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オリーブオイルの空き瓶

作者: 徳多栄

 彼女と出会ったのは、お茶の水と神田の間の路地裏にある「がらくた貿易」という雑貨屋だった。

 貧乏学生の楽しみは、講義が午前中で終わる水曜日、お茶の水界隈にある楽器屋を冷やかし、古本屋を巡り、この雑貨屋でFENを聞きながら安い雑貨をあれこれ品定めして、100円・200円くらいの小物を買って帰ることだった。友人と一緒の事もあったが、水曜日のこの時間は一人でぶらぶらする事が多かった。

 彼女は、神田通りにいくつも店舗が並ぶ大きなスポーツ用品店の店員で、水曜日は早番の日。彼女もまた、仕事帰りにこの雑貨屋へ寄る事が水曜日の習慣で、何度か顔を合わせるうちに、言葉を交わすようになり、そのうち待ち合わせるように、毎水曜日ここで会うようになった。

 二つ年上で、東京で生まれ育った彼女が案内役で、あちこちにデートにも出かけた。長い休みの間に地元でバイトしたお金と、少しの仕送りでやりくりしている姿を見かねて、「私は働いてるし、自宅通いなんだから」と、出かけるときはほとんど彼女のおごりだった。

 インスタント食品や、安い定食で済ませていた食事も、彼女が度々下宿にやってきて料理を作ってくれた。台所と言っても、四畳半の部屋に作り付けられた、半畳程のスペースに、洗面所のような水回りと、丸いガスコンロがあるだけ。鍋釜のたぐいも、小さな炊飯器とインスタントラーメンをゆでるための鍋しかなかった。それでも一緒に買い物をして、出来合いの惣菜と、簡単な料理でも、普段の食事とは比べ物にならない程楽しくて美味しかった。

 ある日、スポーツ選手が遠征で使うような大きなバッグを、重そうに背負って彼女がやってきた。中には、使わずに家の押し入れに眠っていたという、貰い物のフライパンやお皿、鍋が入っていた。塩や砂糖、調味料も持ってきてくれていた。「これもこっそり持ってきちゃった」と言って取り出したのはガラスの瓶にまだ7分目程中身の入ったオリーブオイルだった。これを使ってスパゲティーを作ってくれると言う。狭い台所で悪戦苦闘しながら出来たのは、細かく刻んだニンニクとバジルを絡めて、オリーブオイルで炒めたシンプルなスパゲティー。だが、ケチャップで赤く色のついたナポリタンか、缶詰のミートソースをかけたスパゲティーしか知らない田舎者には、一種のカルチャーショックだった。

 オリーブオイルを使ったスパゲティーは、彼女が下宿に遊びにくるときの定番メニューとなり、空になったオイルの瓶は、きれいに洗われて、やはり彼女が持ってきてくれた菜箸立てになった。



 オリーブオイルの空き瓶が、3本並んだ冬の夜、学校から下宿に戻ると部屋のドアに、大家さんからの伝言メモが貼られていた。実家から電話があり、祖母が亡くなった事を伝えるメモだった。

 70過ぎて胃がんの手術を受け、その後普通の生活に戻り、80過ぎまで家事も手伝ってくれていた祖母も、足を悪くして寝付いてからは惚けも進んでいた。夏休みに帰省したときも「どなた?」と言われ、どうしていいかわからなかった。だから、夏が過ぎ、秋を迎え、冬になる頃には、覚悟が出来ていたのかもしれないし、厳しかった祖母が居なくなった事は、離れて暮らしていたからか、余計にすでにうつつごとだった。喉と胸の間にもやもやしたものが込み上げてきたが、涙は出なかった。

 大家さんに伝言のお礼としばらく帰省する旨を伝え、公衆電話から実家に連絡を入れ、彼女の仕事場に電話をかけた。スキーシーズン中で忙しい中、都合をつけて東京駅にやってきてくれた。銀行も閉まり手持ちのお金もなかったが、彼女が新幹線の切符を何も言わずに買ってくれた。葬儀が終わったらすぐに戻ってくるつもりだったし、「その時にお金返すね」と言うと彼女はうなずいた。

