その1
「愛していると言えば、嘘になる」のスピンオフです。既読未読を問わず意味が通るように書いておりますが、うっすら本編のネタバレ的要素があります。未読の方はご留意くださいませ。
住宅街の中に小さな食堂がある。近所に住んでいる人達が気軽に通ってくる気取らない食堂だ。いかつい店主と愛想の良い妻が切り盛りしている。ときどきは店主の娘も手伝う。赤毛に明るい茶色の瞳。二十三歳になってもなお少年のような娘は気立ても元気も良いので店の人気者だが、店に出るのは多くても週に二日程だ。ミモザというその娘には本業が別にある。彼女は女中をしているのだ。まだ店が軌道に乗る前に働きに出ていた母について通った家に、食堂の手伝いが忙しくなった母と入れ替わりに雇ってもらってそのまま十年近くになる。自分の家と通っている主人の家、それらをつなぐ王都の片隅の町。そこに彼女の思い出も未来絵図も大事な人も物も全部が詰まっている。
通いの女中はミモザ一人だけ。他に彼女の休みを埋めるように時々洗濯や掃除を手伝ってくれる近所の奥さんが一人。それから、これまた週に一度くらい通ってくる庭師がいる他は決まった使用人のいない小さな家がミモザの仕事場だ。家の持ち主はローズ男爵。元々は王国の騎士だったのだが、大きな怪我をきっかけに若くして退役した。その功績と人柄を買われて今は一代男爵として国のために働いているらしい。らしい、というのはミモザには男爵の仕事がさっぱり分からないからだ。仕事らしいことといえば届いた手紙に返事を書いているくらいだ。それでもミモザを含めて使用人への給金の支払いは滞ることはないし、男爵も家族も穏やかな人柄でとても働きやすいから不満はない。むしろ、三歳や四歳の頃から母と通った家は、自分の家のように居心地が良い。
男爵様には優しい奥方がいて、自分の子供とちょうど同じ年頃だったミモザを分け隔てなく遊ばせ、可愛がってくれた。その奥方は残念なことに病を得て若くして儚くなられてしまったが、二人の息子は健在で今やいずれも立派な騎士になっている。兄のセオドアはミモザより四歳年長。弟のチェスターはちょうどミモザと同じ年。どちらも今でも使用人と主というよりも友人として接してくれる。そのおかげでミモザは子供の頃のように二人をテッド、チェットとあだ名で呼ぶ癖が抜けない。三人で話していると三人兄弟のようですらある。一度や二度はミモザも身を弁えようと努力したが、男爵も息子達は彼女を家族同然に思っており、他に口うるさいことをいう使用人もいないので、その努力は意図せず妨害されこそすれ、実ったことはない。
ミモザの一日は夜明け前に始まる。まだ暗いうちに起きだして朝一番の卵の配達に間に合うようにローズ家に行くのだ。それから朝食の支度をして家族が起きてくるのを待つ。
「おはよう。」
「おはようございます。」
朝一番に朝食の席に着くのはいつもローズ男爵。五十歳を迎えてなお真っ直ぐに伸びた背筋や家の中でも整えられた身なりに清潔感がある。口数は少ないが優しいまなざしも、時折見せるユーモアにも大人の余裕が漂い、若い女性でもつい転んでしまいそうな何かがある。十年ほど前まではミモザの憧れの王子様だった。
「おはよう。」
「おはようございます。」
次にやってくるのは兄のセオドア。しかしそれは家にいればの話で、セオドアは仕事で家を空けることが多い。短ければ数日、長ければ数カ月に渡る遠征もある。今年も半年も遠征に出ていて最近帰って来たばかりだ。不在にしている間は無事にしているかと心配になってしまうけれど、彼はいつも平然と家に帰ってくる。今朝出掛けて、夜に帰ってきただけのような顔をして半年ぶりに台所にひょいと入って来られると無事の帰宅を喜ぶ前に驚き過ぎて心臓に悪い。ミモザが止めてほしいというと神妙に頷くのだが、未だ改善の兆しはない。
男爵とセオドアは似た者親子で、穏やかで感情の波も少ない。二人は朝食の席についてからも用事がなければろくに話もしない。仲が悪いのではなく、どちらも口数が少ないのだ。
「昨日、ディズレーリ先生に会いましたよ。」
「そうか。相変わらずか。」
