ。」