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29. 宣誓の署名欄は、埋まっていた

 閉店後の卓で、私は交付された写しの七冊目を開いていた。


 当代の巻である。行灯をひとつ増やし、竈の残り火に薬缶を載せて、頁を最初から、月末の伝票を繰る要領で一枚ずつ検めていく。写しの紙からは、まだ官報のインクの匂いがした。夜の下町は静かで、遠くで犬が一度吠え、あとは薬缶の湯気の音だけになる。昼間の王都は、二度目の号外――「新式の祈り」と「再宣誓」の一報で持ちきりだった。井戸端の話し声は低く、市場の呼び声はどこか上の空である。誰も傷つかないなら結構じゃないか、と手を合わせる人。名前を替えただけじゃないのかい、と眉を寄せる人。私の胸の奥にも、あの一報からずっと、小さな棘が刺さったままである。……なぜ、宣誓のし直しが要るのか? そもそも前回、セラフィナ様はいつ宣誓したのか? 宣誓したなんて話は聞いていないのだ。棘というものは、抜くにも場所の特定が要る。私は痛みの正体を、いつも書類で確かめることにしている。


 見つけたのは、巻頭の見返しだった。


 『次記載者』という欄が、ある。歴代の巻のどこにもない、当代の巻にだけ設けられた欄である。そしてそこには、几帳面な字で、すでに名前が記されていた。


 『セラフィナ・ロートリング 選定済』


 付記の日付は――十二年前。


 指先から、すっと熱が引いた。十二年前。財務局の帳簿にあった『装丁替ヘ 金貨二枚』と、同じ年である。装丁を替えた、その同じ手で、次の名前を書き込んだのだ。セラフィナ様は当年十七。十二年前なら、五つである。五つといえば、字より先に、飴の包み紙の剥き方を覚える歳だ。竈の前で鼻の頭に粉をつけて笑う、あの子の五歳を思う。誰の同意もなく、五つの子供の名前が、四十年帳簿の次の行の予約席に、金貨二枚の装丁と一緒に据えられていた。


 私は九年かけて、ようやく自分の席を立った。あの子は五つで、席を予約されていたのである。


 宣誓は十二年前に勝手にされていたのだ。そして新式の祈りをする上で再度の宣誓が必要になった。


 だが、新式の祈りが安全だなんてとても思えない。安全な祈りがあるのなら最初からそれをやっていたはずだからだ。


       ◇


 翌朝、私は店を開ける前に、台所のセラフィナ様へ写しを見せた。


 隠すことも、一晩考えた。けれどこれは、この子の人生の書類である。本人に無断で仕舞い込めば、私も「本人の知らないところで決める側」の仲間入りだ。それだけは、御免である。


 朝の台所はバターの匂いがして、竈の火が、写しの紙をあたたかい色に染めていた。似合わない取り合わせである。セラフィナ様は粉のついた手を前掛けで拭き、自分の名前と日付を、長いこと見つめていた。窯の中で、生地の膨らむ小さな音がする。やがて、ぽつりと言った。


「五つのとき、初めて神殿に連れて行かれたの。見学だって、言われて」


「……はい」


「綺麗な帳面に名前を書く遊びをしましょうって、優しいおじいさまが。あたし、字がまだ書けなかったから。手を、握ってもらって」


 握った手の主が誰かは、聞くまでもない。五つの子供に遊びと偽って、宣誓のサインを書かせたのである。錯誤どころの話ではなかった。


「……そっか。あたし、選ばれてたんじゃなくて。――書かれてたんだ」


 台所のあたたかい匂いの中で、私は静かに、腹の底が冷えていくのを感じた。私の怒りは昔から、熱くならない。ため息と手続きに変わるだけである。今日のため息は、九年分の中でいちばん、長かった。


 手帳の論点欄に、三行書く。『一、宣誓は偽装。二、本人は五歳。三、書かせた手』。書き終えて、気づいた。今日の私は、誰かの依頼を待って動いているのではない。着手金なら、とうの昔に受け取っている――バターの匂いのする、涙一粒である。あれはたぶん、私がこの世界で受け取った中で、いちばん重い前金だ。


       ◇


 昼過ぎ、号外より早く、下町の目が報せを運んできた。三日後、大聖堂にて再宣誓の儀。当代聖女に、新式の祈りを宣誓させ直すのだという。


 そして夕刻、店の前に、家紋入りの馬車が停まった。


 磨き上げられた黒塗りに、夕日が上等に照り返っている。往来の足が止まり、おばあちゃんが長椅子の上で、飴玉を音を立てて噛んだ。降りた家令は塵ひとつない身なりで、隙のない一礼をして、台所のセラフィナ様へ書状を差し出す。厚い紙、重い封蝋。ただし今度の蝋は、見慣れた乳白色ではない。侯爵家の、緋色である。


『我ガ家ノ誉レトシテ、再宣誓ノ儀ヲ謹ンデ拝受スベシ 父ヨリ』


 文面は、それだけだった。娘の名前を書く欄すら、ない。宛名のない命令書なら、開業このかた、ずいぶん見てきたけれど、これがいちばん冷たい気がした。セラフィナ様の指が、書状の縁で白くなる。


 理不尽は、いつも、いちばん断りにくい宛先から来る――。

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