「相変わらずです。痛み止めが必要なら都合してくれるって。」
「ああ、最近は一段と冷え込むからな。」
男爵が騎士を退くきっかけになった怪我の後遺症で今でも冬は特に膝が痛むのだという。あまり外を出歩かないのもそのためだ。
「おはよう父さん、おはよう兄さん。おはようミモザ。」
最後に慌ただしく駆けこんでくるのは決まってチェスター。背が高く、体も決して華奢ではないのに、威圧感のない不思議な青年だ。人好きのする笑顔を浮かべて、楽しそうに話しているときの彼は、むしろ可愛くも見える。それはミモザの幼馴染としての贔屓目かもしれないが。チェスターはとにかく明るくてお人好し。こういう性格で王都の警邏役などという仕事が務まるのかと不安に思うけれど、これでも酒場の喧嘩を収めるのは得意らしい。大きな体も伊達ではなく時々王都に現れる不届き者との捕り物を演じてくることもある。家の食卓ではいつまでも可愛い末っ子にしか見えないけれど、一歩外に出ればきちんとしているのだろう。彼に会うのはローズ家の中ばかりのミモザにはその晴れ姿を拝めないことが残念ではある。
彼が現れるとやっとローズ家に本当の朝が来る。快活なチェスターは賑やかに前夜の酒場で聞いた話や仕事中にあったおかしい話しなどを披露する。給仕に控えているミモザにも話しかけてくるので、自然と一緒に会話に加わることになる。
(こういうのに慣れちゃってるから、他の家では雇ってもらえないと思うのよね。ここで一生雇ってもらえなかったら大変だわ。)
女中としての仕事はきちんとしているつもりだし、ローズ家の家族と話をするのも時間が空いている時だけだ。それでも、ミモザは家族のように自分を受け入れてくれる雇い主は他には見つからないだろうと思っていた。ミモザにとっても家族のように思える大切な一家なのだ。
「ごちそうさま。」
「ごちそうさま。」
「ごちそうさま、ミモザ。今日も美味しかった。」
食事が終われば、男爵は部屋に戻って仕事を始める。セオドアとチェスターも支度をしてそれぞれに出掛けて行く。ミモザは朝食を片付け、男爵のお昼ご飯の支度までの間に洗い物を済ませる。昼食のあとは掃除と買い物だ。家はそれほど大きくないが、それでもあっという間に夕方になってしまう。ミモザは夕食の仕込みをして、時間になったら帰る。息子達の帰りを待って遅い時間に夕食をとることが多いローズ家で夕食の世話までしているとミモザに寝る暇がなくなってしまう。ミモザが帰るまでに家族が揃わなければ、夕食の仕上げや片付けはローズ男爵や息子達が自ら行う。仮にも貴族の家の風習としては一般的ではないが、彼らは身分や格式にこだわらないうえに料理が趣味というチェスターを筆頭に、料理も片付けも危なげないのでミモザも安心して後を任せて帰ることができる。
「幼馴染のおうちで、家の人も良い人で払いだって悪くない。それは分かったわよ。でもね、ミモザ。週に五日、3人家族の家に通って、残りの二日は実家の食堂の手伝いをしてたんじゃ、新しい出会いなんて期待できないわよ。」
ミモザの数少ない友人であるハンナは呆れた様子で、ミモザを見下ろす。今日は少し早く帰っていいと言われたので夕方から服屋や靴屋をのぞいていたら偶然行き会った。二人はそのままお菓子屋に入って、店の隅のテーブルでケーキを分けあいながら話しこんでいるところだった。
「それにあんた、たまのお休みもこの辺りの小さなお店に顔を出すくらいで、大通りのカフェや人気の洋服屋にも行かないでしょう。ああいうところに出会いがあるのよ。若い女が集まるところには当然若い男も集まってくるんだから。」
確かにハンナの言う通り、ミモザは若い女の子に人気の店が集まる大通りや美しいと有名な庭園には滅多に出向かない。
「だって、欲しいものを言っておけばだいたいチェットが仕事帰りに探して来てくれるんだもの。わざわざ人混みの中にいくのは疲れるわ。」