 彼女が「今日は仕事に戻らなくてもいい」というので、最終の新幹線で帰る事にした。1時間ほど構内の喫茶店で、コーヒーを飲みながら話をした。ついさっきまで黙っていた彼女は、急におしゃべりになった。時間が来て、ホームに上がると、また彼女はしゃべらなくなった。アナウンスが流れ、遠くに新幹線のヘッドライトが見えた。彼女は「一緒に行っちゃおうかな」とぽつりとつぶやいたが、「行こう」と言う前に「行けるわけないか」と笑った。

 ホームに列車が停まる寸前に、彼女は小指を差し出した。反射的に小指を彼女に向けると、指を絡ませ、ゆびきりをしてきた。「何のゆびきり?」と聞くと「約束はしないって言う約束」と彼女は言った。ドアが開き、列車に乗った。彼女は笑っていた。手を振っていた。1週間もしないうちに帰ってくるのにと思ったが、笑って手を振って応えた。ドアが閉まった。曇った窓を手で拭って彼女を見た。笑顔が少し歪んで見えた。


 久しぶりに会う親戚たちと何日かをバタバタと過ごし、東京に戻ろうかという時、親父から事業がうまく行っておらず、経済的にかなり厳しい状況だと打ち明けられた。結局、そのまま学校を辞め、地元に戻る事になった。彼女とは何度か電話で話してはいたが、次に会えたのは、下宿の荷物を引き上げに上京したときだった。

 もともと書棚代わりのカラーボックスが2つと、勉強机であり、食卓でもあったコタツ、後は段ボールを棚代わりに並べてあるだけの部屋だった。仕事を休んで手伝ってくれた彼女の手際よさもあって、荷造りはあっという間に終わった。配送の手続きも済み、何もない部屋に二人で座り、もうここで彼女の作ったスパゲティーが食べられないんだと思うと、無性に悲しくなってきた。


「ねえ、この前のゆびきり覚えてる?」

「うん」

「約束なんてしなくていいんだよ」

「うん」

「それを約束するのって矛盾してるかな?」

「うん」


「うん」としか言えない自分が情けなかった。格好悪いと思ったが、涙が止まらなかった。


 大家さんに鍵を返し、挨拶をした。またこっちに住むなら敷金もいらないから、ここに戻っておいで。と言ってくれた。下宿を後にして、快速を待って彼女と一緒に東京駅まで行った。彼女はまた何も言わずに、切符を買ってくれた。この前の分のお金も受け取ろうとしなかった。

 ホームで列車を待つ間、この日は「一緒に行っちゃおうかな」とは彼女は言わなかった。ただ黙っていた。列車がホームに停まり、乗り込む前に二度目のゆびきりをした。その意味はお互いにわかっていた。ドアが閉まると、彼女は手を振ろうとあげかけた手で顔を隠した。その場に座り込む彼女の姿が焼き付いたドアのガラスを眺めて、目的の駅までの2時間、そのまま立っていた。



 こんな事を思い出したのは、久しぶりの出張で上京して、最終の新幹線で帰ってきたからだろうか。ついついひっくり返した懐かしい引き出しの中身をまた収めるために、知り合いの店に顔を出し、軽く飲んだ後タクシーで自宅に戻ると、家族はみんなもう眠っていた。

 水を飲もうとキッチンに行き、コップを蛇口に近づけた時、オリーブオイルの空き瓶に立てた菜箸にあたって、瓶がカランと音を立てた。


<了>

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― 新着の感想 ―
[一言] ちょっとしたモノ、ほかの誰かにはどうでもいいようなモノに忘れえぬ思い出がこびりついて離れない。 そういう未練と言ってしまえば身もふたもない心象にこそ、物語があるのだと思います。
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