王都中を練り歩くのが仕事の一部であるチェスターは、欲しいものを探してもらうには適任だ。その上、欲しいものができて手に入るお店を教えてもらおうと思って聞くと数日後には気を利かせて買ってきてくれてしまうのだ。おかげでミモザが本当に自分で買わないといけないものは細々とした日用品ばかりだ。そのくらいならば家の近くの小さな商店をいくつか回ればことが足りてしまう。ミモザは用も無いのに華やかに着飾った男女の集う大通りに出向く程、人混みが好きではなかった。
「もう。そんなことじゃ恋のきっかけなんて拾えやしないわ。」
ハンナは若い娘なら皆飛びつくような流行りの店にてんで興味をみせない友人をちろりと睨んだ。
「別に恋のきっかけなんて探してないもの。」
ミモザが頬を膨らますとハンナは大袈裟に首を振る。
「駄目よ、そんなことじゃ。私達もう二十三歳よ。世間的には行き遅れなの。少しは努力しないと変な男紹介されて断れなくなったらどうするの。」
「妙に実感があるのね。なんかあったの?」
「あったどころじゃないわよ。聞いて。」
よくぞ聞いてくれたと身を乗り出してきたハンナが真っ暗になってしまうまで語ったのは、いつまでも恋人もできない様子の彼女を心配して親戚が知り合いの男性を紹介してくれたという話だった。ハンナ曰く「そんな男、売れ残ってて当たり前よ。」という感じの男性であったらしく自分を安く見られたと感じたハンナは非常に憤っていたのだ。
(行き遅れねえ。)
ハンナと別れて、ミモザは一人で家路を辿りながら考える。ハンナは少し顔つきがきつくて言動もきついかもしれないが、しっかり者で情に厚い。すらりとした体つきや綺麗な瞳は女の目から見ても美しいと思う。あのくらいの美人で安く見られてしまうなら、ちんちくりんの自分など大変だと少し憂鬱になる。そばかすが年頃になっても消えず、背が低いのもあいまってどこか少年のような雰囲気が抜けないのはミモザの小さな悩みの種だ。
(でも、女の二十三歳は行き遅れっていってもテッドだってまだ一人身だし。チェットだって決まった恋人もいないし。)
一人前になるまでに時間がかかる騎士の適齢期は遅いので比べても意味がないが、それでも一緒に育った兄弟に結婚の気配がないのはミモザにとって安心の材料になる。特にチェスターに恋人の影もないというのは彼女にとって重要なことだ。
(それに恋のきっかけなんていらないのよ。もう好きな人はいるんだもの。)
ミモザは手に提げたカバンを大きく振りながら歩く。ミモザには長いこと想っている人がいる。誰にも告げていないのは許されない恋だからだ。女中のご法度に雇い主やその家族と深い仲になるというものがある。それをしてしまえば、次から別の家に勤めることもままならない。ましてはミモザの勤める先は男爵家であり身分違いでもある。実らせてはならない恋だとずっと前から気が付いているけれど、まだ諦める気になれない。毎日目の前で笑いかけてくれる相手をどうして諦めたらいいのか。いっそ恋人を作るなり、結婚するなりしてくれれば踏ん切りがつくというのに、彼にはそんな気配は微塵もない。彼は恋にはまだ子供すぎるのだと思っていた時期もあった。しかし二十三歳にもなれば子供過ぎるなんてことはない。ただ彼は、チェスターは、まだ出会っていないだけなのだろう。ミモザが彼を想うように、想いを寄せる相手に。
チェスターは母の仕事に連れて行かれていたミモザにとって唯一の同じ年の友達だった。一緒にいれば無条件に楽しい。家の近くの子供達と昼間に遊べず、他に友達がなかなかできなかったミモザの小さな世界を照らす太陽のような存在だった。チェスターは昔から明るくて優しくて、決して意地悪をしない子だったが、その良いところをそのままに成長し、難関を見事に突破して王国騎士になった。昔はミモザと同じようにお互いしか友達がいなかったチェスターの世界はもう随分広がったはずなのに、彼は今も殆どを家の中の仕事をして過ごすミモザの目新しいことも無い話しを聞いてくれる。ちょっとした気遣いで彼女を喜ばせてくれる。王都の片隅しか知らないミモザに退屈せず、彼女にそのままでいいんだよといってくれる。ミモザはどうしてもその優しさから離れられず、いつまで経ってもチェスターが彼女の変わらぬ太陽であり続けているのだ。